第18話
思わせぶり。それとも思い上がり?
私はつい昨日の下校直前にした宮沢さんとのやりとりを思い出しながら、朝のルーティンを済ませていた。
一本取ってみなさいよ、なんて言ったよね私。どうしてあんな挑発的な言い草をしてしまったんだろう。だって、宮沢さんが煮え切らない態度だったから。なにが「嫌いになった?」だよ。そんなことをあんな顔で言われたら、こっちだって一言、二言、ぶつけたくなるってものだ。
今日の待ち合わせ場所はこの前と同じく駅構内。時間帯は午後一番だ。
それまでの時間をつぶそうとひとまず自室の机に向かった。テスト勉強。宮沢さんとのぎくしゃくがあったから、いや、それは継続しているが、とにかく捗っていない。授業中に彼女のことを考えていたってわけではない。ないのだけれど、集中できていた教科ばかりではなく。赤点は回避したいな。
「そわそわしてどうする」
ペンを投げだして宙に独り言。
今日着ていく服は前回遊んだ時と違って、緩めの白いカットソーにデニムパンツの予定。だって暑いから。冷房がよく効いているの可能性を加味すると上に羽織るものの一つ持っていったほうがいいだろうか。サンダル、去年に買ったやつそのままだけれど、子供っぽいかな。高校生になったからといって急に大人ぶるのもかえって子供じみた発想ではあるか。
宮沢さん、どんな服で来るんだろう。どうしよう、今度こそ露出度高めで、なんかこう、アピールする感じのあれだったら。ないない。そんなタイプじゃないって。相手は私だぞ? どうもしない。私はべつにあの子の肌を見たり、さりげなく触れ合ったりすることでドキドキしないし。一ミリもしないかって言うと、わからないけれど。あの子、美人だし。スタイルいいし。柚葉と比べると胸、小さい。柚葉が大きいだけだし。でも私、胸の隆起の程度で友達の価値を決めるクソ女じゃないし。
……なにをうだうだ考えているんだ私は。
昨日、また「好き」って言われたことで意識している部分もある。そうだよ、ないと言えば嘘になる。だからついつい、考えてしまう。
好きな相手と休日に会う時に女の子がどんな格好してくるのかって。恋愛経験値が皆無なゆえに、自分では見当もつかない。
今日の宮沢さんを見て、話して、知って、何かが変わるのだとしたら。少し怖い。少しだけ。彼女を傷つけたくないって、そんなふうに思っているのは突き詰めれば自己保身だった。
ペンを拾って握る。でも力が入らず、再び投げた。お手上げ。
二次関数の最大値と最小値。軸と定義域による場合分け。似たようなのを中学生のときにもしたはずなのに、高校になってややこしくなって、一問を解くのに時間がかかる。間違える。なんだよこれって、中一の頃から勉強に対してずっと思っている。こういうのが得意だったら、宮沢さんとの距離感もきっちり測れて、私の想いと彼女の想いの差を出したり、変域を求めてたり、グラフが描けたりするのかよ。平方完成ってなによ、何にも完成していなくない?
気づけばスマホをいじって、柚葉に電話しようか迷っていた。他の関係の浅い友達とつまらない話をして落ち着くのも手ではあるが、事情を知る柚葉が最適解だって思う。私は先に、メッセージで電話をかけていいかをうかがう。三分後に「嫌よ」と返ってきたので、すぐにかけた。
「もしもし。あのね、五分でいいから」
「あんた、文字読めないの?」
「通話できない状態だったら無視するか、そう書いてくるでしょ。本気で嫌な場合はスルーかブロック」
「で? 五分で何を話すつもりなの」
柚葉の小さな溜息が電話越しでも聞こえた気がした。
「柚葉なら面白い小噺、知っているよね」
「それ、今日この後で話に困ったらあの子に振りなさい。後で反応教えて」
「笑えなかったら?」
「慰めてやりなさいよ」
「……それって、いやらしい意味?」
「斬るわよ」
電話を「切る」ではなくて刀を振りかぶった声色の柚葉だった。ここ三か月間で、そんな彼女に慣れている私は、さっきまでのそわそわがすーっと引くのを感じた。感覚バグっているな。
「そういえば」
何か思いついた調子で柚葉が言う。
「どうかした?」
「私、あんたが文学少女っぽい服を着ているのを見ていない。報告は受けたわよ、私のアドバイスに従い、それらしい服を買ってデートに臨んだってのは」
「え、見たいの?」
「馬子にも衣装を説明するのに使える」
「照れる」
「褒めていない。それで今日はどんな服なの? あんまりあの子をがっかりさせるものではないわ。上下ジャージで来られたら、あの子の気持ちも冷めるかもしれないわね。ああ、それがあんたの狙いだって言うなら止めはしない。好きになさい」
「柚葉が宮沢さんの立場だとして、私がクソダサファッションをしてきたら、恋心はパチンって泡みたいに消える?」
「私はあの子でない。あんたがあの子でないのと同じ」
「ちょっとした仮定さえ許してくれないんだ」
「ねぇ、咲希」
柚葉の声のトーンが落ちた。そして私が通話中にまたまた拾い上げて指先で回していたペンが、つるっと机に落ちる。
「あの子はどこまで考えているのかしらね」
「どういう意味?」
「もしも告白をあんたが受け入れ、交際することになっていたとして、それを大っぴらにしたかしら。しなかったでしょうね」
「……」
「表では女の子同士で付き合っていることに寛容な態度を見せる子が多かったとしても、裏ではどう言うかわからない。体育のときの着替え一つとっても、いっしょに着替えたくないって言いだす子たちが出てくるかも」
「それは……」
「差別が生まれ、虐げる者と虐げられる者。ありふれたいじめ。世界とか社会とか、それがどんなにあの子のような少数派の性的嗜好の持ち主にとって優しくなろうとしていても、それは――――」
「柚葉!」
「なによ」
「……ごめん。それ以上、聞きたくない。正しくても」
そんな仮定。そんな未来。今、聞きたいものではなかった。
「謝らないわよ、私」
クールに、彼女は。躊躇いなく告げてくる。
聞きたくなくても、知っておくべき仮定。あり得るかもしれない未来。相手が私でなくても、それに宮沢さんでなくても、クラスの中でそういったことが起こらない保証なんてない。その時、私は、ううん、私たちは誰の側に立ち、どう振る舞う? それら全部を気にかけずに彼女との関係を考えるのは能天気が過ぎる。
それを遠回しに柚葉が忠告してきたのだった。
「うん。柚葉は……冷たい人間じゃない」
むしろなんだかんだ面倒見がいい。
「咲希、そういうのをあの子に言ってあげてもいいんじゃない? 間違っていてもいい。今のあんたがあの子をどう思っているかを伝えるのかが大切よ。そう、伝え合う。もっとお互いを知らなきゃ」
「奇遇にも、それと似た話を昨日したの」
「へぇ。私はもう少し前にしたけどね」
「え、そうなの?」
「さてと、五分ね。あの子との二度目のデート、ぶつかり稽古のつもりでドンっと行きなさい。慣れているでしょ」
「それは相撲――――」
ぷつんと。通話を切りやがった。
私はスマホを置く。ペンを拾って握り直す。もうむやみに投げない、落とさない。そうやって出発時刻まで、なるべく無心で数学の問題に取り組んだのだった。
雨は弱く優しく降っていた。電車の窓からはずっと遠くの空に晴れ間が見えたのだった。そして待ち合わせ場所の駅構内には、前とは違って先に宮沢さんがいた。
あの日は私へと駆け寄ってきて可愛いと口にしてきて彼女だったのに、今日は緊張感が伝わってくる。それで私は今日の彼女を目にして受けた印象をそのまま言えずにしばらく眺めてしまっていた。
「似合っていないかな、やっぱり」
彼女が私と視線を合わせずに暗く呟いた。「その逆」と私は反射的に口にしていた。
「え?」
「逆のこと、思ったんです。宮沢さん、そのワンピースがとっても似合っていて。だからその……見蕩れちゃっていました。か、勘違いしないでくださいね、深い意味はなくて、そのままの意味ですから」
綺麗めのロングワンピース。薄水色の生地に、主張控え目なボタニカル柄。彼女の服装をそう形容したならありきたりなのに、ここにいる女の子は特別に綺麗だった。いつもながらすらりとしたシルエット。今日は結わずおろしている黒髪。私が履いているのと比べて大人っぽいデザインのサンダル。頭の天辺から足のつま先まで、どこをとってもいくらでも賛辞を送れそうな。
「あ、ありがとう」
「そんな照れた顔されると……こ、困ります」
「えっと、行こうか。バス乗り場に」
「はい」
横並びで歩くと、私は萎縮してしまう。この子、こんなに美人だったかなってそんなことも思ってしまう。ちらりと顔をうかがう。別段、前よりもメイクをばっちりきめてはいない。それにもかかわらず全体の雰囲気として今日は気合が入っている。入り過ぎている。その理由というのが私に向けられている気持ちにあると推察すると、さらに縮こまってしまった。
「○○水族館って、吉屋さんは行ったことある?」
「え、あ、うん。小さい頃に」
「半年がかりの大幅な改装が終わって、ゴールデンウイークに合わせてリニューアルオープンしたそうなんだけど……」
「それは初耳です」
二カ月前の大型連休前後でそういう情報を私は得ていなかった。もともと地域のレジャー施設に詳しいタイプではない。
「よかった。年パス持っているレベルだったらどうしようって思っていた」
「そのときは、私が宮沢さんに水族たちのこと、これでもかって解説してみせますから。ええと、ほら、クラゲは軟体動物じゃないんですよ、みたいな」
「同じ無脊椎動物でも、刺胞動物だっけ」
「そうそう。よくご存知で」
「中一の理科のときにやったなぁって」
「漢字では水に母って書くんですよね」
「他にも水に月、海に月ってのも。当て字で三文字もあったはず」
「……よくご存知で」
バスロータリーで五分も待っていると、乗るべきバスが到着して私たちは乗り込み、整理券を取って後方の席に並んで腰掛ける。私が窓側。ちなみに私たちはそのバスに使える電子マネーは所持していなかった。宮沢さんが水族館最寄りの停留所までの金額を教えてくれる。「小銭がなかったら両替しないとね」などとお節介まで焼いてくれる。
バスの乗り方ぐらいわかるって。彼女の様子をうかがうに、慣れていないのは彼女のほうで、整理券を握ってきょろきょろしていた。前に住んでいたところではバスを使っていなかったんだろうな。私もそんなに頻繁には乗らないけれどね。
「ねぇ、吉屋さん。空いていたからとりあえず座ったけど、混みだしたら譲ったほうがいいよね?」
ひそひそと彼女が言いだして、なんだか可愛く思えた。
「あそこに表示されている停留所の名前をざっと見る限り、土曜の午後にたくさん乗ってくることってないと思いますよ」
「そうなの?」
「観光地も大きな病院も学校もなさそうなので。ぜったいにとは言いませんが」
「そうだね。あと一ついい?」
「なんですか」
「停車ボタンは私が押すから」
それを私一人に表明されても。
まだ緊張が抜けていないんだな。ますます可愛いやつ……深い意味はない。ないったら、ないのだ。
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