海へ逝く

白江桔梗

海へ逝く

「……それでは、送り出しましょう」


 周りにはむせび泣く人々。煌々こうこうと照りつける太陽は水面みなもに反射し、これでもかと言わんばかりに輝きを放つ。

 人間たちは色鮮やかな景色と対照的にその身を黒一色に包んでおり、個性があるのは涙をぬぐう布切れ程度だ。まあ、私が眼前の景色から目を逸らしたくなるのはきっと、そのコントラストで目がくらむから、なんて薄っぺらい理由ではないが。

 おきょうと焼香が終わると黒服たちは故人が乗った泥船を力いっぱい押した。そして、そこに足枷あしかせを付けた伴侶はんりょが乗り込み、大海原へぎ出す。その姿を私は後ろから眺めていた。


「……バカみたい」


 そんな罵倒ばとうも波にさらわれ消えていく。都会から越してきた少女の戯言ざれごとなんて、波際の砂山のようなものだ。どれだけ強く押し固めたとて、ひと波には勝てない。

 顔を上げると、いつの間にか遠くに着いた船が沈みゆく姿が見えた。手旗信号で『今までありがとう』なんて言い残し、棺桶かんおけとともに彼は海に溶けていく。それを満足そうに眺める島民を見て酷く悪寒おかんが走り、私は手に持っていた真っ赤なスカーフを強く握り締めたのであった。


 ◇


 私がここに越して来たのはちょうど一ヶ月前の、二月一日だった。島民の何人かは用事があるとかで全員迎えに来た訳ではなかったが、第一印象は『暖かそう』だった。

 両親の仲は元々良くなんてなく、ついには『どちらについて行くか』だなんて定番の決まり文句を突きつけられた。だが、当の私はどちらにも愛着なんてなかったものだから、自身のエゴを優先する人間に育てられた私もまた、自身のエゴを優先することにした。

 母の実家でもあるこの島はあまり大きくなく、人の顔を覚えるのが苦手な私でも、三日あればほぼ全員を把握できた。だが、それは逆もまた然りであり、新しく島に住むことになった私は一躍いちやくアイドルのように持てはやされた。高齢化が進んでいる影響か、孫や娘を可愛がるような扱いであったが、向こうでの人間関係に疲れていた私は、心地良い疲労感で眠れる日が増えた。

 ――だからこそ、異常とも思えるあの儀式を初めて見た時は吐き気をもよおした。今まで私に向けていた慈愛じあいの笑みと一切変わらぬその顔で、彼らは船を押すのだ。もう、沈む運命しかないその船に乗り込み、笑っているのだ。

 私は息を飲んだ。恐怖で支配された脳から下された指令は、僅かに息を漏らすことだけだった。私の肉親は眉ひとつ変えずに、それを見ていた。今考えれば当たり前の話ではあるが、母はここで育ったのだ。幼い頃に植え付けられた『常識』は疑いもしない事実なのだろう。

 それがどうしようもなく怖くなって、私は脚を強引に動かして、山へ駆け出して行った。私もいずれああなってしまうのかだとか、海の底はどんなに冷たいんだろうとか、色々な思考が頭を過ぎった。だが、私の中に流れる血はそんなことを考える暇など与えず、あしに、心臓に流れていった。『今すぐここから逃げろ』と脊髄せきずいが告げているようにも感じた。

 少しでもいい、少しでもいいからあそこから離れたくて、整備されていない獣道けものみちき分けて進んで行った。今思えば、異常とも取れるあの空間に順応してしまうかもしれない自分が一番恐ろしかったのかもしれない。この時ばかりは親から引き継いだ唯一の自慢である、やたら目にかかるサラサラの黒髪を恨めしく思った。


「その先は崖になってるから危ないよ」


 強く、手を引かれる。その衝撃で思わず尻もちをついてしまう。その時になってようやく、山の天辺てっぺんまで到着していること、脚に切り傷のようなものが無数に付いていることに気がついた。


「君、逃げて来たの? 分かるよ。気持ち悪いよね、アレ」


 島で唯一の理解者は私を上から覗き込むように見下ろした。数刻前なら、少しくせっ毛でおさげの黒髪を羨ましいと思っただろう。


「その脚、傷だらけだね。少し待ってて、絆創膏ばんそうこうと消毒液出すから」


 私は平たい石に腰かけさせられた。彼女の背丈は私より小さく、真っ赤なスカーフが特徴的な制服を身にまとい、やけに長いスカートはすっぽりと足先までおおい隠していた。


「――見たところ君は新しく越してきた子みたいだね。なら、驚くのも無理ないよ」


 彼女は絆創膏をぺたぺたと貼っていく。私はまだ知らない人間がいたことに驚きながらも口を開いた。


「……どうしてあんなことするんですか?」


 私は同じよわいであろう少女に問いかけた。私の声は酷く震えていたが、それが冬のせいだったかなんて、語るまでもない。


「この島には言い伝えがあってね。昔ここの島民たちが海神わだつみ様によって命を救われたという伝承があったんだ。だから、死後は心優しい海神様に仕えて暮らすために、喜んでその身を海に沈めるという風習が残ったんだよ」


「いや、でもそれなら!」


 二人とも海へく必要なんてないじゃないか。そう言いかけた瞬間、彼女はくちびるに人差し指を当てた。まるで、この話には続きがあると言わんばかりに。


「だが、『最愛の人と引きがされれば、お互い仕事に集中できない。片方が死んだら片方も海へ着いて行こう』だなんて言い出した奴がいたのさ。結果残ったのが『舟渡ふなわたし』という、このバカみたいな風習だよ」


 彼女は軽蔑けいべつしたように、そう言葉を吐き捨てた。


「『それが伝統だから』なんて言葉でマスキングして、価値観を統一する。ホント、バカげてると思うよ。私にはこの伝統なんて、火葬ができなかった当時の言い訳にしか聞こえないしね。でも……本当に馬鹿なのはここから逃げられない私なのかもしれないけど。――はい、処置終わったよ」


「ありがとう……ございます」


「ふふっ、そこまでかしこまらなくて良いよ。どうせ同年代だろうし、私も気にする人間じゃないからね、お互いフラットにいこう。……って、だいぶ暗くなってきたし、そろそろ帰った方が良いよ。夜の山は危険だからね」


 その忠告を素直に飲み、帰ろうとする。だが、何となくここで約束をしなければもう会えないような……そんな気がして、引っ込み思案な私は勇気を振り絞った。


「あの、私、同年代の友達ってこの島にいないからさ。またこうして会ってくれない?」


「面白いことを言うね。『友達』じゃなくて良いのかい?」


 ぶわっと髪の毛が逆立つような感覚に襲われる。思っていたことを先に全て言われてしまったかのような、気恥ずかしい気持ちになった。


「……お友達になって、私と会ってください」


 私は蚊の鳴くような声で、ずっと喉につっかえていた言葉を吐き出す。まさか、こんな辺鄙へんぴな島で言うとは思っていなかったけれど。


「うん、こちらこそ。それじゃあ、よろしくね」


 にこりと彼女は微笑んだ。そして、君が通ってきた道は危ないからとそう言って、私の手を引いて多少整備された道を下山して行った。少し歩けば海であり、波の音が耳をでた。


「私の帰る場所はここから近くてね。ただ、道を外れるからここでお別れしよう。私は慣れているけど、来たばかりの君は明かりがないと危ないからね」


「えっと……また会えるよね」


 ふと不安になってしまって、そう声をかける。


「まあ、狭い島だからそう思わなくても会えるさ。でも……そうだね、君が会いたいと言ってくれるなら会いに行くさ。『友達』だからね」


「……なら、『約束』ね」


「ああ、『約束』だ」


 寒空の下、指切りを交わした互いの手はこごえていたが、ほのかな温もりを放っていた。


 ◆


 学校が通信制に切り替わってからはぼんやりと日常を送ることが多かったが、彼女に会ってから生活は変わった。私に無関心な親と目を合わせないように机に向かう日々は変わらなかったが、海を眺めては山を登る日が増えたのだ。

 私は相も変わらず登山に似つかわしくない格好で、夕焼けを見ながら彼女と話をした。この島では制服を着た人間は私たちの他におらず、明らかに浮いた存在ではあったが、この空間に馴染んでしまうくらいなら、この服を脱ぎ捨てたくなかった。

 彼女はこの島から出たことはないらしく、外の世界の話を聞かせると、目を輝かせてうなずいていた。ただ、いつか一緒に外に出ようと言った際、何も言わずに彼女は微笑ほほえんでいたけど。


 そして……忘れもしない三月二十二日。いつものように制服で山に登り、あの石に座る。脚をぱたぱた動かしながら、彼女を待った。

 だが、待てど暮らせど彼女が来ることはなかった。道に迷ったのかと一瞬考えたが、この島で産まれ育った彼女が道に迷うはずもない。しかし、いつも先に着いている彼女がいないのは明らかに不自然だった。

 この時になって初めて、私は彼女とこの山以外で会ったことがないことに気づいた。実は彼女は病弱で、家から出られないのかもしれない。彼女に無理を言って約束を取り付けた自分を恥じ、次に会ったら謝ろう、そう思って帰路に着こうとしたが、そんな物思いにふけっていると、いつの間にか海岸線沿いを歩いていた。

 この道は家までは遠回りだが、考え事をするにはピッタリだった。私の後を着いてくる足跡は次の一歩を踏み出す前に波にさらわれていく。靴が濡れてしまうのは嫌だったけど、それ以上に海を感じられて楽しかった。

 だが、そんな時間も長くは続かなかった。足元を見ながら歩いていた私の瞳には、海岸線沿いには似つかわしくない深紅のスカーフが映っていた。随分水を吸ってしまったようで、色は濃く見えたが、しばしの思考の後にその持ち主の顔を思い出した。

 その日からだった――彼女が姿を消したのは。


 ◆


「あの、このスカーフ見覚えありませんか?」


 次の日、私は様々な家を訪ねて回った。彼女の名前を聞いていなかったことに後悔したが、こんな狭い島なら特徴や服装を伝え、虱潰しらみつぶしに探せば見つかると楽観的に考えていた。

 ……正直、こんな人たちとは話なんてしたくなかったけれど。


「ああ、このスカーフ見覚えがあるよ」


「ホントですか!?」


 人と話すのが苦手な私は悪戦苦闘しながらも、思いの外あっさりと再会の糸口を掴むことができた。ほっと胸を撫で下ろす。


「服の仕事はアタシの専売特許だからねえ。良い生地の服を見ると、つい高ぶっちまうのさ」


「じゃ、じゃあ……!」


 それを聞いて胸が高鳴った。彼女に会ったら、開口一番なんて言おう。やはり謝罪が一番先――


「あそこの家の娘さん、偉かったねえ。いなくなった母親の代わりになんて。先月の一日だったかな? 責任感の強い良い子だったよ」


 声も、息も、口から出る全てが、何かに咳止められた感覚がした。硬いのにどろどろしていて、湿っているのに乾いていて、熱いのに冷たい。そんな、矛盾むじゅんした何かに。

 私の口は数秒の間、パクパクと開けては閉じるという無意味な行為を繰り返していた。それは脳での理解を拒み、この現実を『心』に下ろさないよう、必死に外へ吐き出そうとしているようにも思えた。

 相も変わらず、目の前の生物は笑っている。人の意志など踏みにじって、素晴らしいと賞賛しょうさんの声をあげる化け物は笑っているのだ。

 ……その時、はっきりと悟った。彼女が『気持ち悪い』と言った言葉の真意を。

 怪物に最低限の礼儀を見せ、一目散に駆け出して行った。もうどうすればいいかなんて分からなかった。私の目に映る全ては敵に見えた。

 自分の部屋という安住の地へと逃げ込むために走っていく。その先には、もう貴女はいないというのに。

 勢い良くかけて行ったせいか、気づけばあっという間に自宅に着いた。激しく肩を上下させながら自宅の扉を開けると、そこには母親という役職の人間がいた。


「……アンタ、米炊き忘れたでしょ。アタシがえ死んだらどうすんのよ」


 私はいつも通り目を合わさず、下を向いた。スカートのすそを握り締めながら、早くこの時間が過ぎ去れと思っていた。


「はあ……まあいいわ。それよりアンタ、明日も『舟渡』見届けなさいよ。前はアンタのせいで言い訳すんの大変だったんだから」


 母と主張する人間は去っていく。今さら怖いという感情もなければ、愛しいなんて感情は毛頭ない。ただ、じっと嵐が過ぎ去るのを待った。慣れたはずのこの行為も、今の私には限界だった。


 ◇


 『舟渡』が終わった後、私は考えていた。どうすればこの監獄しまから逃げ出せるのかを、どうすればあの地獄ははから抜け出せるのかを、そして――どうすればまた君に会えるのかを。

 私は母親とかいう人間のために海へ沈みたくはない。だからと言って、縁を切った元父親に今更ノコノコ会いに行くつもりもない。ただただ、答えはシンプルで、小学生でも分かることだった。

 うし三つ時。灯台の下は暗く、私のことなんて誰も見えないだろう。船着場に立ち、大きく息を吐く。

 足枷を付けると思いの外歩きづらく、非力な私には運ぶことすらできなかったため、やむを得ず断念した。ただ、足は重く、最初から足枷が付いているようで、問題はないんじゃないかと錯覚するほどだった。

 遺言ゆいごんを残すような相手もいない私は、せめて靴を綺麗きれいに整えた。まるで手を繋ぐように彼女が遺したスカーフを手首に巻き、息を吐いた。

 強く、速く鼓動こどうする心臓は荒々しい波にかき消される。この熱が冷めぬうちに私はおろかかにも、冷たく孤独こどくな海に身を任せた。

 息苦しさは今に始まったことではない。脱力感は今に始まったことではない。少しでも早くこの身が海に沈むように、この肺の中のわずかな空気も全て吐き出す。目を開けても、閉じても真っ黒な海は、私の行く末を表しているようだった。

 もしかしたら私は初めから海の中にいたのかもしれない。なんだ、だったら最初から沈めば良いだけだったんだ。私は海に還るだけなんだ。そう考えるとこの海の方がよっぽど明るいようにも思えた。

 思考も途切れ途切れになったその時、私は手首に覚えのある感覚があったことに気づいた。

 ――強く、手を引かれる。身体が急激に上昇していることが目を閉じてでも分かった。先ほどぶりに邂逅かいこうした酸素は、今まで一番、生の実感とやらを与えた。

 しかし、私の胸中に渦巻く闇は、そんな程度では消えなかった。また、大きく息を吐いて、全身の力を抜く。

 何度も何度も、彼女にとした。だが、何度も何度も、手首に巻き付いた赤いスカーフが私を執拗しつよう邪魔じゃまする。

 海を吸って重くなった服、口の中に広がる不快感、指も通らぬ程に傷んだ髪。それらにわざわざ思考を割かなくなった頃――いつの間にか私の身体は砂浜の上にあった。

 真っ暗な宙を眺めながら、虚空に伸ばした腕。その手首に巻きついたスカーフを外すと、そこには確かに誰かが私の腕を掴んだような跡が残っている。それを愛おしそうに、私は指でなぞった。

 私の頭には外の話を聞いて喜ぶ彼女の顔が浮かんでいた。私が生きたたかだか十余年、それだけで彼女は色んな表情を見せてくれた。友人と心通わせるのがこんなにも素敵なことだと教えてくれた。

 そんな友人へ贈るべきものは果たしてこの身なのだろうか。いや、きっと――

 全てがどろどろに混ざりあったこの真っ黒な海のような思考は、次第に透明になっていく。立ち上がった私の目からこぼれ落ちた涙は、いつもより酷く塩辛いのに、不思議と私の心をうるおしていった。


 ◆


 この記憶も遠い想い出になった頃、私は再びその島におもむいた。カメラと写真でかさばったやけに重いカバンをたずさえて、当時では考えられないほど大きな船に揺られながら、『今この下には、私が知っている顔はどれだけ沈んでいるんだろう』なんて考えていた。もっとも、今は都市開発の影響でこの島にも近代化のメスが入り、その文化は廃れてしまったかもしれないが。


「……間もなく到着いたします。お忘れ物がないようお気をつけ下さい」


 甲板で到着の旨を知らせるアナウンスが耳に入る。たなびく髪は鬱陶うっとうしく、赤いスカーフを使って、簡単な三つ編みにしてしまう。

 眼には見慣れたはずだった風景が映る。あのボロボロだった灯台なんて見る影もなく、新しいものに建て変わってしまっていた。――そこに悲壮感なんてものはないけれど。


「……久しぶり。会いに来たよ」


 二月一日。何にも縛られない私は、君に会いに海へ行くのだ。

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海へ逝く 白江桔梗 @Shiroe_kikyo

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