第20話
十年近くぶりに訪れた水族館は記憶にあったそれよりも小さく見えた。私が大きくなったからだ。外観としては、リニューアルオープンに合わせた外装工事のおかげで、思い出よりも華やかで彩りがあった。海の生き物がキュートに描かれた壁面やデフォルメされたオブジェクト。バスを降り、雨上がりの景色の中に濡れたそれらが雲間を裂く陽光を反射し、輝いている様は神秘的だった。
「雨、上がったね」
宮沢さんが嬉しそうに言う。これから入る水族館に天候に左右されるイベントは皆無だが、しかし私もこの晴れ間を喜んだ。
エントランスにタッチパネル式の券売機があり、そこで入場券を購入して奥へと進んで行く。常設展示と期間限定展示への順路が別にあり、入場券は共通であるようだ。それに常設展示と言っても美術品などとは違って生き物であるから、季節によって様相を変えるらしい。フロアマップを確認してみるに、展示スペースは一階だけである。マップ上の写真では大型水槽が設けられているエリアでは天井がぐっと高いのがわかった。昔と同じでイルカやアシカのショーはない。珊瑚礁によって育まれた海洋環境をイメージして作られているラグーン様式の水槽がリニューアルで追加された見どころなようだ。
「期間限定の展示は体験型イベントで小学生以下向けっぽいし、とりあえず常設の展示に行こうか」
「ええ。思ったよりも空いているみたいですから、のんびきいきましょう」
私の記憶にある水族館は薄暗い廊下と小さな水槽に閉じ込められた魚たち、しかもスーパーの鮮魚コーナーに並んでいるそれらとそう代わり映えしない姿の者たちで構成されていたが、どうも今日はそうではない。
何から何まで違うわけではない。それなのに、さほど暗い雰囲気がなく、水槽を泳ぐ魚たちもどこかしっかりと生きた目をしている印象を受けた。こういう主観的な感覚はもしかすると、私の隣を歩く子にも影響されているのかもしれない。落ち着きがない様子だ。まるで水族館に一度も来たことがないみたいだ。あれ、どうなんだろう。聞いていなかった。
「宮沢さんって、水族館初めてですか」
「ばれちゃった?」
「落ち着きがありませんでしたから」
「そうかな。それは水族館とは関係ないって」
「まぁ、鮫や鰐でもいれば私も興奮したかもしれませんが」
「血の気多いね」
手に取った紙のパンフレットから察するに鮫も鰐もここにはいない。
「家族での遠出というとさ、温泉旅行や観光地巡りかな。そこに水族館や動物園って含まれていなくてね。両親揃って、生き物に関心がないっていう。吉屋さんの家はどう?」
「小学生の頃は、よく水族館も動物園も連れていかれましたよ。県内にある目ぼしい観光施設はたぶん一度は訪れています。母がそういうところに連れて行きたがったみたいで。しかも家族三人揃ってじゃないとダメだってことで、二人して有給とって。当時はそんなの知りませんでしたが」
「中学生になって、お出かけしなくなったの?」
「母と私とで大きな喧嘩をして以来、休日にいっしょに出かけるのは稀ですね。あるにはありますが。えっと、母が遊園地大嫌いなんです」
私たちは海藻にまみれた水槽を覗き込むようにして、そこに潜む小さな魚を見つけようとする。あ、いた。
「絶叫系が苦手だったり、お化け屋敷が苦手だったり、そもそも待ち時間が嫌だったり、うるさいのが嫌いだったり、等々といくらでも敬遠する理由があるんですが……母が六歳だったときに遊園地で迷子になったそうで」
「トラウマってやつ?」
「有り体に言えば。でも母は遊園地嫌いを娘の私にずっと隠していて、それまではうまく躱してきたんですよ。でも、中学一年生の春、入学して最初の休日あたりに私が行こうってせがんで。それで喧嘩になったんです。私、べつにそんなに行きたかったんじゃなくて母が嫌がるそのわけ、私の提案を拒む原因を知りたかっただけだったんですよ。今では私も遊園地ってそんなに好きじゃありません」
一口に遊園地と言ってもピンキリで、中高生が好んで行くような某有名テーマパークに無関心かどうかで言えば、多少関心がある。でも、ほら、文学少女らしくないし。
「私も迷子になったことあるからわかるな」
「まぁ、誰にもでもありますよね、一度ぐらい。なんで子供ってついつい、ふらっとどこか行ってしまうんでしょう」
「私の場合は初めて訪れた田舎町でだった。さっき言った、温泉旅行のとき」
「泣きました?」
「ふふっ、両親と再会できてからね。迷子になっている間は、怖くて逆に泣けなかった。だってね、人がまるでいなかったの。住んでいた街にはあふれていた人影。それが一切ない町並みにぽつんと放り出されて。記憶の中では、本当に誰もいなくて、なんだったら自分もいないんじゃないかって、自分が存在しているほうが間違っているんじゃないかってそう思ったぐらい。夏の終わりだったのに記憶ではまるで『十月の冷気』って感じ」
かぶりをふった私に彼女はスマホを操作し、そして私に見せてくる。『十月の冷気』というのは、どうやら十九世紀のイタリアの画家ジョン・エバレット・ミレイが描いた作品のようだ。急に言われてもわからないよ、これ。そんなに有名? 私の表情を読み取ってか、彼女が同じくミレイの代表作として名高い絵画の画像を見せてくる。『オフィーリア』、ああ、これなら見覚えがある。小学生の頃に美術の教科書で。
「何か有名な劇の一場面でしたか」
「ハムレット」
「私、それを聞く度に思うんですよね、美味しそうって」
「ふふっ。あ、今のは笑っていいんだよね?」
「はい。むしろ、冷たく『それはない』って言われたら嫌ですね。それにしても、溺死している女性の絵画を眺めるには、水族館という場所は些か不謹慎というか、妙ですね。美術館でもなければどこもかしこもアレですが」
「そうかも。じゃあ、生きているお魚みよっか」
私たちはそんなふうにお互いの話をしながら、順路に沿って歩いていった。初めて休日に遊んだときとは違って、ゆったりとした時間が流れて、宮沢さんのことを知り、私は私自身のことを彼女に伝えもした。それはどこか浮遊感のある時間だった。教室で友達と話すひと時にはない心地がしていた。
けれど、私は宮沢円香に恋をしていなかった。それは明らかだった。彼女は美しい。きっとこれからもっと魅力的な女性になるのだろうなって思う。彼女からの好意に嫌悪はない、今もなお。
彼女が歩きながら、その手を私の手と繋がっているのがなんとなくわかった。いや、なんとなくじゃない。彼女の手の動きにそういう兆しがあったからだ。でなければ、わかるまい。彼女はタイミングを見計らっている。ううん、これも違うか。勇気を出そうとしている。それはやはり裏を返せば臆していることを意味する。
私は私でそんな彼女の手をとってあげようかと思った。しかしそのことで彼女を嬉しくさせたとして、それは彼女の心を弄ぶのと同義ではないか。私は友達として、宮沢さんが好きだ。それをいきなり恋には変えられない。たぶん。恋に突き落とされたことがあれば、そうした瞬間的な心変わりもあり得ると思えるのかもしれないが、私にはない。
もしもと、何度もそしていくつも仮定する。私が既に男の子相手に恋をしていれば、より明確に彼女の告白を拒んでいたのだろうか。もしも宮沢円香が男の子だったら。もしも私が女の子との恋愛経験があったのなら。
もしもこれから先の未来で、彼女を「好き」になれたなら――――。
「い、嫌だったら離して」
とうとう彼女が私の手を掴んできた。少し汗ばんだそれを私は受け入れた。でもそれと彼女の心を受け入れるのは別だった。別なのだ。
「宮沢さんは、さ」
暗いエリアに行き着く。ああ、ひょっとしたらここは昔と変わっていないのだろうか。私がクラゲが漂う水槽の前で足を止めると、当然、彼女の足も止まる。そうか、クラゲの揺らめく姿をより幻想的に演出するために、通路は暗いのか。
「なに?」
「その……たとえばキスしたいって思うんですか、私と」
「えっ。きゅ、急だね」
「私はしたいって思わないんです」
「っ!! そ、そっか」
「待って。勘違いしないでください。宮沢さんとは、ではなくて誰ともです。たとえばクラスの子は、冗談なのか本気なのか、イケメン俳優に抱かれたいって話も時々してきますが、そういうの私にはなくて。変ですか」
「夏目さんとは?」
「私はそこまでのめり込んだり倒錯したりはしていませんよ」
私は肩をすくめる。
「鏡花ちゃんのステージを直に観ることができたら、握手会にいけたら、デートっぽいことできたらって考えはします。でもそれを現実に、真剣に考えはしたことってないです。次元が違う。文字通り」
「吉屋さんって誰かと恋したことないの?」
繋がれた手に力が込められるのを感じる。でも振りほどけない。
「微塵もないかっていうと嘘になります。相手が男の子で、小中学生のときにドキドキした経験もありますよ、人並みに。付き合うまでに至ったことはありません」
柚葉とも似た話をしたなと思った。告白したこともされたこともない。誰かと性行為に及んだ事実もない。そんなのを改まって話す機会もこれまでなかった。私が普段、教室で話している子たちは皆、そうだ。口ではどう言っていても、空気で伝わっているのだ、処女だって。もちろんと言っていいのか、クラスの中には別の空気を漂わせている子もいる。私とは、そして宮沢さんとも違うグループの子。
「宮沢さんの恋愛経験も教えてくれますか」
「……知りたいって思ってくれている? 義務感じゃなくて」
「難しい質問ですね。ええと、答えはこうです。『私のも教えたんだから、さっさと教えなさいよ。そういう面倒な質問返しをしてこないで』どうですか?」
「星見さんの真似?」
「はい。……いいえ」
「どっち?」
私は彼女の手からするりと自分の手を抜く。彼女の表情が沈む。ずっと水槽でゆらゆらしているクラゲと対照的に。
「もう敬語やめる。いいよね?」
「なぜ?」
「いちいち理由聞かないでよ」
「素の吉屋さんで接してくれるってこと?」
「まぁ、うん。なんか、そうじゃないと失礼な気がしてきた」
「私は文学少女もどきの吉屋さん、好きだよ」
「もどきって。そうだけれども。ねぇ、ひょっとして文学少女っぽくないと好きじゃなくなるの?」
「ならない。全部で吉屋さんだから」
彼女は笑った。ゆらりとその面持ちが変わるのを目にした。私が敬語をやめたことを彼女はプラスにとった。それがなぜだかくすぐったかった。
さっきのは柚葉の真似ではない。最初はそうしようかと思ったが、口にしてみればただの素の私だったのだ。わかっていたことだ。素の私と柚葉は通じるところがあるからこそ、友達になったんだって。
「ほら、早く教えてよ。宮沢さんの恋愛事情。はっきりしておくけれど、過去に男女見境なく何百人と付き合ってきている百戦錬磨の美少女ですっていうなら、私は引くよ。ドン引き」
「じゃあ、引かれないで済みそう。あ、まだ引かれる可能性はあるかな」
「……恋愛してきた相手が女の子でも引かない。そこは約束する」
私の宣言に、彼女はさらっとその髪をかきあげる。何気ない動作がこの子の美しさを引き立てる。もしも私が平凡な男の子だったら。そんな仮定は何度したっけ。
そうして宮沢さんは彼女の初恋の話を、クラゲを眺めながら語り始めた。
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