1−① 桐山くんはヒーローがすぎる
桐山くんに近づきすぎないように歩いていたけど、ふいに傘の柄がこちら側に傾いていることに気づいた。
はっとして傘を見ると明らかに私側に傾けてくれていて、桐山くんの肩は雨に濡れていた。
「桐山くん、ごめん、傘もっとそっちに向けて? 肩濡れちゃってる」
「うん、だから西野、もっと寄って」
桐山くんは自分の肩などお構いなしに、かえってますます私に傘を向けてくる。居候の身としては、家主を濡らすわけにはいかないので、彼のほうに歩み寄る。
とはいえ、桐山くんに触れないところに近づくのが精一杯だ。
「…西野」
桐山くんは傘を持つ手を変えると、空いたほうの手で私の肩を抱き寄せた。
私はかろうじて悲鳴を飲みこんだ。
「これくらい寄ってくれないと」
すぐ上から声が聞こえる。近い。
桐山くんは少しも気にしていない様子で、意識しているのは私だけみたいだ。
傘に打ちつける雨の音や車が濡れた道路を走る音が大きいはずなのに、自分の心臓の音ばかりが響いている。桐山くんに聞こえてしまいそうだ。
桐山くんは肩から手を離したけど、離れるわけにもいかなくて、肩を寄せあったまま歩く。
顔が絶対赤くなっているから、隠すようにかすかに俯く。桐山くんにとっては、ただの人助け。意識してはいけない。
「西野、また何か巻き込まれたの?」
「巻き…? また?」
思わず桐山くんを見上げ、思っていたよりも近くて慌ててまたそらした。
顔が赤くなっているのがバレたかもしれない。暗いから大丈夫だと信じたい。
「残業。なんか押しつけられた?」
「押しつけられたというか、南さんのミスのフォローをしてて」
「フォローしてるうちに押しつけられたんだ」
「え、なんかニュアンスが…」
桐山くんの中で私は、すっかり仕事を押しつけられる人になっているらしい。否定しきれないところが情けない。
私にとっての桐山くんはヒーローみたいな人だ。残業していると手伝ってくれたり、手に負えなくて困っていると気づいて助けてくれる。
でもそれは桐山くんがヒーローだからで、ヒーローはみんなに優しいのだ。勘違いしてはいけない。自分の気持ちも。
私はヒーローに憧れているだけだ。こんなに心臓の音がうるさいのも、憧れのヒーローが間近にいるからで、これは、恋しているとか、そういうことではないのだ。
「気をつけないと、やるのが当たり前みたいになっちゃうよ」
「気をつけます…」
うすうす不安に思っていたことを指摘されて耳が痛い。
「何かできることあったら言って? それとなく課長に言っとこうか?」
「ううん、大丈夫。そこまで大げさなことじゃないし」
「そ? がんばりすぎんなよ」
「ありがとう」
桐山くんはみんなのヒーローだ。みんなに優しい。今、物理的な距離が近いからといって、けっして間違ってはいけない。
私は自分に言い聞かせながら、自分に向けられた優しさを噛みしめた。
駅まで歩く間、ぽつりぽつりとお互いの仕事の近況などを話した。すぐ真上から聞こえてくる桐山くんの声はどこかいつもより優しくて、緊張の中にも心地よさを覚えた。
ようやく駅のロータリーに入って桐山くんが傘を閉じた。明るいところで見ると、それでも彼の肩は少し濡れてしまっていた。
「やっぱり濡れちゃったね。ごめんね」
「ごめんねじゃないでしょ?」
揶揄するような桐山くんの顔。それすらもかっこいいと思う私は、どうかしている。
「…ありがとう。すごく助かった」
「どういたしまして」
ふわりと笑った桐山くんに、思わず見とれてしまう。
そんな顔、見せないでほしい。好きになってしまいそうだから。
「私コンビニ寄ってくね。傘買わないと」
うん、と返事をしつつも、桐山くんは一緒に来る。よく考えなくても、改札の横にコンビニがあったのだ。
「西野、ちょっと持ってて?」
コンビニに入ろうとした私を呼び止めて、桐山くんが傘を差し出した。私が受け取ると、桐山くんはバッグの中を探り始めた。
「西野、両手出して」
傘を手首に引っかけて、言われた通りに両手を出した。手のひら上に向けて両手くっつけて、と言われて、両手でおわんをつくるように形をつくった。
桐山くんがバッグから出した手は何かを掴んでいて、それを私の手の上で解放した。個包装タイプのお菓子が、手からこぼれそうになる。
「え!?」
「それあげる」
「…ありがとう?」
なぜ、今?
両手のお菓子から視線を桐山くんに向けると、なぜか彼はすでに歩き始めていた。
「傘、使って」
「え!? 待って」
改札を抜けていく桐山くんを追いかけようとするも、お菓子が手からこぼれそうになる。焦りながらお菓子をしまって改札に向かうと、改札から出てくる人波に、桐山くんを見失っていた。
構内のアナウンスが彼の乗る路線の電車の発車を告げ、また、私の乗る路線の電車がもうすぐ到着することを告げる。
今さらながらお菓子を与えられた意味に気づく。こんなの、ヒーローがすぎる。
私の手には、桐山くんの傘が残されていた。
(了)
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