第3話 恩人からの手紙
「そんなことがあったのか? それなら話は早い、お前にとっても恩人の娘さんになる。行ってくれるな?」
「はい。でも、その娘さんはどこに入院されているんですか?」
「いや、逗子の別荘で自宅療養しているらしい」
「別荘?」
「ああ、俺の友人は会社の社長をしてたんだが今は自宅も売却して、残された遺産と逗子の別荘があるだけだそうだ。彼女たちは今そこで暮らしているらしい。一緒にいる姉の方は今大学生で、別荘から都内の大学に通いながら妹の世話をしているそうだ」
「裕くんの恩人の娘さんがそんなことになっていたんなんて……」
美羽は気の毒な境遇の女の子のことを思うと心が痛かった。
「分かりました。で、俺はいつ行けばいいですか? 俺は映画の撮影も終わったし、まだ番宣の時期じゃないので時間は十分にありますから、いつでも大丈夫です」
「それじゃあ、急で悪いが明日行ってもらえないだろうか? 電車で行くなら切符を手配するが」
「いや、俺は自分の車で向かいます」裕星が上着のポケットの上からベンツのキーをジャラリと鳴らした。
*** 一日前の逗子の別荘 ***
30分ほどの散歩を終えて、
「今度こそ海にも行ってみようよ! すぐそこなんだもの、あの青くて大きな海を見たら明るくなれると思うよ」杏里が再び提案した。
「――私、海は大嫌いなの。パパとママを奪った海を好きにはなれないよ。それに、私だってあの海の嵐のせいでこんなことになったし。あの後パパ達が海に行かなければ、家族が一緒にいられてずっと幸せだったのに!」
「愛梨沙……。でも、あなたの足は動かす練習をすれば歩けるのよ。このままでいいはずない!
ね、いつまでも海を恨んでいたら、治ってる足でもずっと動かないままだよ!」
「私だって歩きたいよ! でも、立とうとすると動かなくなるの。胸がギューって痛くなって心臓が破裂しそうになる。怖いの」
「――でも、そのままじゃ……」
「あのね、お姉ちゃん、私、手紙を書きたいんだ……ある人に」
「手紙?」
「私、歩くことは出来ないけど、気持ちは一歩進んでみようかなって思ってたの」
「それはいいことだわ! それで、一体誰に手紙を書きたいの?」
少し
杏里は愛梨沙の言葉に思わず首をかしげたが、いつものおとぎ話のノリなのだろうと、傷付けないように同じように話に乗ってあげた。
「いいよ。私も明日は大学が休みで暇だし、あなたの王子さまに手紙を出しに行ってあげるよ!」
その晩遅くまで、愛梨沙は姉に買ってもらった綺麗な便箋に熱心に手紙を書いているようだった。
手紙なんて今まで書いたことも貰ったことも無かった。しかし、どんなに下手な手紙でも、彼ならきっと受け取ってくれるような気がしたのだ。本物の王子のような気品と優しさに溢れたあの彼なら――。
夜中になっても、愛梨沙の部屋の電気がドアの下の隙間から洩れていたので、杏里は心配になりそっとノックして耳を澄ました。
「愛梨沙、まだ起きてるの?」
しかし返事がない。杏里がドアをそっと開けて中に入ると、愛梨沙はベッドの上の備え付けのテーブルに突っ伏したままスヤスヤと眠っている。
テーブルの上には書き終わった手紙がまだ封をされずに置かれていた。
杏里は愛梨沙をそっとベッドに寝かせると、手紙をポケットに入れてテーブルを片づけて部屋の電気を消した。
廊下に出て灯りの下で宛先を見ると、封筒の表には『JPスター事務所
「海原? もしかして、あのラ・メールブルーの海原裕星のこと?」
杏里はあまりにも非現実的な相手に手紙を渡さなければならないことに困惑していた。
──海原裕星って……私だって会えるはずもないテレビの中の人なのに。
杏里が明日向かう場所は分かった。しかし、たった一ファンの一通のファンレターを、あの大スターで有名人の裕星が受け取って読んでくれるのだろうかと不安しかなかった。
翌朝早く、愛梨沙が備え付けのベルを鳴らして杏里を呼んだ。
「お早う。昨日の手紙なら私が持ってるよ」
「ありがとう。昨日書き終えたから、手紙、今日中に出してくれる?」
「そのつもりだよ。朝ごはんを食べたら直接届けに行ってくる」
「――え? 届けに行くって? 東京まで行くってこと? どうして? ポストに入れてくれればいいのに」
「ダメよ! あなたの王子さまにはたくさんファンがいるんだよ。郵便で出したら、きっと何万枚も来るファンレターの中に埋もれちゃって、本人には一生掛かっても読んでなんかもらえないわよ」
「そう、だね――お姉ちゃん、ありがとう!」
杏里は、妹のためなら何だってしてあげたい、大学がある日は妹をまた家政婦に預けなければならないのだからと、せめて休みの間くらいはずっと傍にいてあげようと思っていた。
手紙を入れたバッグをしっかり抱いてバスを乗り継ぎ、電車で約一時間、都内に着くとすぐJPスター事務所に真っ直ぐ向かって行った。
***裕星のマンション***
その夜、裕星は自分の部屋で今朝社長から預かった手紙を読んでいた。
『海原裕星さまへ』
はじめまして、私は
なので、まだ一度もコンサートに行って、裕星を直接観たことがないです。
実は、この手紙を書いたのは、最後にお願いを聞いて欲しかったからです。
私の足はもう治っているそうです。だから本当は歩く練習をすれば、いつか歩けるようになると言われました。
でも、歩けないのは、4年前に船で嵐に遭って骨折をしたり、その後、父と母が海で死んでしまって歩くのが怖くなったためです。だから、足の病気ではありません。心の病気か、それとも不治の病かも。
実は、裕星に7つのお願いがあります。願いを叶えてくれたら、歩くことが出来る気がしています。
お願いです。私の願いを叶えてくれませんか? 待っています。
阿刀田愛梨沙より
16歳の女の子からの手紙には、深刻な告白が短く一枚の便箋に簡潔に書かれていた。
裕星は4年前の船のくだりで記憶が鮮明に甦った。
あの時、その船に俺を助け上げてくれたのは彼女の両親だった。
あの時は、大型クルーザーですら大波の中では全く歯が立たず、裕星だけでなく一緒に乗っていた子供たちも、父親の操縦するクルーザーが波止場に辿り着けるまでの間、船内のあちこちにぶつかって危険な状態だった。その時、一番小さかった愛梨沙が激しく壁に叩き付けられて足を骨折してしまったのだろう。
彼女は今16歳ということは、当時はまだ12歳の少女。あの揺れに耐えられるのは大人でも無理な話だった。
その時に負った骨折だけでなく、その後、また海の事故で両親を亡くしてしまい、希望を失って歩くことに恐怖を感じているのだろうと同情した。
自分に叶えて欲しい7つの願い事があると――。自分はその願いの全てを叶えてやれるのだろうか。裕星は時間の許す限り、女の子の願いを叶えるために精いっぱいのことをしてあげようと決心していた。
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