第22話

 夏目鏡花が登場するイベントで私が最も好きなのは、読書の秋にちなんだものだ。実態としては読書と言いつつも、なぜかマラソンに駆り出されることになった鏡花ちゃんが同じルミナスガーデンのアイドル達の励ましを受けながら完走するという筋書き。

 一介の高校生ではなくアイドル夏目鏡花として彼女が矜持を示す様にはぐっとくる。正直、ちょっぴり泣いた。


鏡花『本はこれまでに私をいろんな世界に連れていってくれました。これからだってそうに違いありません。だけど……自分で頭と身体を動かして、進まないといけない時もあるんですよね。そうやってしか見ることのできない世界が、触れることのできない輝きがあるって知りました。私はアイドルなんです。そう、ルミナスガーデンのアイドル、夏目鏡花ですっ!』


 苦労の末に手に入れたライブステージ出場権を行使して、鏡花ちゃんは澄み切った秋晴れの空の下、大勢のファンたちの前で歌って踊る。彼女はもう図書室の隅っこで人知れずその美しさを潜めているような子ではなく、煌めく舞台で眩いライトを受ける少女となったのだ。




 どの教科についても赤点を無事に回避した私は、特に計画を立てぬままで夏休みに突入した。高校生の夏。かつてはそれに様々な期待を抱いていた気がする。

 ところで夏休み中の図書室の開放はすべて学校司書が行うこととなっていた。一カ月の中での数日間だけだ。エアコンも備え付けられているから、一日ぐらい涼みに顔を出そうかな。とはいえ夏となると、自習室として利用する受験生も多くなる気もする。

 まぁ、そんなことよりも。

 そうだ、私の文学少女ライフよりも重要視している事柄がある。無視できない人物がいる。それが宮沢円香だった。

 練習試合を観に行く約束はしたとはいえ、夏休みに入ったらそれまでと違って気軽に学校で話すことはなくなるのだから、会えない日が続くだろうと思っていた。そこに寂寥感はなく、夏休みってそういうものだと割り切っていた。

 これまでだって、同じ剣道部に所属していた友達ならともかく、そうではない友達と夏休みに集まることは多くなかった。お盆前に一回、お盆後に一回といったところ。それに剣道部仲間とだって別段、積極的に遊んでいた覚えもない。ほどほどにだ。

 

 けれど、円香は時間を見つけては、いや、作っては私と夏休みを共にしている。部活がほとんど午前中だけで終わるらしいので午後会いに来る。二日に一回どころか三日に二回。夏休みに入ってから、会っていない日のほうが少ないという状態だ。


 場所はなんと私の部屋。つまり私のテリトリー。文学少女にとっての図書室よりも、プライベートに満ちている空間。

 夏休み初日に遊ぼうと連絡を受けて軽い気持ちで「じゃあ、うち来る?」と返信したのがまずかった。待ち望んだ梅雨明けだったがぎらぎらとした日差しにはうんざりで、暑いから一歩も外に出たくなかったのが本音だったのだ。

 その日以来、円香は学校最寄り駅まで電車に乗ってきて、そこから徒歩で私の家までやってくる。三回目からは自転車を貸し出すことにした。さすがに炎天下を二十分、三十分も歩かせるのは忍びない。しかも午前に部活をしてからなのだ。疲れているだろうに、決まって午後二時過ぎに顔を見せる円香はいつも元気だった。

 

 私に会えるから、かな。

 行き着いた答えに自分で恥ずかしくなる。本人に直接訊かないままずるずると十日も経過しているのは、今の円香ならまっすぐに言ってきそうだからだった。つまり「なんでそんなに嬉しそうなの?」と問えば「咲希のおかげ」と言ってくる。それを想像すると熱くなる。半分は夏が悪い。きっとそう。


「試合の前日なのによく来たね」


 八月第二週の金曜日、私は玄関で円香を迎えて溜息まじりにそう言った。


「ダメだって言われたら来ないよ。試合って言っても練習試合だし、それに……」

「それに?」

「咲希はべつに、私を夜遅くまで家に留めておかないでしょ」

「当たり前」


 彼女が靴を脱ぎ、きちっと向きを揃えるのを眺める。両親は共働きで彼らの靴がそこに並ぶ頃には円香の靴はない。


「だから、帰ってしっかり眠れば疲れなんて残らない。そもそも、咲希と遊んで疲れることってない。むしろ癒されている」

「それは嘘でしょ。だらだらと話ながら勉強するかゲームするか、動画を視聴するかしかしていない。あと読書」

「でも好きな人と一緒に過ごせている」


 臆面なく言いやがる。これだ。これなのだ。夏休みに入ってから、というよりあの日の水族館デート(?)以来、いやに積極性を増した恋する乙女、それが円香なのだ。理屈としてはクラスメイトの目も耳も周りにないからこそ、言ってくるのだろう。涙目で声を震わせて告白してきた少女と同じだとは思えない。


「……麦茶、持ってくるから」


 私は円香を自分の部屋に案内させて、一人でまた階段を下る。彼女は追ってこない。私の服の裾を摘まみはしない。後ろから抱きしめてこない。そんなやり方で引きとめてまで、私から何か聞き出そうとするほどには至っていない。

 でも、もしそうしてきたら。日に日に、ぶつけられる彼女の好意。それがそのまま行為に発展したら。私はそれに抗えるのか。彼女はそのタイミングをずっとうかがっているのか。そんなふうに頭を悩ませながらキッチンで二人分の麦茶を用意した。


「え、なんで正座しているの」


 部屋に戻ると円香が中央にあるテーブル前で正座していた。そんなの初日だけだった。

 初日はそわそわしながら室内をじろじろ見回していたので「べつに面白いものないでしょ」と釘を刺したのを覚えている。事実、大した部屋じゃない。六畳間の洋室。ベッドと勉強机と本棚に三分の一が占領されていて、広い気がしない。

 円香が通い始めてから、まめに掃除するようにはなったかな。可愛さに欠ける部屋だとは自覚がある。でも何か飾るのが好きではない。ポスターやぬいぐるみ、そういうの。


「今日は咲希にお話があります」


 私は彼女の手前に座り、トレイに乗せてきたグラスの一つを彼女の前に置く。相も変わらず蝉の声がうるさい中で、彼女の口調と表情が硬いのはそのせいではないはずだ。


「穏やかでないね」


 私は麦茶を一口飲んで、喉を潤すと円香にそう言った。


「うん、穏やかじゃないこと」

「聞かせて」

「お願いがありまして」

「ふむ」

「明日ね、練習試合で活躍できたらさ」

「具体的には? 一人で100点以上得点するとか?」


 悪気なく私がそう訊ねると円香がきまりの悪い顔をした。


「20……ううん、30でどうかな」

「ちなみにこれまでバスケを三年余りやってきたなかで、個人での得点レコードってどれぐらいなの?」

「50点ちょっと。中三のときの最後の公式戦での最初の試合。相手は部員数が一桁の弱小校で三年生ゼロ人。チームとしても大差で完勝。途中からはスリーポイントも狙ってた」

「参考にならないなぁ。平均としてはどんなものなの?」


 円香曰く、個人で二十点後半を超えれば「取ったなぁ」というレベルらしい。総合得点としては多くのゲームが60から90に収まってきたという。三桁同士の試合となると、熾烈な点の取り合い、見方を変えれば双方がディフェンスに重きを置いた戦略をとれていない試合となる。「あくまで中高生の地区大会の感覚」と円香は話した。


「ようするに相手が強豪でなければ、30点ってのは現実的な活躍なんだね」


 これがサッカーだと非現実的と言える。記録上、存在しようがそれは普通ではないのは確かだ。


「それで明日の相手はどうなの?」

「先輩から、そこそこ強いって聞いている」

「そうなんだ。で、もし円香がそれだけ得点できたら?」

「咲希のキスがほしい」


 円香の真剣な眼差し。

 私は――――呆れた。


「やってきたスポーツの違い、性格の違いなのかな」

「え?」


 きょとんとする円香。弱まった眼光。瞳には不安。私はグラスを持って揺らし、からんと氷を鳴らして言う。


「そういう賭けは嫌い。悪いけれど、馬鹿じゃないのって思っちゃう。そんなので私を手に入れるつもり? ふざけないで」

「ご、ごめん」

「はぁ……。ほら、正座やめて。いい? 二度とそういう駆け引きをしないで」

「……わかった」

「あのね」


 私はグラスを置き直し、グラスの表面から移った水滴で湿った指先をつかいテーブルをなぞる。


「円香が明日、活躍しているのを見たら、ひょっとしたら間違いが起こるかもしれない。その……すごいかっこいいところ見たら、ついつい私は二人きりになったときに円香を抱きしめて自分からキスしたく思っちゃうかもって話。それはなんていうか……ぜったいにありえないとは言えないし、言わない」


 円香が生唾を飲み込むのがわかる。緊張が伝染して、私は自分の言ったことに自分で戸惑いながらも責任は持ちたいと感じていた。


「思わせぶりでごめん。でも、本心。最近の私は、円香の好きって気持ちに圧され気味。それは認める。認めちゃう」


 まだそれを恋と呼ばないけれど。それを「まだ」って考えるほどにこのまま円香の気持ちにあてられ続けていると変わりそうだった。


「な、なんか言ってよ。気まずい」


 黙っている円香を前にして私は焦る。


「私の好きを咲希が拒まない限りはチャンスがあるって思っていいんだよね。私のことをからかって遊んでいるんじゃないんだよね? 信じてもいいんだよね? 咲希のことを好きでいいんだよね……?」


 訥々と彼女は。

 人を好きになるのも嫌いになるのも自由。

 そうだと円香に言えなかった。それが彼女が求めている答えでもなければ、私が彼女にかけたい言葉ではないのはわかっていた。蝉がうるさい。あいつらは恋だの愛だのと迷わずに生きているんだろうな。それは羨ましいけれど、悲しくもある。

 

 私は自分の部屋にもう何日も、私のことを好きだと話す子をあげているのだ。彼女は私の手に触れたり、髪を撫でたりするけれど、それ以上のことはしてこない。私がそれを許せば、望めば、彼女はしてくるのだろうか。わからない。今になって友達と恋人、友情と恋愛感情の境が曖昧になってくる。キスやそれ以外の行為と紐づけて色恋を語るのがどうしようもなく阿呆に思えてくる。

 文豪たち、今ではそう呼ばれている、遠く過ぎ去った時代にを生きた彼らはいったどんなふうに恋や愛を描いたのか。私はその一部しか知らない。

 

 たとえば、夏目漱石。彼だったら令和の時代に生きる十代の少女同士の恋愛模様をどんなふうに描くのだろう?


「今、言えることは一つ」


 私は不安がる円香に微笑みかけて自分の気持ちを伝える。


「宮沢円香には、そんな弱気な表情よりも笑顔のほうが断然似合う」


 こくりと頷く彼女を見ながら私は冷たい麦茶を喉奥に流し込んで、それからやかましい蝉の鳴き声、その向こうから聞こえてくる音を拾おうとして耳をすまし、けれどそれは遠く彼方ではなくて目の前にいる女の子の声なんだとわかると、なんだか胸が熱くなった。

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