第10話

 宮沢円香はピアノの音色を聞く度に初恋を思い出す。

 いいえ、これは事実ではありません。

 たしかに私の初恋と呼んでいいものとピアノには関係性がありますが、しかしながらピアノの音を聞くと常に想起されるとしたら、そこにあるのは病的な固執です。私はそのように執着心をこじらせてはいません。

 宮沢円香にはピアノの音で時折思い出される淡い過去がある。 

 これでいいのだと思います。


 私がピアノを習い始めたのは八歳の春でした。母はもっと早くに始めさせたがっていましたが、病弱なために先送りを続けた結果、小学三年生に進級するのと同時に、というのが現実的な落としどころだったのです。

 そのピアノ教室は何もプロピアニストの養成学校ではありませんでした。グループレッスンを基本とする個人経営の、開校して間もない教室。すべてがぴかぴかとしていた空間。後になって知ったことですが有名音大卒のお嬢様の鶴の一声によって立ち上げられた場所だそうでした。

 講師用のグランドピアノ一台と、生徒用のアップライト数台――――母が最初に入れたがっていた教室はグランドピアノを使用した個人レッスン専門の大手企業の教室でしたが、そことの差なんて当時の私は知りませんでした――――が置かれていました。

 

 楽しく弾ければそれでいい、言ってしまえばそうした雰囲気の場所でした。もしもそうでなかったのなら、私はすぐにピアノから離れていたことでしょう。毎日のように厳しいレッスンなんて肉体的にも精神的にも耐えられなかったでしょうから。

 

 あるいは、と考えもします。

 あの人がいてくれたなら、それも乗り越えられていたのだろうかと。


 彼女は私より二つ年上で別の小学校に通う綺麗な女の子でした。綺麗と言ってもその顔立ちや着ている服、ようするに身なりが特別に整っていたわけではありません。

 姿勢と声、そして指先。それらをして誰もが彼女に対して、綺麗だと印象を持っていたに違いないのです。

 ピアノを弾く時の姿勢、それについてレッスン中にどこかで一度は注意を受けるのが私の日常でした。その注意を受けての返答。もっと大きな声で、とよく言われるのが私でした。たどたどしくしか動かない指先、一音ずつ丁寧にと何度も指摘を受ける私だったのです。

 対して、彼女はというと模範的な生徒でした。ピアノを弾いている彼女の姿はどこを切り取っても絵になり、受け答えする際の声は透明で明朗快活、その指はほっそりとしていて長く、鍵盤を美しく舞うものでした。

 

 私は彼女とレッスンの曜日がかぶっていたこともあり、レッスンの前後で自然と話すようになりました。彼女はレッスン中とそうでないときとはまるで人が違ったのを覚えています。

 ピアノに向かっていないときの彼女は、テンポを速くし続けていくメトロノームみたいでした。あまりに早口でまくし立てるから、狂った小鳥のさえずりのようにしか聞き取れない時も少なからずありました。彼女は年下の私に容赦なく、彼女が知っている限りの語彙をもってその美声を浴びせては、理解できない語があるとその都度、解説してくれました。本人曰く、彼女はその年で週に五冊は本を読む読書家だったのです。

 記憶を辿ると、彼女の解説の半分はいいかげんなものでした。しかし私の知らないことを話しては教えてくれ、私よりずっといい音を響かせる彼女にまずは憧れを抱いていました。そして彼女もまた私を妹のように可愛がってくれたのです。

 

 私の読書経験は、体調が中途半端に悪い日の退屈しのぎと、そして彼女という憧れの存在に近づきたい思いの両方があってこそ始まったものなのでしょう。

  

 そうした関係は私が小学五年生の秋になるまで続きました。

 彼女は中学生となっていましたが、引き続きピアノ教室に通ってくれていて、部活は週に一度あるかないかのボランティア部に入ったそうでした。


「羨ましいな、円香の手」


 残暑の熱がこもり、じっとしていると全身が汗ばむような日、レッスンの前に彼女が私に言いました。

 その頃、レッスン前に彼女にピアノを弾いて聞かせるのが恒例となっており、彼女が「円香のピアノには不思議な魅力がある」と笑ってくれるから、私も喜んで弾いたものでした。


「どうして?」


 彼女の手指のほうが、私より遥かに優れていて、美しい音色を造り出せると信じ切っていた私からすると、その羨望は衝撃でした。


「全体の大きさ、一本一本の長さ、肉のつきかた、厚み。私が円香と同じ年だったときと比べてどれもあるから」


 彼女が私の右手をとり、そして彼女自身の手のひらと合わせます。

 ほとんど変わらない大きさ。僅かに私のほうが大きくも思えました。


「身長だって、そう。最近、会う度に円香ってば高くなっている」

「そんなことを言うのは親戚のおじさん、おばさんぐらいだよ」

「でも、本当だよ? 明日にでも私を追い越すんだろうね。ピアノの腕前だって、きっとすぐに追い抜かれる」

「待ってよ。競争はしない、楽しく弾ければいい。だから私たちは誰よりも幸せだって言っていたよね?」

「円香にはわかんないよ、私の気持ち」 


 ぎゅっと。合わせた手のひら、彼女が指を絡めました。そこにはめいいっぱいの力強さしかありませんでした。優しくない、体温。


「い、痛いよ」

「私ね、もうここをやめようかなって思っているの」

「え――――」


 ぱっと手を離して、告げられた別れに私は惑い、うまく言葉が出て来ずに彼女を見つめていました。


「やめて、そんな顔するの」


 不透明な声が私を刺します。

 それがピアノ教室で最後に話した日になりました。その日以降、彼女は来なくなり、翌月には正式に退室しました。


 私はいかにして彼女とコンタクトをとり、納得のいく説明をしてもらうか頭を悩ませていました。彼女の自宅には何度か遊びに行ったことがあります。高層マンションの七階。建物に入るには中にいる人間による操作が必要です。さもなくば、誰かの後についていくか。小学五年生の私はごくごく真剣にそのマンションに忍び込み、彼女と密やかに会って隠し事を暴く算段をしていました。

 すなわち、真っ向から訪ねていっても彼女は私がマンションに入ることを許さないこと、そして彼女が私にあんなことを話して突如、ピアノをやめたのにはそれ相応の理由があると信じていました。


 結論として、私の企ては未遂に終わりました。実行に移す前に、彼女から電話がかかってきたのです。それは秋から冬へと季節が変わる頃合いでした。

 彼女はお互いに学校が休みである土曜日、その午後三時に私をピアノ教室近くファミレス前に呼び出しました。私が少し早めに到着すると、彼女は先にいました。「久しぶり」と口にする彼女にはぎこちなさがあり、これから話をすることは二人ともにとって明るいものでない予感がありました。

 

 ファストフード店を含め、保護者抜きで飲食店に入るのはそれが初めてでした。そのことを伝えると彼女は「暗くなる前にはちゃんと帰れるから」とだけ返しました。不安がっているわけでも、彼女を非難しているのでもない、ただの事実確認。そうだと私は言えずに彼女の後についていき、そのファミレスに入ったのです。


「なんでも好きなもの注文していいよ」

「お腹空いていない。それに晩御飯が食べられなくなっちゃう」

「おやつの時間なんだから、甘いものを何か頼めばいいでしょ? 円香、前に言っていたよね、ここのフルーツがたっぷり乗せられたパンケーキが美味しかったって」

「あれは夏季限定メニュー」

「普通のパンケーキは嫌い?」

「……好き、だけど」


 彼女はドリンクバーを二人分、そしてパンケーキは一人分をオーダーしました。そして彼女は私に飲み物を訊いて「ここで待っていて」と言うと、二人分のドリンクをグラスに注ぎにいきます。三分もしないうちに、彼女がビタミンカラーの液体が入ったグラスを両手に持ってテーブルに戻ってきました。一連のやりとりが私に有無を言わせない様子でした。入る前から決めていた段取りだったのだと思います。


「ごめんね」


 その言葉もまた、彼女が今日言おうとしていたものだと察しがつきました。


 私の記憶が正しければ、彼女が私に謝ったのはその時が初めてです。年の差があったからなのか、それとも二人の性格ゆえか、私たちはそれまで喧嘩をしたことがありませんでした。振り返ってみれば、彼女が間違っていそうな時でさえ、私は間違っているのは自分だと思うようにしていました。それぐらい彼女はいつも堂々としていたから。けれどそのときの謝罪に胸を張った調子はなく。


「私ね……ピアノ、もう楽しく弾けなくなっちゃったんだよね」

「私のせい?」

「ちがう。そんなわけないじゃん」

「でも……」


 あの日の彼女。握られた手。その感触に込められた敵意に近い何か。


「聞いてくれる? 愚痴になるんだけど」


 そう言うと、彼女は私の手に触れました。わざわざテーブル上で腕を伸ばし、私の右の甲を包み込むように。

 いつだってお姉さんだった彼女が妹のような存在である私に、その弱さを曝け出そうとしている。そのことに私は場違いにも高揚感を得ました。

 対等な関係、以前から私は心のどこかではそれを望んでいたのでしょう。彼女から中学校生活のあれこれを聞く度に、遠ざかっていた心の距離が瞬間的にぐぐっと縮められた、そんなふうに私は錯覚したのです。


「中学校で、合唱コンクールがあったんだけどね――――」


 彼女は慎重に次のような前置きを話し始めました。

 中学校では文化祭が二学期のはじめにあって、それが終わるとすぐに学内合唱コンクールに向けての選曲と練習がはじまります。彼女のクラスに伴奏候補は四人いました。推薦、そして多数決により彼女が選ばれたのです。そこまではよかったのだと。

 彼女はピアノ教室でそうあるように、周囲の人間の評価に物怖じせずにやり遂げられる性格だと自分でも思っていました。それにピアノコンクールではなく、素人集団の合唱がメインである以上、彼女の演奏の腕前というのはさほど合唱の質を左右しないはずでした。

 

 そこまで話してしまうと彼女は私の手を包んでいた手をそっと離し、今度はグラスに触れ、でも飲まなかったのです。声はこの短い時間に渇いたものになっていたのに、飲もうとせず、手をゆっくりとテーブルの下に隠しました。

 パンケーキが運ばれてきてから、彼女はいよいよ本筋を話し始めます。

 

「四回目の練習のときのことよ。最初から最後まで通しで歌って、終わるとみんなして気が抜けていた。午後の授業だったから、男女ともに眠そうな子がちらほらいたし。それでね、音楽のの字も知らない担任が、何か気の利いたことでも言おうとしている、そんな顔をしていたときだったわ。後方で歌っていたあの子が列をかき分け、こっちに来た。体調不良かなと思った。たぶん、みんながそう思った。普段は口数の少ない、やけに色白な子。担任が『どうした』って訊いたら、彼女はそっちを見ずに私に言った。『我慢できない』って」


 その後のことは思い出したくもない、彼女の顔にそう書いてありました。

 でも、彼女は続けます。


「私の演奏をその子がなんて喩えたと思う? 公園の濁った堀を必死に進む穴の開いたスワンボートよ! その豊かな表現力には恐れ入ったわ! 私が伴奏して、皆が歌っていたのはカリブ海を舞台にした果てない冒険の旅だというのに!」


 わなわなと声を震わせ、目を三角にした彼女がそう言いました。私は思わず、テーブル上、丸いパンケーキが乗った皿へと視線を落とします。


「私だって、グランドピアノといつも弾いていたアップライトではタッチの差、音の違いがあるのは知っていたわよ、当たり前でしょ。けどっ! ああもこけにされるだなんて思わなかった! でもね、それだけなら、つまり演奏の不出来だけを主張してきたのなら許せたわ。あいつは……自分でもしまったと思ったんでしょうね。次はピアノの調律がぞんざいだって言いだした。これでは演奏している私が可哀想だって。ふざけんじゃないわよ。私は……!」


 ぴたっと彼女の声が止まります。私はパンケーキどころか、自分の膝の上にまで落ちていた視線をゆっくりと上げました。


「ごめん。怖がらせるつもりはなかったの」


 まだ表情に憤りと哀しさを残したままの彼女を私は見ました。彼女は私にパンケーキを食べるよう促します。しかし食欲はありません。あったのは逃げ出したいという気持ち。すると、彼女が皿を少し、彼女の側に寄せ、ナイフで切り分けてフォークを刺し、私に「はい」とそれを差し出しました。無理に作った笑顔の痛々しさに怯えました。


 彼女が腕を精一杯伸ばしてもフォークに刺さったパンケーキは私の口許には届いていません。私はおずおずと身を乗り出して口を開き、その大きな欠片を頬張りました。


「……このまま話を続けていいかな?」


 彼女の言葉に私はこくりと首を縦に振ります。記憶の中のパンケーキの味は、ひどくまずいものでした。

 

 

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