黒龍と熊猫 5


 積んで囲って、囲って積んで――街そのものが積み上がったような建築物は今も少しずつ成長している。高くそびえるとともに広がった裾野は、やがて、いくつかの建造物を独立したそれとして取りこぼし時おり回廊で繋がりながら、すっかり始まりの建物の痕跡さえも覆い隠してしまっていた。

 もう体験として知っている者はいない過去のことではあるが――けっして、記録がないわけでも秘匿されているわけでもない。ただ、もうそれを思い出す者がいないだけのこと。



 指定された従業員用の扉を抜け、さらにその奥の扉を潜り、床にある避難用のハッチから梯子を下りて、それからまた指示に従って五つ扉を開け、三度梯子と階段を下りたけれど――おそらく高さとしては五階層ほど潜ったのではないかと思う。隠し通路と言うほど大袈裟なものではないのだろうが、おそらく次に同じ経路をたどろうとしても上手くいかないのだろうという気がする。それとも、装備として渡されたものの中に、鍵の役割をするものがあるのだろうか……開錠をしなかったと思い至ったのは、最後の扉に対して手のひら認証を求められてからだった。

「暗視モードで、壁ぞいに移動して――手すりのない部分があるから、落ちないでね」

 踏み込んだそこは、ひたすら上と下に続く空間に思われた。否、それでも上側については、もう五〇メートルも向こうで天井が存在するだろうか? 壁と幾らか色の異なるそこが不規則に波打っているように思われて凝視したセヤは、うえ……嫌悪感のあるではないが溜め息を吐く頬が引きつるのを禁じ得なかった。

 もりもりと天井にかたまるそれらは、コウモリだった――。

 処理された映像で見る限りにも、おそらくは一般的に想起されるコウモリよりも明らかに色が明るく、遠目にも巨大なそれらは身を寄せ合い――今は眠っているのだろうか、静かにさやさやと揺れている。

「そのまま、まず降りれるだけ下へ……」

 左耳のインカムからシォンが声をかけるまで――少しばかり間があったように感じるのは、いまだ視界の共有を回復していないが、たぶんセヤの眼にしたものを彼は知っているのだろう。もしかしなくとも世話とまでは言わないが、周辺環境の整備は定期的に行われているのではないだろうか? それなりの頭数はいそうな獣が棲みついているわりに、不快なほどの臭いはしない。

 空洞の壁をぐるりと伝う階段は、ところどころで仕様が変わった。計画的に作られた空間ではなく、結果的に出来上がってしまった場所であって、階段はそれぞれの壁を所有者とするものであるらしい。統一感なく集まった壁は、時おり本当にわずかな隙間を生じ、意図的ではないのだろうが外の空気が流れこんでいた。

 しかしながら、下へ下へと降りるうち――少しずつ様子が変わり始める。

「シォン、もし大丈夫なら……そっちでも見てもらいたいんだけど――」

 下に潜るほどに壁を作る建物が密度を増してきたようで、まず異変を捉えたのは嗅覚だった。上ではさほど感じなかった獣の臭いと――錆の臭い。もとより暗い色をした壁の部分ではわかりづらいが、そこここに飛び散り、かなりの面積に傷んだ刷毛で乱暴に薙いだような黒い痕跡。

「でも、どうかな――。あまり……見て、気持ちのいいものじゃないかもしれない」

 しだいに足下や未だ残る高さの勢い身を寄せそうになる壁にも乾いた液体の跡ばかりでなく、獣の毛や――あまり深く追求したくない干からびかけの何かの欠片まで見られるようになってくれば、成人しているとは聞いているが……明らかにインドアであろう神経質そうな小柄な青年に積極的に見て欲しいと頼みたいものではない。

「その口調で、察したと思う。大丈夫だ――さすがに、こぼれたての臓物とかは、遠慮したいけど」

「それは、俺もよほど必要がなければ……」

 しゃべっているうちに、シォンの側で共有の手配をすませたものと思われる――ごめん、少し調整する……短い断りと共に、視界が若干明るくなる。

「コウモリが暴れたかな……」

 ここに棲む獣かつこの広いとは言えないまでも、向かい側の壁まで跳躍できるほど狭いわけでもない空間を比較的自由に往来できるとなれば、やはり翼ある彼らだろう。

「しかし、ただ暴れた程度ならここまでには……どちらかと言うと、死に物狂いに……」

「うん。おそらく、二頭が酷く争ったんだろうね」

 そろそろ縦横無尽と表現したくなる汚れの連なりを丁寧に確認していくに、叩き付けられたり強くぶつけられた身体を引きずったり、一頭ではない力が作用していることは確かだ。

「世代交代が穏やかに進まなかったのかもしれないな……」

 シォンの推測に、すでにかなり遠退いてしまった天井を見上げる――さすがにもう一個体一個体を見分けるどころかもこもことした集団の存在さえ確認が難しいが、先ほど見た限りにも大きな体格をしていれば、それなりの体重や力を持ち合わせてもいよう。

 そして、それを裏付けるように――階段の途切れる場所、床代わりに空間を塞ぐ金網は無残な大穴を開けていた。

「落ちて、送電線を切って引っかかった……?」

 覗き込めばなお暗いが――昇ってくる鼻や咽喉の奥をつく焦げ臭さの中に、控えめな表現をすれば……タンパク質の焼けた匂いが濃く混じって思われる。

「臭い、伝わらなくてなによりだよ」

「それはどうも。そちらは、ご愁傷様」

ため息をつけば、同様に――ため息交じりの同情の声が返された。

「この先は、どうしたらいい? 現場の状況を確認して応急処置をするのが、俺の仕事だろう?」

 見たところ、一面に金網が敷かれ――哀れな事故のために空いてしまった穴以外には、その下へ進むための開口部は見当たらない。

「ごめん。もうそこから入ってもらえる?」

 曰く、下方にももちろん整備管理用の出入口はなくはないのだそうだが――おそらく、件の事故の影響で周辺のセンサー含めて作動しなくなってしまっているようで。金網を天井として、ある程度まで降りることができれば、梯子や作業用の足場を飛び移ることは可能であれば――もともと、金網を一部切開するつもりではあったらしい。

「でも、その前に――もう一回、覗いてみてよ」

 託された装備を確認しようとして促されて見遣れば――瞬きの間に、暗視モードの上に何らかの波長を読み取る機能を付加されたのだろう、少し緑がかった視野のなか、ほの赤い色をしたラインが縦横斜め高低を変えてランダムに走っていた。

「さすがに、おいそれと触られたい場所じゃなくて……」

 侵入者を感知すると作動するらしい熱線レーザーは、つまるところ落下してしまったコウモリたちに反応したもの、飛行能力を持つ巨体に思いがけない被害を受け――停止信号を受け付けなくなってしまっているということか。

「まぁ、先代あたりが改修したシステムだから、古くて融通が利かないのもあるんだ――これが終わったら、僕が整備しなおすよ」

 だから……と、シォンは視野の中にスコープをさらに追加する。

「性質上、過度に壊されるのは困るから……正確によろしく」

 そう言えば、銃以外の狙撃の腕がどうのと言われた記憶がなくもない。

 預けられた装備には、セヤにとっての得物までご丁寧に準備されていて――かつて、兵役で扱った物よりほどほど軽量でありながら頑丈で扱いやすそうなそれに、少しばかり感動する。

「上から下まで、レーザーはだいたい三つの区画に分かれてる。コントローラーを触れれば、直接解除できると思うから、ともかく一番上の区画をどうにか……」

 言う間にも送られてくる、レーザーの照射装置の設置位置を記す設計時のものらしき図面。ざっと見て取るに――受信側の媒体は三方に分散しているが、照射口は若干カーブして盛り上がる一方向の壁にばかり集まっている。もっとも、実際に作動した際に反射を含むレーザーの軌道を見極められるような暇はないだろうが。

「了解――」

 ともかくは、図面から確認する照射口へのエネルギーの供給ポイントを叩くのがいいだろう……作戦を決めて、得物――スリングショットを構えた。


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