第21話
目の前の水槽を漂うクラゲ。私たちのような口も目も耳も鼻も、手足も何もかも持っていない。私が無知なだけで、ある面では私たちよりも発達した器官をその透き通った体に有しているのでしょうか。
そんなことを思ったのは私が自分の初恋について、そしてその流れであの日の階段落下事故に関して、すべてを吉屋さんに話し終えた後でした。吉屋さんはしばらく何のコメントもしないまま、私と同じくクラゲを眺めていました。
「やっぱり」
吉屋さんは溜息をすると、諦念を仄めかしてそう口にしました。
「私の初恋相手が女の子だって察していた?」
「え? ああ、えっとそうじゃなくて。やっぱり、私よりも宮沢さんって何倍も文学少女だなってね」
「そう?」
「ポエミーって表現すると、嫌かな。でも、そう感じた。校舎内を走っていた時にしたっていう音の話。私はその手の超常的な体験ってしたことないし、仮にしても今みたいに物語ることってできない」
「物語るだなんて、そんな」
「ううん、今のはまるで朗読劇だった。朗読というには静かな、明るくはない……それこそある種の音楽みたいなムードがあったけれどね」
「褒めてる?」
「どうだろう。ただ、宮沢さんの本質的な部分に触れた気はした」
「私の、本質」
「うん。わりと根暗」
容赦なくそう言って、微笑む吉屋さんに私は口を噤みました。
根暗だと面と向かって言われたことはありませんでした。小学生の時であっても。中学生になってからはずっと反対のことを言われ続けてきた覚えがあります。明るい。元気。溌剌。そうした前向きで肯定的な語句。それに慣れると、自分でもそうなのかなって。
無論、ありふれた気苦労がそこにありました。話し疲れる、聞き疲れる、関わり疲れる。でも人間関係に一切疲れない人なんていませんよね。
「さ、次行こうか」
数歩、吉屋さんは私を置いて先に進んでしまいます。次のエリアの照明が彼女に当たっており、私はまだ暗い廊下の中。
「ありがとうね」
ついてこられずにいる私に振り返って、彼女が言いました。
「え、何のお礼?」
「べつに。話してくれたことにってだけ。勝手な憶測だけれど、誰にでも話しているわけじゃないのかなって」
「吉屋さんが初めてだよ」
小学生の自分が同じピアノ教室に通っていたお姉さんに強く憧れていた、そこまでなら他の友達相手にでも話せそうです。けど、彼女への恋心を理解したのが中三のときに失恋したその瞬間にだとか、今でも彼女との思い出がピアノの音で蘇るだなんて言えない。言ったら、変な子だって思われる。普通でない。いっしょにいたくない子。好きに思わせておけばいいと割り切れないのです。そして私の思い出を汚されるのは嫌なのです。
「吉屋さんは特別だから」
私の呟きはしっかりと当人に届きました。だからきっと、彼女はさっと背中を見せたのだと思います。私は光のほうへと進み出て、彼女の隣に立ちます。
「さっきは答えられなかったね。したいよ。私、吉屋さんとキスしたい」
「ちょっ、そ、そんなの今、言わなくても」
「吉屋さんが言い出したんでしょ。照れてくれてありがとう」
「なにそれ」
気持ち悪く思っている表情じゃない。照れてくれている。だから、ありがとうってそう伝えました。強引に彼女の唇を奪う妄想、それを私は振り払ってもう一度、彼女の手をとり、順路を再び進み始めました。
もとから陸の動物、空の動物、そして海の生き物たちも好きなのか、しげしげと観察しては次の水槽に移る吉屋さん。水族館の楽しみ方ってこれで合っているんでしょうか。もっと何か、面白い話をしたほうがいいのかなとも思います。かと言って、突然に「面白い話してよ」と振られても困りますが。
いちおうストックしてきました。友達同士で話したことを朝のうちにスマホに少しだけまとめてみていたのです。でも、ウケないだろうなって。私の前で文学少女の佇まいをやめた吉屋さんであっても、私が普段からよく話している友達とは毛色が違うのです。私の友達で、ハゼの仲間と水槽越しににらめっこを一分以上続ける子いないはずですから。水槽を眺める吉屋さん、可愛いな。
「一年に一回ぐらいは来てみてもいいかもね」
常設展示の順路が終わりに差し掛かり、ソファが並んだ場所に来ると吉屋さんが言いました。
「毎日だと飽きそう。お寿司だったら別かもしれないけれど」
「ふふっ、見ると食べるじゃちがうって。ねぇ、吉屋さん。この後どうする?」
「ちょっと休憩したら、外に出ようか。それでバス停に沿って町を歩くってのはどうかな。なんにもないところだけれど、おしゃれなカフェでもあったら入ってみるとか。そういう当てのない散策ってよくない?」
せっかく高校生になったのにそうした遊び方ってしていないから、と彼女は説明します。言い換えれば、大人にまた一歩近づいたからということなのでしょう。彼女は自転車を初めて買ってもらい、乗れるようになったときのことを話します。行動範囲がぐぐーんと広がったという話。対して私は、大きな公園で小さな自転車に乗る練習を何度かした経験しかなく、乗りこなせる自信がありませんでした。向こうでは乗る機会も必要もなかった、そう私が言うと吉屋さんは驚きます。
「梅雨が明けたら、私の自転車乗ってみる?」
「いいの? 壊すかも」
「ははっ、どんな乗り方するつもりなの」
私たちはそんなことを言いつつソファに腰掛け、たわいない話をして足を休めました。午後三時を回った頃、二人で水族館を出ます。入る前よりも空から雲がなくなっていました。雨上がりの匂いが晴れの香りに。
ソファに座った時に自然と離れた手を私は繋ごうか迷ってしまいます。あんまりべたべたしても。いや、でもいっそ腕を組んでみては。などと考えていると吉屋さんが「おいていくよ」と言って進み始めるものですから、後を追いかけました。
「田舎だなぁ」
のんびりとした調子で吉屋さんはそう言い、あたりに視線を漂わせながら進んで行きます。人の気配がしない住宅街は、田園風景よりも寂しく、虚しく感じられました。若い人たちは働きに出ているか、街へと遊びに出ているか。お年寄りたちは家の奥に引き籠っている。そんな偏見に囚われつつ、私は彼女の隣を歩きます。
「さっきの宮沢さんの話じゃないけれど、こえじゃまるで世界に取り残されたみたいだよね」
「私たち二人だけ?」
「まぁ、うん」
曲がり角から自動車が現れ、のろのろと過ぎ去っていきました。
「もちろん、そんな感じがするってだけ」
「わかっているよ。ねぇ、お願いしてもいい?」
「……お願い?」
「私も、咲希って呼びたい」
「ダメって言った覚えない」
「それにね、円香って呼ばれたい」
「いいよ、円香。これでいい?」
「すんなりすぎる」
「不服?」
「どうせなら私だけの呼び方にしようかな。よっさんとかシヤサキとか」
「誰よ、それ」
呆れ顔になる吉屋さん……ううん、咲希。
まるで小学生の恋だなって。そのとき思いました。彼女から名前で呼ぶことを許され、そして彼女を名前で呼ぶのを許されて、舞い上がる私。呼称一つで、心の距離が縮まることはないだろうに、それでもそれを希ってしまうんです。
「咲希」
「うん」
「咲希ちゃん」
「うん?」
「さっちゃん」
「それはなし」
「サッキー?」
「もうっ。咲希でいいでしょ」
「円香って呼んで」
「え? 円香」
「もっと」
「なに、どうしたの。こういうの付き合いたてのバカップルがするやりとりじゃないの。私、そういう柄じゃないし、私たちはそんな間柄じゃない」
「呼んで。ダメ?」
「……円香」
私は軽く、彼女の髪に触れます。さらりと指を通すその栗色がかった髪。私が片思いしている彼女の綺麗な一部。私は胸が詰まりそうになって、そこで息を吸って、吐いて、そして頼んでみます。
「キスしていい?」
「それは……ダメ」
ぷいっと。咲希が顔を背けます。髪から離れる指。彼女の声色には恥じらいだけではない、尖ったものがありました。
「そっか、残念」
「今の私には友達以外の円香が想像できない。友達でいいって思う。友達がいいって、そう感じている」
咲希は生真面目です。わざわざ説明してくれます。黙って私を置いて進んで行きません。もっと強く押して、押してを続ければ彼女はキスの一つや二つ、許してくれるのでしょうか。そんなふうに得た彼女との特別な接触はその先へと進むのでしょうか。数多の小説を読んでいれば、不貞な描写はそう珍しくもありません。爛れた関係にこそドラマがあるのも事実でしょう。咲希との淫らなやりとりをほんのわずかに想像するだけで身体の芯が疼いてしまいます。でもそれは今はまだ、あるいはずっと、罪悪感を孕んでいるのでした。
「ごめんね、変なこと言って。約束するよ、咲希の気持ちを蔑ろにして、強引に事に及びはしない。破ったときは容赦なく私をぶちのめして」
「ああ、うん。了解」
若干、引き気味で咲希が応じます。ぶちのめすは言いすぎ、でもそうでも言っておかないと私は、いつ我慢できなくなるかわかりません。今だってこんなふうに二人きりで歩いているとそわそわするのですから。ここには魚や貝、クラゲの目はなくて。都会にはないのんびりとした空気は、私の心を穏やかに、そして軽やかにしつつも、彼女への想いを強めては私を揺さぶり、鼓動を忙しなくさせていました。
「そういえば、さ。テスト終わったら、すぐ夏休みだよね」
「赤点あったら補習があるそうだけれどね。円香は部活が、今より忙しくなるんじゃない?」
「どうだろう。うちはほどほどな部だから。先輩たちの話だと、強化合宿なんてのもないし。先月の予選で敗れたから全国どころか県大会もいけない」
「そうなんだ」
「でもね、そのぶん練習試合が組まれているんだって。そうだ、よかったら見にきてよ。まだちゃんとスタメンに戻れるか怪しいけど。それでも咲希が来てくれたら、モチベーションあがる。頑張ろうって気になれる。どうかな?」
咲希が笑います。くすくすと。
「うん、行くよ。他に外せない用事がない限り。詳しい日程わかったら教えて。くれぐれも手を抜いてベンチ行きにならないようにね。私、バスケの見方なんてわからないから、円香が出場していなかったら困る」
「出場していたら、私だけ見ればいいもんね」
今度は笑わない咲希。
私は「……だよね?」とダメ押しします。おそるおそる。
「そうだね」
「本当に思ってくれている?」
そんな面倒くさいことを訊いてしまう私でしたが咲希は「思っているよ」と返してくれました。彼女の優しさにつけこんでいる自分を今は叱責せずに、ひたむきに頑張ろうと決心するのでした。
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