黒龍と熊猫 8(完)



 ヴ……ン。

 低い低い常にどこかで働いているモーターの振動と耳鳴りにも似た鈍い共鳴は、温かな毛布にくるまれる感触に似ているだろうか。

 こぽぽぽ……。

 背後の水槽の循環器の作動音は、不規則ではあるがそれだけに、たゆたう半透明のクラゲたちと共、ほっ…息をつくように心地よい。

「うにゃ……」

 切りの良いところまで目を通したハードカバーの単行本を閉じたシォンは、いつものように余った袖をたくしながら伸びをする。

 娯楽品はデータで入手することも多いのだが、手にした新刊が紙製本された書籍であるのは、他でもなく――またいとこの近所に住む作家殿、手づからの署名入りであるからだ。またいとこ経由で届けられたそれには、宛名と――添えられた感謝の言葉が、少しばかりくすぐったくはあった。

「まぁ……僕には、やっぱりよくわからない世界なんだけど……」

「そうなの?」

 ふむ…ひとりこぼした溜め息を聞き留められたらしい――ひょこ…クラゲ水槽の奥から派手なネオンピンクのメッシュを入れた亜麻色の髪がのぞいた。

「ひょっとして――シォンって、色恋には疎いほう?」

「うるさいよ。セヤ」

 睨んでやるも意に介した様子もなく、あははは…軽快な笑い声をあげるのは、階下の余剰スペースを自室に改築して――すっかり、馴染んでしまったセヤだ。


 しばらく自失してしまったシォンが我に返り、周辺のセンサーやカメラの情報に割り込み、件の損傷のために生じた多くの死角を埋める作業に没頭するより先に、しかし――回復した電力と、点灯し像を結んだモニター。

 曰く――高所作業に、安全ベルトは必須だぞ……と。

 けれども、セヤをこの建物に送り込んだ者たちから逃げ切るため――この場か先のショッピングモールあたりか、いずれかの地点での事故に巻き込まれて助からなかったことにできないだろうか?……提案されて、それとなく彼の務めていた配送業者に一部区画の停電と絡めた噂を流した。

 暮らしていた部屋はそのまま放棄するしかなく、匿うついでにシォンの占有する居住空間の一階部分に仮住まいして、早しばらく――。

 記憶に残りにくい見目と言えども……と、変装代わりに髪を染める染めない似合う似合わないと十鹿シールゥーのおもちゃにされること、数日――ネオンピンクのメッシュを試し、鹿満足する頃には、ベッドマットの持ち込みからはじまったセヤの部屋作りは今さら引っ越すには面倒くさいレベルに出来上がってしまっていた。


 それとなく質してみたところ――どうやら、『ここ』を離れるつもりはないのらしい。

「なんだか心配で、気にかけておきたい子がいるからね」

 ならば、その相手の近くに居を構えればよいのに……思いはしたが――そういう心の機微は、そう簡単なものではないのかもしれない。

「でも、ほとぼりの冷めた頃に、仕事を紹介してもらえるとありがたいな」

 家賃はちゃんと払うから追い出さないでね……そして、冗談めかして言われるまでもなく、シォンとしても連絡のつきやすい場所にいてもらえる方がありがたい。

「そのこと……一馬にも話を付けておくけど、君がいいなら――僕の手伝いに優先順位をもらえないだろうか? 君との仕事は、とてもやり易くて――助かったから」

 ぱちくり…口を噤んで二度三度瞬かれるのは、何をか驚かせてしまったのかもしれない――けれど、すぐに。


「了解――」

 短い首肯とともに、右手が――差し出された。





 積んで囲って、囲って積んだ――それはただ、街ほどに育ってしまっただけの建物だった。

 桃源郷とは程遠くとも、自身を頼みとする者たちが棲み家とするにふさわしく――ただそれだけの街であれ。





                                   終わり

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