1−② 横顔を盗み見る
「西野、こっち」
桐山くんは方向を修正するように私の背中に手を添え、会社の裏側にうながした。
私の混乱などお構いなしに説明なく進んでいくので、桐山くんに合わせて私も歩いた。
裏の駐車場には社用車のほかに、一台だけ黒い車が止まっていた。桐山くんの車だ。今日は車通勤だめなはずなのに。
なんで、という疑問を声にする間もなく添えられた手に運ばれて、助手席のドアを開けられ、中にうながされ、気づくと座っていた。
再び、なんでと疑問を口にしようとしたときにはドアを閉められた。
運転席側にまわって、後ろの席に傘とバッグを放った桐山くんは、ようやく運転席に乗り込んで来た。
「なんで、車?」
「今日早出でさ、時間的に厳しかったんだよね。それで車通勤の許可とった。けっこういるよ、そういう人」
「そうなの?」
「西野もともと電車通勤だからね。中には絶対わざと予定ぶつけてんな、て人もいるよ」
桐山くんがエンジンをかけながら言う。この、距離感。この、空間。相合傘とは違う緊張感がある。
「西野、シートベルト」
「あ、はい」
車から聞こえてくる音楽は音をしぼっているのか小さい。無音よりはいいけれど、沈黙をかき消すだけの力はない。
桐山くんがギアをドライブにして、車は動き出した。
「ありがとう、よろしくお願いします」
見ていないだろうけど、頭を下げた。横をちらっと盗み見ると、桐山くんはかすかに笑っている気がした。
「西野、家、R駅のほうだったよね?」
「そうだけど…、いいよA駅で大丈夫」
「どうせ傘ないんでしょ」
「あ、じゃあ桐山くんち方面の途中のコンビニとか。そしたら私、傘買ってそこから自分で帰れるし」
「めんどくさい。つべこべ言ってないで行くよ」
桐山くんを最大限煩わせない名案のつもりだったのだけど、彼は私をちらりと一瞥して却下した。運転手にそう言われれば、私はおとなしくお世話になるほかない。
「お手数おかけします」
「全然。寒いとかあったら適当にいじっていいから」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
桐山くんの運転する姿をまじまじ見たい気持ちと、じろじろ見ているのを気づかれるのも恥ずかしい。
「R駅から近いの? なんか目印とかある?」
「え? あ、駅で大丈夫だよ」
「傘ないでしょうが。いいから」
「えっと、近くに郵便局があって」
「あー、小学校の一本向こうの通り?」
「たぶん、そう」
頭の中でうまく地図を浮かべられない私は、小学校も近くにあるので頷いておく。たぶん、間違っていないはずだ。
「オッケー、とりあえずその辺向かう」
私の方向音痴ぶりを知っている桐山くんは、織り込み済みというかんじで、鷹揚に頷いた。
「それで西野は今日、また何か巻き込まれたの?」
「え? また? 巻き?」
「残業。なんか押しつけられた? 得意でしょ?」
「得意って…。ただ南さんのミスのフォローしてただけで」
「フォローしてるうちに押しつけられたんだ」
桐山くんの中の私の印象のふがいなさ。否定しきれないところも情けない。
「気をつけないとやるのが当たり前になるよ」
「はい、気をつけます」
「何かできることある? 課長にそれとなく言っとこうか?」
「ありがとう。でも大丈夫」
「そ? 無理すんなよ」
桐山くんは面倒見がよくて優しい、ヒーローみたいな人だ。私がこんなふうに頼りないので、何かと気にかけてくれる。
ただ、それだけなのだ。桐山くんが優しいのは私が手のかかる人間だからで、私に限らずみんなに優しい。そこを間違えてはいけないのだ。
私だって、桐山くんがヒーローだからつい気になってしまうだけで、ここには恋とかそういう感情があるわけではない。勘違いしてはいけない、と自分に言い聞かせる。
桐山くんは穏やかな運転で、隣に乗っていて安心できた。そう伝えると、
「そりゃあ西野乗せてるしね。まあ、そんな荒い運転するほうじゃないけどね」
と言われた。心の中で、「西野」を「人」に変換しておく。
「普段はおっとりしてるのに運転だと隙間を縫うように車線変更してく友だちがいて、乗せてもらってなんだけど、怖かったなあ」
「運転で性格変わる人もいるって言うしね」
たわいもない会話の中、桐山くんが突然強くブレーキを踏んだ。車道に入ろうとしていた車が、ありえないタイミングで入ってきたからだ。
ブレーキを踏むと同時に、桐山くんの左腕が私を守るように伸びてきた。
「あぶな…」
さいわい、そこまでスピードを出していなかった桐山くんは、飛び出してきた車にぶつからずに済んだ。前の車はハザードランプをちかちかと点滅させると、何事もなかったように進んでいく。
「お礼言えばいいってもんじゃないんだけど」
桐山くんは大きく息を吐いて、私の前に伸びていた腕をハンドルに戻し、再びアクセルを踏んだ。
「ごめん西野、大丈夫?」
「うん、びっくりしたね」
実際、私はドキドキしていた。私の前に咄嗟に伸ばしてくれた腕。
だけど、と言い聞かせる。桐山くんはヒーローだから誰にだってそうするし、私の心臓がうるさいのはブレーキに驚いただけ。
私は桐山くんを尊敬しているだけで恋愛の好きじゃない。彼のほうは見ないように前だけを向くようにする。
信号が赤になり、車はゆっくりと止まった。
すっと伸びてきた桐山くんの左手が、私の右耳を掠めるように触れた。私の顔にかかった髪を、耳にかけ直してくれたようだった。
緊張でこわばっていたおかげで、奇声をあげずにすんだ。ただでさえ早かった鼓動がますます早くなり、うるさすぎて逆に止まってしまいそうだ。
確かめずにはいられなくて、ゆっくりと桐山くんのほうを見ると、彼は少し意地悪な、それでいて優しい笑みを浮かべていた。
「…なに?」
自分でも声が震えるのがわかった。
「なんでもないよ」
からかうような笑顔のまま、桐山くんは信号に促されてアクセルを踏んだ。
桐山くんの行動の意図がわからなくて、彼の横顔をこっそり見つめ続けた。
なに、と聞かれるたびに、なんでもないと答えた。桐山くんの横顔に見惚れていたなんて、言えるはずもなく。
(了)
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