第16話

 源氏物語は読み通すのを何度か諦めています。ましてや文語そのままで触れたいと思いませんし、注釈書の類から読むこともなく。

 現代語訳に限定しても百年以上の歴史を持ち、三十以上の言語にも訳されて世界で愛されている長編物語。その文学史における位置づけや影響力を、簡単に調べてみればみるほどに、読んでみようという気が失せたのが私でした。

 中学一年生の時に、国語を担当していた先生が「私は教育学部ではなく文学部卒だけど、在学時代に源氏物語にどっぷりはまっていた友達がいたわ。そのあまりの傾倒ぶりから、シキブってあだ名されていた。本人はどうせ呼ばれるなら若紫がいいみたいなことを言ってはいたけど」と話していたのを覚えています。


 源氏物語に意識して触れずとも、読書をするうちに自然とその内容の一部を私は知ることになりました。それだけこの文学作品に深い興味を抱く作家が多いという証拠なのでしょう、別の小説中にも源氏物語からのエピソードを引用したり、その成立年代や長さを尺度として用いたりしているのです。

 たとえば光源氏の初恋の相手は亡き母によく似た藤壺ですが、その姪で藤壺の面影がある十歳の少女と邂逅して「うち語らひて心のままに教え生ほし立てて見ばや」と思う場面。

 吉屋さんとの初デート――――今となってはそんな言い方をするの胸が潰れる思いもしますが――――の最中で、私が考えていたのはその場面の光源氏と似たようなことでした。つまり、吉屋さんが二次元の文学少女アイドルに憧れているのを知ったとき、私はあたかも彼女をプロデュースしたいという気持ちに駆られました。

 アイドルにではありません。彼女が志すままに文学少女として私が導き、そして私では纏うことのできない文学少女特有の色香を身につけさける。そうして私たちは恋に落ちる……ある意味で私だけのアイドルとも言える、そんなふうに彼女を仕立てることができたなら。

 これが邪でくだらぬ空想、夢浮橋と喩えるのも憚れる下心の産物であると気づいていました。

 

 ようするに私は吉屋咲希を私ではなれない理想的な女の子に変身させて私の傍に置いておきたい、そんな欲望をこじらせていたわけです。今なお伸び続ける私の身長とは違って、平均的な「女の子らしい」体格をした吉屋さん。中学生の時には「イケメンよりイケメン」などと言われることもあった私の顔立ちとは違い、強かな眼差しがあれども全体としては可憐なかんばせ。暗闇を封じ込めたような私の髪とは異なる、暁の気配がある髪。大きくない手足は愛らしく。同級生であるというのに敬語を使う、その妙な意地っ張りも微笑ましくて、タメ口でいいよとも言えないまま。


 あの日、彼女が試着を手伝ってくれるのを単に受け入れるどころか、快諾してくれた時には心躍る気持ちが恥ずかしさに勝りました。そして高まっていく特別な思慕を悟られまいとしながら、洋服店へと入り、最終的には彼女に選んでもらえた時には、あんな失恋とは違ってこの想いを大事に育てていくように決意さえしていたのです。

 吉屋さんを育て、私の想いを育てて、そうしていつかは二人にとって幸福な日々を迎えてみせるのだと。

 そのはずだったのに。

 あの試着室の鏡を目にした私は、文字通り自分の身を晒した際に、己の醜さを思い知りました。それは全身を蟲が這う心地でした。

 そこで冷静さを取り戻していれば、浮き立つのをよしていればよかったのに、私は鏡の中に見つけた自分ではない女の子、狭い空間で息遣いもわかる彼女に見蕩れてつい口にしていました。

 もしも私が。私が求めているのが男の子ではなく、女の子だとしたら。そんなことを吉屋さんにぶつけていたのです。反実仮想の文型を借りた秘めていた本当の想い。


 振り返らずに、私は鏡越しで彼女と見つめ合いました。振り返ってしまい、鏡の中とは違う彼女を、私の発言を厭い、怯えまでする女の子を見つけるのが怖かったのです。

 吉屋さんがそんな人ではないとその二週間で信じられていたからこそ、それが裏切られる可能性がわずかでも感じられたのが私を震えさせました。

 結果、私は沈黙を破って、虚しくも彼女には忘却を頼みました。彼女は実直にそれを承認したのです。


 一人での帰り道。電車に揺られながら私は彼女への想いが恋だと認めました。初恋が失われたあの日とは違い、胸を刺す痛みにはまだ温かさと希望があって、だからこそ慎重に、早まってはいけないのだと自分に言い聞かせていました。

 時間をかければ、彼女もまた私に他の人には抱かない好意を寄せてくれるかもしれない、そんな淡い期待。窓の外側を流れていく雨粒を内側からなぞってみて、そこには感じない熱さと共に、彼女の指先が私のこの醜悪な身体をなぞってくれたのならと本気で思っていたのです。




 全部、雨のせいにしたい。

 そんな責任転嫁と後悔に縛られ続ける日々が、図書室での告白から始まりました。はじめそれは、あの日の窓辺に立っていた吉屋さんの美しさのせいだとしていました。彼女がまるで小説の一節みたいにカーテン越しに雨音を聴いていたから。その唇を奪ってしまいたいと私に思わせるものだから。

 そして彼女は伝えてきました。私がたとえ同性愛者であっても、と。彼女なりにあの試着室での一件に思うところがあるのは、わかっていました。

 

 でも……。

 

 彼女がもしも「宮沢さんって私のことを好きなの?」と直接、訊いてきたのならば私はそれまでどおりにいつもの宮沢円香を演じて躱すことができたのだと思います。しかしそうではなかったから。まっすぐな太刀筋であればあるほど、見切ることもできやすく、それがどんなに俊敏であろうとも、私には身構えがありました。ところが、彼女はそうしなかった。

 

 だから……。


 私は唇を思い切り噛む心境で、しかし口を開いて本心を彼女に告げていたのです。私が受け入れてほしいのはそんなセクシュアリティ云々ではない、私個人の想いなのだと。これは小説の中でも、ゲームの中でもなくて現実の恋であり、愛であるのだと吉屋さんに伝えようとしたのです。




 カフェの女子トイレに私を連れてきた星見さんは「馬鹿ね」と言いました。内容とは真逆の優しい声で。その一言で、吉屋さんがこの人には、私の告白のことを明かしているのだとわかりました。


「まだ好きなのよね?」


 私は肯いていました。ほとんど無意識に。


「ああ、待って。べつに諦めろとも協力してあげるとも言うつもりないわ。私はそんな世話焼きじゃない。ただ、あの子は私にとっても友人であるから、やっぱり様子がおかしいと私としては……鬱陶しい。そんなところ」


 今度は曖昧な相槌をうつ私に、星見さんは溜息を一つこぼしました。スカートを濡らすことのない溜息。そして胸の前で腕組みをしました。


「この前の放課後、無理にでも誘ってあの子と話をさせておくんだったわ。はぁ。過ぎたことを言ってもしかたないわね」


 そう口にした星見さんは数秒、何か考える素振りをしてから、こちらをじいっと見据えてきました。


「いい? 逃げないで。席に戻ったら、まずは謝っておきなさい。照れ隠しだとかそういう言い訳いらないから」

「う、うん」

「遊びに誘いなさい。週末空いているなら」

「え?」

「なによ、赤点とりそうで根気詰めて勉強しないといけない科目あるの? だったら勉強会って形でもいいわよ」

「あの、どうして?」

「どうして。、今そう言ったの?」


 そのときの私の困惑を正確に表現するのは困難です。以前に体育館で会話したときにも、星見さんの口調というのは丁寧でなかったかもしれませんが、でも攻撃的かと言えばノーでした。何かを寄せ付けない雰囲気はあっても、刺々しいとまではいかず。

 そうだというのに、私の疑問を繰り返した星見さんには威圧感があって、喉元に刃物を突き付けられたような感じがありました。

 かと思えばふっと彼女の眼光が緩められます。


「あの子が、あんたのを嫌悪していて近づきたくないなら、今日わざわざこんなところに誘わない。あの子がどんな答えを出すか知らないけど『これからも友達でいてほしい』って抜かすかもね。それがあんたにとって残酷かどうか、それは私の知ったことではない。ええと、何が言いたいかって言うと……」


 星見さんが顎に手を当てて考える素振りをしました。


「あんたたちはもっとお互いを知るべきよ。怒らないで聞きなさい。出会って、まともに話し始めて半月程度だけで、大恋愛の渦にいるみたいな顔している女の子って馬鹿よ、大馬鹿。なに、私が聞いていないだけでもうやることやったの?」


 がつんがつんと。たしかにこういう人がいるのは知っていましたし、フィクションの中では出会ってきたものの、いざ自分の友達にもいないタイプである星見さんに無遠慮に言われ続けると戸惑い、なんだか泣きそうになってきます。


「な、なにもしていないよ」

「……屈んで」

「へっ?」

「いいから、屈みなさい」


 平手打ちがくる? そんな予想をしながら何もしないままローキックをされるのも嫌だなと思った私は奥歯を食いしばって屈みました。


「なんでどいつもこいつも捨て犬みたいな顔しているのよ」


 星見さんが私の頭を撫でできました。体型からにじみ出る母性を行動で証明している、そんな考えが浮かびましたがこれを口にしたらチョップだなと思い、飲み込みました。


 もっと知るべき。知ってもらうべき。

 吉屋さんのこと。私のこと。

 なんでそんな当たり前のことを私は気づかないふりして、ここ一週間は彼女を避けていたんだろうと省みました。

 星見さんの手が離れ、私も背筋を元通りにします。


「ありがとう、星見さん」

「礼はいい。ほら、そろそろ出るわよ。今頃、どんな顔して待っているかしら。ねぇ、咲希の顔は好き?」

「か、顔? そ、それはまぁ、うん」

「私も。教室じゃお淑やかにしているけど、話せば話すほどぼろを出す。ころころ変わる表情は見ていて飽きないわ」

「……」

「ふふっ、妬かないでよ。そういう顔、好きだからもっと言いたくなっちゃう」


 母性ではなく魔性。私は星見さんに感謝と同時に畏怖し、彼女が友達想いでよかったと思いました。

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