海へ逝く
白江桔梗
海へ逝く
「……それでは、送り出しましょう」
周りには
人間たちは色鮮やかな景色と対照的にその身を黒一色に包んでおり、個性があるのは涙を
お
「……バカみたい」
そんな
顔を上げると、いつの間にか遠くに着いた船が沈みゆく姿が見えた。手旗信号で『今までありがとう』なんて言い残し、
◇
私がここに越して来たのはちょうど一ヶ月前の、二月一日だった。島民の何人かは用事があるとかで全員迎えに来た訳ではなかったが、第一印象は『暖かそう』だった。
両親の仲は元々良くなんてなく、ついには『どちらについて行くか』だなんて定番の決まり文句を突きつけられた。だが、当の私はどちらにも愛着なんてなかったものだから、自身のエゴを優先する人間に育てられた私もまた、自身のエゴを優先することにした。
母の実家でもあるこの島はあまり大きくなく、人の顔を覚えるのが苦手な私でも、三日あればほぼ全員を把握できた。だが、それは逆もまた然りであり、新しく島に住むことになった私は
――だからこそ、異常とも思えるあの儀式を初めて見た時は吐き気を
私は息を飲んだ。恐怖で支配された脳から下された指令は、僅かに息を漏らすことだけだった。私の肉親は眉ひとつ変えずに、それを見ていた。今考えれば当たり前の話ではあるが、母はここで育ったのだ。幼い頃に植え付けられた『常識』は疑いもしない事実なのだろう。
それがどうしようもなく怖くなって、私は脚を強引に動かして、山へ駆け出して行った。私もいずれああなってしまうのかだとか、海の底はどんなに冷たいんだろうとか、色々な思考が頭を過ぎった。だが、私の中に流れる血はそんなことを考える暇など与えず、
少しでもいい、少しでもいいからあそこから離れたくて、整備されていない
「その先は崖になってるから危ないよ」
強く、手を引かれる。その衝撃で思わず尻もちをついてしまう。その時になってようやく、山の
「君、逃げて来たの? 分かるよ。気持ち悪いよね、アレ」
島で唯一の理解者は私を上から覗き込むように見下ろした。数刻前なら、少しくせっ毛でおさげの黒髪を羨ましいと思っただろう。
「その脚、傷だらけだね。少し待ってて、
私は平たい石に腰かけさせられた。彼女の背丈は私より小さく、真っ赤なスカーフが特徴的な制服を身にまとい、やけに長いスカートはすっぽりと足先まで
「――見たところ君は新しく越してきた子みたいだね。なら、驚くのも無理ないよ」
彼女は絆創膏をぺたぺたと貼っていく。私はまだ知らない人間がいたことに驚きながらも口を開いた。
「……どうしてあんなことするんですか?」
私は同じ
「この島には言い伝えがあってね。昔ここの島民たちが
「いや、でもそれなら!」
二人とも海へ
「だが、『最愛の人と引き
彼女は
「『それが伝統だから』なんて言葉でマスキングして、価値観を統一する。ホント、バカげてると思うよ。私にはこの伝統なんて、火葬ができなかった当時の言い訳にしか聞こえないしね。でも……本当に馬鹿なのはここから逃げられない私なのかもしれないけど。――はい、処置終わったよ」
「ありがとう……ございます」
「ふふっ、そこまでかしこまらなくて良いよ。どうせ同年代だろうし、私も気にする人間じゃないからね、お互いフラットにいこう。……って、だいぶ暗くなってきたし、そろそろ帰った方が良いよ。夜の山は危険だからね」
その忠告を素直に飲み、帰ろうとする。だが、何となくここで約束をしなければもう会えないような……そんな気がして、引っ込み思案な私は勇気を振り絞った。
「あの、私、同年代の友達ってこの島にいないからさ。またこうして会ってくれない?」
「面白いことを言うね。『友達』じゃなくて良いのかい?」
ぶわっと髪の毛が逆立つような感覚に襲われる。思っていたことを先に全て言われてしまったかのような、気恥ずかしい気持ちになった。
「……お友達になって、私と会ってください」
私は蚊の鳴くような声で、ずっと喉につっかえていた言葉を吐き出す。まさか、こんな
「うん、こちらこそ。それじゃあ、よろしくね」
にこりと彼女は微笑んだ。そして、君が通ってきた道は危ないからとそう言って、私の手を引いて多少整備された道を下山して行った。少し歩けば海であり、波の音が耳を
「私の帰る場所はここから近くてね。ただ、道を外れるからここでお別れしよう。私は慣れているけど、来たばかりの君は明かりがないと危ないからね」
「えっと……また会えるよね」
ふと不安になってしまって、そう声をかける。
「まあ、狭い島だからそう思わなくても会えるさ。でも……そうだね、君が会いたいと言ってくれるなら会いに行くさ。『友達』だからね」
「……なら、『約束』ね」
「ああ、『約束』だ」
寒空の下、指切りを交わした互いの手は
◆
学校が通信制に切り替わってからはぼんやりと日常を送ることが多かったが、彼女に会ってから生活は変わった。私に無関心な親と目を合わせないように机に向かう日々は変わらなかったが、海を眺めては山を登る日が増えたのだ。
私は相も変わらず登山に似つかわしくない格好で、夕焼けを見ながら彼女と話をした。この島では制服を着た人間は私たちの他におらず、明らかに浮いた存在ではあったが、この空間に馴染んでしまうくらいなら、この服を脱ぎ捨てたくなかった。
彼女はこの島から出たことはないらしく、外の世界の話を聞かせると、目を輝かせて
そして……忘れもしない三月二十二日。いつものように制服で山に登り、あの石に座る。脚をぱたぱた動かしながら、彼女を待った。
だが、待てど暮らせど彼女が来ることはなかった。道に迷ったのかと一瞬考えたが、この島で産まれ育った彼女が道に迷うはずもない。しかし、いつも先に着いている彼女がいないのは明らかに不自然だった。
この時になって初めて、私は彼女とこの山以外で会ったことがないことに気づいた。実は彼女は病弱で、家から出られないのかもしれない。彼女に無理を言って約束を取り付けた自分を恥じ、次に会ったら謝ろう、そう思って帰路に着こうとしたが、そんな物思いにふけっていると、いつの間にか海岸線沿いを歩いていた。
この道は家までは遠回りだが、考え事をするにはピッタリだった。私の後を着いてくる足跡は次の一歩を踏み出す前に波に
だが、そんな時間も長くは続かなかった。足元を見ながら歩いていた私の瞳には、海岸線沿いには似つかわしくない深紅のスカーフが映っていた。随分水を吸ってしまったようで、色は濃く見えたが、
その日からだった――彼女が姿を消したのは。
◆
「あの、このスカーフ見覚えありませんか?」
次の日、私は様々な家を訪ねて回った。彼女の名前を聞いていなかったことに後悔したが、こんな狭い島なら特徴や服装を伝え、
……正直、こんな人たちとは話なんてしたくなかったけれど。
「ああ、このスカーフ見覚えがあるよ」
「ホントですか!?」
人と話すのが苦手な私は悪戦苦闘しながらも、思いの外あっさりと再会の糸口を掴むことができた。ほっと胸を撫で下ろす。
「服の仕事はアタシの専売特許だからねえ。良い生地の服を見ると、つい高ぶっちまうのさ」
「じゃ、じゃあ……!」
それを聞いて胸が高鳴った。彼女に会ったら、開口一番なんて言おう。やはり謝罪が一番先――
「あそこの家の娘さん、偉かったねえ。いなくなった母親の代わりに
声も、息も、口から出る全てが、何かに咳止められた感覚がした。硬いのにどろどろしていて、湿っているのに乾いていて、熱いのに冷たい。そんな、
私の口は数秒の間、パクパクと開けては閉じるという無意味な行為を繰り返していた。それは脳での理解を拒み、この現実を『心』に下ろさないよう、必死に外へ吐き出そうとしているようにも思えた。
相も変わらず、目の前の生物は笑っている。人の意志など踏みにじって、素晴らしいと
……その時、はっきりと悟った。彼女が『気持ち悪い』と言った言葉の真意を。
怪物に最低限の礼儀を見せ、一目散に駆け出して行った。もうどうすればいいかなんて分からなかった。私の目に映る全ては敵に見えた。
自分の部屋という安住の地へと逃げ込むために走っていく。その先には、もう貴女はいないというのに。
勢い良くかけて行ったせいか、気づけばあっという間に自宅に着いた。激しく肩を上下させながら自宅の扉を開けると、そこには母親という役職の人間がいた。
「……アンタ、米炊き忘れたでしょ。アタシが
私はいつも通り目を合わさず、下を向いた。スカートの
「はあ……まあいいわ。それよりアンタ、明日も『舟渡』見届けなさいよ。前はアンタのせいで言い訳すんの大変だったんだから」
母と主張する人間は去っていく。今さら怖いという感情もなければ、愛しいなんて感情は毛頭ない。ただ、じっと嵐が過ぎ去るのを待った。慣れたはずのこの行為も、今の私には限界だった。
◇
『舟渡』が終わった後、私は考えていた。どうすればこの
私は母親とかいう人間のために海へ沈みたくはない。だからと言って、縁を切った元父親に今更ノコノコ会いに行くつもりもない。ただただ、答えはシンプルで、小学生でも分かることだった。
足枷を付けると思いの外歩きづらく、非力な私には運ぶことすらできなかったため、やむを得ず断念した。ただ、足は重く、最初から足枷が付いているようで、問題はないんじゃないかと錯覚するほどだった。
強く、速く
息苦しさは今に始まったことではない。脱力感は今に始まったことではない。少しでも早くこの身が海に沈むように、この肺の中の
もしかしたら私は初めから海の中にいたのかもしれない。なんだ、だったら最初から沈めば良いだけだったんだ。私は海に還るだけなんだ。そう考えるとこの海の方がよっぽど明るいようにも思えた。
思考も途切れ途切れになったその時、私は手首に覚えのある感覚があったことに気づいた。
――強く、手を引かれる。身体が急激に上昇していることが目を閉じてでも分かった。先ほどぶりに
しかし、私の胸中に渦巻く闇は、そんな程度では消えなかった。また、大きく息を吐いて、全身の力を抜く。
何度も何度も、彼女に
海を吸って重くなった服、口の中に広がる不快感、指も通らぬ程に傷んだ髪。それらにわざわざ思考を割かなくなった頃――いつの間にか私の身体は砂浜の上にあった。
真っ暗な宙を眺めながら、虚空に伸ばした腕。その手首に巻きついたスカーフを外すと、そこには確かに誰かが私の腕を掴んだような跡が残っている。それを愛おしそうに、私は指でなぞった。
私の頭には外の話を聞いて喜ぶ彼女の顔が浮かんでいた。私が生きたたかだか十余年、それだけで彼女は色んな表情を見せてくれた。友人と心通わせるのがこんなにも素敵なことだと教えてくれた。
そんな友人へ贈るべきものは果たしてこの身なのだろうか。いや、きっと――
全てがどろどろに混ざりあったこの真っ黒な海のような思考は、次第に透明になっていく。立ち上がった私の目からこぼれ落ちた涙は、いつもより酷く塩辛いのに、不思議と私の心を
◆
この記憶も遠い想い出になった頃、私は再びその島に
「……間もなく到着いたします。お忘れ物がないようお気をつけ下さい」
甲板で到着の旨を知らせるアナウンスが耳に入る。たなびく髪は
眼には見慣れたはずだった風景が映る。あのボロボロだった灯台なんて見る影もなく、新しいものに建て変わってしまっていた。――そこに悲壮感なんてものはないけれど。
「……久しぶり。会いに来たよ」
二月一日。何にも縛られない私は、君に会いに海へ行くのだ。
海へ逝く 白江桔梗 @Shiroe_kikyo
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