黒龍と熊猫 3


「そこの看板の隙間を入って――正面に見える階段を上ったら、左へ走って」

 左耳からの指示に従い、停電区間ではないが夜の街を模してネオンや看板に灯された明かりの間を駆け抜ける。足元まで意外と明るく見えているのは、表側をミラー処理されたインカムから繋がる厚手のバイザーがヘッドマウントディスプレイの機能を持ち、瞳の動きに従うカメラの捉えた映像をリアルタイムで処理表示しているおかげだ。なおかつ、同じ映像は、数分前に後にした部屋にいるシォンのゴーグルにも映し出されているだろう。

 違法どころかそもそもの法の保護の有無も定かでないらしいこの建築物は、お約束のように良くも悪くも一般世間を追われた者が流れ着き隠れ住んでいる場所として、実際を知らない外界の多くの人々にとっては都市伝説のひとつと思われていることが多い。実際、セヤも実在すると聞かされた時には、しばし担がれてる可能性を否定できなかった。そして、情報を集めるうちに、さすがにフィクションにあるモデルと想定したと思しき要塞のような最先端サイバー都市でも妖しく胡乱な廃墟でもないと知れれば、そんな場所もあるのだろう……納得すると同時に、少しばかり寂しいような気分にもなったものだった。

「みんな、夢を見たいんだろ――」

 いい迷惑だ……現実的な管理の一端を担う小柄な青年は、呆れた口調で特異な色をした髪を掻き上げた。さほど、商業的にも海陸空航路の要所としても利点のある立地でなければ、初期の時点で既に積極的に介入しようと名乗りを上げる公機関のいなかったようで、結果、見ないことにされているだけなのだろうが――黙認されていると理解したがる物好きも少ないわけでなく、某大国が歴史的生物学的に世界を覆しかねない古代遺跡を隠しているだの、某小国が国力を維持するための不思議な力を守っているだの、宇宙に移民する日に備えた巨大宇宙船の建造施設だの……それこそ、初等部の児童が喜びそうな陰謀論を掲げた、ごく小さな国家や野心家の牛耳る財団が送り込んだ密偵が、現在もいないわけではないという。

「探られて困る腹はないが――うちの一族を地味に監視してる輩が散見されるのがね……」

 ぼやいたとおり、セヤも訪問時に少々複雑な小道を辿って酒場の裏口のような入り口からさらに地下道をしばらく進まされたし、帰りも同じドアから退出し枝分かれのない道を歩いたと思ったにもかかわらず、最後の扉は別の区画のアパートの裏口だったりと――プライベートの安寧を確保するのに腐心を余儀なくされているのらしい。

 そして、そこからさらに――少し無駄に動き回ってもらうけど……と、シォンは言った。

「さすがに、その辺に生活の基盤を質にとられると面倒だから」

 わからいでもないと了解して現在、セヤは素直に――知っていた道、初めての道……意外なところに存在した隙間を駆け回っていた。

 まぁ、言うほどまったく無意味ではないんだろうね……。

 インカムに備えられたセンサーに、時おり反応する程度の距離――セヤ自身の感覚では、おそらく三人……連携しているようには見受けられないが、追跡者の存在を知覚する。

「どうします? 撒く方向?」

 あからさまなゴミ収集ボックスの影に駆け込みながら指示を仰げば、ふむ…思案のため息が返された。

「君、体術に自信は?」

 飛び道具に類する装備を与えられていないわけではないが、武器と呼べるものは持っていない。広い空間に乏しい場所でもあれば、対処を考えるにそのあたりの技術は要求されよう。

「一応を言うと、俺の育った国は――性別問わず兵役義務はありました」

「なるほど……」

 声色しか伺えない相手は、首を傾いだか肩を竦めたか――定かではない。しかしながら、ここ十年程度、徴兵された国民まで投入されるような戦乱は、どこにも起きてはいなのだから――教科書レベルの訓練しか経験していないことは察せられてあまりあろう……と、思ったのだけれども。

「僕は、それを君の謙遜と採るけど――反論はある?」

 耳元に返されたのは、期待を綺麗に裏切る反語を孕んだ疑問符。

「そこを出たら左の坂道を登って。途中の二つ目の路地の階段を上って右に行きつくと、昔、ショッピング街だった吹き抜けがある」

 そこで、どうにかして……さらに、諾を待たずに指示が飛ぶ。

「人使い、荒くないかい……」

 思わずぼやく――いや、それとも……?

「鷹の爪は使えるところで使ってもらわないとね――」

 安全はモニターしてるけど、あまり時間をかけていられる話でもないだろう?……語尾を上げて同意を求められる、それは確かに――停電している地域はまばらとは言え、建築物の約三分の一に及んでいるのだ。いくらかは、非常電源を持ち合わせていたり隣接する区画から借用で気もするだろうが、だからといって暢気に構えていられるものではない。

「善処しましょ……」

 背後と側面の気配を探りながら、今ここで気取られる程度の腕でない者がさらに潜んでいる可能性はないかと考える。

「この辺りのサーモグラフ映像を拾えないか?」

「防犯カメラの情報に割り込む――人間大の熱を確認すればいいか?」

なんだ。君も他人ひとのこと言えないじゃないか……苦笑のようなシォンのぼやきの届くや否や、視界に一枚フィルムを被せたように低温から高温へ、暗紫から赤へと色付けされた画像が重なる。生命反応を捕まえて一部処理されているのだろう、まばらな通行人と不自然に立ち止まる人型が数件。右側の壁の向こうに数人立ち動く姿のあるのは、バーでも入居しているのだろう。

 一瞥して、物陰を飛び出し――走る。

 反応した影は、四人――先頃からの三人に加え、件のバーの従業員用の出入り口から、飲食店の裏方とは思えない風貌の女がひとり滑り出ると物陰伝いに追ってくる。

 おそらくそれぞれに繋がりのない四人だと思いたいが、一斉に相手する羽目になるのはさすがに無理だ――レッグバッグの外側のポケットを探り、セヤが背後に投げつけるのは閃光玉。

 連動したセヤ自身のインカム内蔵のカメラはともかく、追手が高感度のカメラゴーグルを使用していればモニターの焼き付きを防ぐために機能が一時停するだろうし、肉眼であればそれこそ傷めるほどでなくとも視界を回復するまで暫し時間を要しよう。

さらに、通りの方から発光を見止めて様子を伺いにやってくる物好きや、騒ぎの気配に件のバーから出てくるほろ酔い気分の野次馬のおかげで、狭い路地を通り抜ける困難は増す。

 上手くすればひとりくらいは撒けるだろうし、途中、簡単なトラップを仕掛けて転んでもらう程度の嫌がらせもできるかもしれない。

「正直、このまま逃げきりたい……」

 もちろん、そうは問屋が卸さなく――ひゅっ…背後からの気配とゴーグルの発したアラームに身を沈めた直後、頭上を掠めた気配とともに派手な火花を放って脇の排気ダクトが爆ぜた。


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