第17話

 金曜日の放課後、図書室の閉室作業を完了させて昇降口へと向かう。梅雨明けはまだ先だ。真夏へ進むたびに長くなっていく昼間の時間、けれど空は雲に覆われていた。下足箱までやってきて足が止まる。出入り口に見知った背中が見えたから。

 短めのポニーテールは、春と比べるとその尾を伸ばしつつある。その黒髪が、他の子よりも綺麗に思えるのはどうしてだろう。その艶やかさに目を奪われていると、彼女が振り返った。完治した左腕で小さく手を振ってくる。ぎこちない微笑み。


「みんなとは帰らなかったんですか、宮沢さん」


 終礼直後の教室で彼女が友達数名と自習するためにしばらく残るというのを耳にした。ここしばらくは私に向けられていない明るい顔と陽気な声で彼女が答えるのを尻目に図書室へと向かった私だった。彼女たちは図書室に来なかった。テスト対策期間だけが唯一、図書室が賑わう時期と言える。ただし、自習室が改装されて以来、そっちに行く生徒も多く、あのちっぽけな図書室に入り浸るのを好む生徒は少ない。不良生徒の溜まり場になっていないのが救いだ。司書とは何度かそういう会話をしたっけ。


 宮沢さんが近づいてくる。手に握られている傘は一切濡れていない。色は濃紺で光沢感のある素材にチェック柄。安物ではないみたい。 


「吉屋さんを待っていたの」

「いっしょには帰れないのに?」 

「吉屋さんは自転車通学だもんね」

「ええ」


 とうの昔に教えたことだ。そう、最初に図書室で会ったときに。三週間。たったと言ってしまうには、私には果てしなく遠い。宮沢さんにはどうなんだろう。

 私は外履きに履き替えると、宮沢さんといっしょに外に出ようとした。でも、彼女が止まる。ちょうどさっきまで待っていた地点で足を止める。後、二歩踏み出せば雨の世界。私は折りたたみ傘を開くのを中断する。雨合羽は屋根付き駐輪場に停めてある自転車の上で干してある。いつも生乾きなのはしかたない。


「明日のことならちゃんとわかっています。何か変更がありましたか」


 月曜日のカフェの一件でなぜか私は明日の土曜日に彼女から遊びに誘われている。待ち合わせ場所と時間、そして行先が水族館であるのを伝えてきたのはつい昨日だった。水族館。雨天でも楽しめるスポットだろう。とはいえ、この土地にずっと住み続けている私としては最寄りの水族館がさほど有名な場所ではないのは把握しているのだけれど。そこではイルカやアシカのショーなんてしていない。遠出する気なんだろうか。確かめていない。『わかりました』と返して、そこでメッセージアプリのやりとりは終わっている。

 ううん、ちがう。最後に彼女が『ありがとう』と送ってきて、それで何も返せずに終わったんだ。


「今のうちに話しておきたいことがあるんだ」

「明日ではダメ、そして電話やメールではダメなこと。そう解釈しても?」

「うん。私の……嘘について」


 それって。

 私は折りたたみ傘を握りしめる。でも見るからに私以上の力で彼女が彼女自身の傘をぎりぎりと握りしめていた。

 嘘? もしかして彼女の想いは、私への恋心は……瞬く間に広がる憶測は彼女の次の言葉で砕かれる。


「私がした怪我。階段での落下、私はそれをあたかもバスケ部の子のせいだって、吉屋さんに話したよね」

「それで私は、そのことを二人の秘密なんてしていないで学校側に話すべきだと進言し、それを宮沢さんは却下しました。私はそんなあなたをお人好しを通り越して愚か者だと思っていました」

「愚か者には違いないよ」

「あれが……嘘だったんですか」


 なぜこのタイミングでそれを打ち明けるのか。察しがついてしまった。宮沢円香という少女をそこまで深く知らないくせして。

 ――――明日、百パーセントの彼女で私に挑むため。

 やれやれ、この表現では試合でも一戦するみたいね。彼女からすると勝負という感覚はあるのかも。いずれにせよ、明日の「デート」のために、その障害となるような心残りってのを解消するべく、彼女はここで待っていた。火曜日から木曜日の放課後にだって機会をうかがっていたのだと思う。けれど、結局はこのタイムリミット直前まで持ち越されたわけだ。


「確認していいですか。それはつまり、他にバスケ部以外で犯人がいるのではなく、あくまで事故だった、そういうことですか」

「そう。私が……あの日の私の不安定な精神が引き起こした事故」

「不安定な精神?」

「自分でもうまく説明できない。身体的な疲労も合わさってのものだと思う」

「そうやって今では理性的に分析できている事故だったんですね」

「うん」


 彼女自身、そして私が心配していた事項に関する進展だというのに、私の声も彼女の声も遠く聞こえた。雨にかき消されていないのが不思議なぐらい。


「原因説明が適切に行えなくとも、偽っていいことにはなりません。聡明なあなたのことだから、わかっていますよね?」

「……うん。ごめんなさい、私は吉屋さんを騙していた」

「そこには何か意図があったのですか」

「最初はなかった。冗談だよ、って言ってしまえばそれでよかった」

「後からでてきたとでも?」


 これではまるで尋問だ。しかし彼女は臆せず、むしろそれを望んでいる。だから私もすっかり慣れた口調で彼女に問い、その真意を得ようとする。


「私を心配してくれる吉屋さんを見て、言い出しづらくなっていた。言わなければ、かまってくれる。私を見てくれる。行動してくれるかもって」

「それこそ嘘でしょう。私が本気で心配性だったら、とっくに一人で密告や捜査に乗り出しています」

「今のでそういうことをしていない裏はとれたかな」

「……小賢しい真似を」


 彼女が私へと一歩近づく。勇敢な進軍とは言い難い。その表情にはその日初めて迷いが現れる。それが声の震えにも直結する。不安定な精神、か。こんなの教室にいる宮沢円香じゃない。


「嘘つきの私のことを嫌いになった? もう明日に顔を合わせたくないって思った? 教えて、吉屋さん。私に教えてほしい。私のことを嫌う人を無理に付き合わせたいって思わない」

「はい、そこまで」


 私はいつか彼女がそうして見せたように、人差し指をピンっと立てて彼女の前へと突きあげた。あわやその指木先が彼女の唇に触れそうになるとろこで、彼女が飛び退く。もとより触れるつもりはなかったが、そうも過剰に反応されるのも複雑な気持ちだ。


「へらへら笑って、あれは嘘だったのと言われたらこの傘で正面打っていますよ。二本先取どころか、百本取っています。でも、今の面構えの重さを見たらそんなのできっこありません」


 ぶんっと私は折りたたみ傘を縦に振って、空を切る。そのまま曇り空を切って、この子の顔を晴らせればいいのに。


「嘘も方便と言いますし、あなたの命を狙う輩がいないほうがいいに決まっています。そんなふうに思える程度には、宮沢さんを嫌っていません。……好きですよ。これがあなたが求める好きと違うのは誰も悪くない」

 

 宮沢さんは黙ってしまう。不器用な子。また一つ、彼女を知る。


「インストールしました?」

「え……」

「していないんですか、シス庭。『シスターズガーデン-Brilliant Diva-』ですよ。忘れたとは言わせません。教えたじゃないですか、あの時。それに聞きましたよ、確かに。腕が治ったらインストールしてくれるって。さっきの嘘は許してもその嘘は許しませんから。いいですか、明日にまで予習しておいてください。なんだったら明日、レクチャーしてあげてもいいですけれど」


 私は目を泳がせる彼女に今度は折りたたみ傘を突きつける。


「私の好きなもの知ってくださいよ。それで私に宮沢さんの好きなもの、もっと教えてくださいよ。そうしていかないとビミョーな関係、ビミョーな距離感のままで、私たちは腹を探り合って過ごしていくだけじゃないですか。それは嫌なんです。嫌だって思っているんです、このまま宮沢さんと疎遠になるのは。本気の好きを、私から一本でも取ってみる気が、その覚悟があるならうじうじしないで。いい? 私は文学少女であって、小説の中の手に届かない女の子じゃないんだからね」


 まくし立てた。柚葉みたいな圧はかけられないけれど、まっすぐに切り込むことはできると信じて、言いたいことを言った。


「ずるい……ずるいよ、吉屋さん。そういうの。もっと好きになる。誰にもとられたくないって思っちゃうよ」


 宮沢さんが目元を手で隠すようにしてそう言ってくる。

 張り詰めた糸は切りやすく、切られやすい。私たちの間にあった空気が弛緩するのを感じた。雨の勢いさえ弱まったふうだ。

 

「明日、楽しみにしているんで」


 私は傘を下ろし、そして開く。駐輪場と校門の方向は違う。宮沢さんとはここでお別れだ。私は彼女の返事を待たずに雨の下へと踏み出した。




 鏡花ちゃんのSSRの一つに、しとしとと降る雨の中で和傘を差して和服を着こんでいる姿のものがある。グラビアの撮影だ。濡れていないはずなのにその髪と、そして表情はしっとりとしていて妖艶という語がぴったりだ。ちょうど今と同じく梅雨の時期に実装されたカードだ。背景も伝統的な日本家屋の並ぶ街並みで、明言されていないが歴史的景観の保存地区めいている。

 カードメモリアルを解放することでそのカードにちなんだショートストーリーを閲覧できるのだけれど、その和傘和服のSSRでは鏡花ちゃんの雨に対する感じ方の変化が語られる。

 ルミナスガーデンに所属以降もダンスレッスンでは他の子よりも苦労している彼女であるが、運動は昔から不得意であり、運動会の時期になるとよく雨天中止を祈っていたらしい。逆さづりのてるてる坊主、すなわちふれふれ坊主だったりあめあめ坊主などとも称されるあれを作って吊るしてもいたのだとか。

 そんな鏡花ちゃんだったが、アイドル活動をしていくうちにライブや諸々のイベントの日にはどうか晴れてほしいと真剣に願うようになった。屋内イベントであっても遠方から来てくれるファンの方々がいることや足元が悪いと転倒の恐れが云々と彼女なりにあれこれ考えた結果だ。


鏡花『晴れ舞台には晴れがいいので、なんて。えへへ……』


 SSRカード、つまりは撮影中のアンニュイな表情とは違ってあどけなくはにかんだ顔は私の心も明るくしたものだった。

 明日――――水族館、雨でも問題ないけれど、どうせなら晴れてほしい。そんなことを思いながら私は予報にある雨マークとにらめっこするのだった。

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