第11話

 彼女は気分を落ち着けるためか、やっとグラスの中の液体を口に入れました。一口で半分。柑橘系の甘い香り。そして彼女は話を再開します。


「私はその子に言ったわ、そこまで言うならあんたが弾けばいいじゃないって。困った顔をされた。そんなつもりなかったのに、って顔。後からわかったことだけれど、その子は伴奏係を押し付けられるのが嫌だったからピアノを習っているのを隠していたのよ。彼女と仲の良い子はそれを知っていた。彼女が私より、ううん、少なくとも学校中の誰よりもピアノの才能を持ち合わせているってこともね。音楽室がざわざわとしはじめて、彼女はピアノの前に座った。今度はしかたないって顔。私はぎゅっと拳を握りしめて、できるだけ正確に音が聞こえる場所に陣取った。指揮者担当の男子が目をきょろきょろとさせて突っ立ていたから、さっきと同じようにしてと頼んだ」


 彼女はそこまで話すと、グラスを呷りました。そうして空になったグラス。

 閉じられ、固く結ばれた唇。私は彼女から怒気が失われていくのを目の当たりにしました。そしてとうとう彼女はぷっと声を立てて笑ったのです。


「完敗だった。初見であれだけ弾かれたら、引き続き私が伴奏するなんて誰も賛成してくれない。音楽によっぽど鈍感な人であれば、もしかすると……いいや、ちがうか。あの担任でさえ、私にフォローの言葉をかけるのを忘れて、褒めていたもの。楽しんだ者勝ち、今でもそれを信じていないわけではない。けど、とびっきり磨かれたテクニックは独りよがりな表現力を凌駕し、蹂躙する。意味、わかる?」


 私は黙り込みました。一瞬でも近づいた彼女との距離はやはり一瞬にして無限に広がったのだと感じました。


「つまりね、円香」


 笑っているのか泣いているのか、そのどちらとも言える面持ちの彼女がパンケーキにフォークを優しく刺しました。


「たった一度の嵐で吹き飛んで、絶望に打ちひしがれてしまう。私にとってのピアノはその程度だったの」


 彼女はフォークをまた私の口元に運ぼうとして、しかし結局は彼女自身の口にパンケーキを放り込みました。




 ほどなくして、私もピアノ教室をやめました。

 彼女が私にピアノを弾き続けるようにお願いしていたら変わっていたでしょうか。私が彼女から託されていたら。でも、彼女はそんなに無責任ではありませんでした。つまり自分が逃避を選んだそれを人に強いることはなかったのです。同時に、彼女が感じていた私のピアノに宿っている魅力はまやかしだったのだと思い至りました。

 もしもそこに不思議な力を見出せるのなら、私の演奏を彼女が特別だと信じられた日々を好意的に解釈するならば、それはその時の私が彼女を想って弾いていたからなのだと思います。

 ファミレスでの再会の後、引っ越すまでに彼女には四度会いました。はじめの二度は昔そうしていたみたいに遊ぶ目的で。でも、そこには目に見えないわだかまりがあって。三度目は私が中学生になって少ししての頃に、街中で。短いやりとり。彼女は訊きました。ピアノを続けているのかと。彼女の背を軽く追い越していた私は曖昧な相槌と共に「バスケ部に入ったの」と返しました。「そっか。頑張れ」と彼女は言って、去りました。

 

 四度目は会ったというよりも、見かけたが正しいです。それは半年先に父親の転勤とそれに伴う引っ越しが決まった中学三年生の秋のことでした。日曜日の、人であふれかえった駅前で。

 私の知らない高校の制服を着た彼女が同い年ぐらいの男子と腕を組んで歩くのを離れたところから目撃したのです。私はしばらくそこに立ち尽くしていました。

 その時になって、私が彼女に寄せていたのが恋心だと気づいたのです。


 所詮は年上への憧れでしかなかったのだと、そうあるべきなのだとどれだけ自分に言い聞かせてみても、胸を突く痛みと熱がそんな生易しいものではないと私に訴えます。

 なぜそこにいるのが私ではないんだろう、駅前で彼女たちを目にしたときに私は思いました。もう顔もろくに覚えていない男の子に抱いた、嫉妬と憎悪。そして時間が経てば経つほど、深まる後悔。息苦しさに喘いで、零れた涙。


 私たちの関係を築いたのがピアノであれば、それを繋ぎ止めるのもピアノだったはずでした。

 あの日、あのファミレスでなぜ私は彼女に「やめないで」が言えなかったのか。ピアノ教室をやめてしまう前に、どうにか話せる機会をつくって説得しなかったのか。なにより、自分自身がピアノをやめたこと。それを悔やみました。

 彼女が傍にいてくれないと弾く価値がない? そんなの言い訳です。彼女が与えてくれた力を、意味を、私が自分の演奏を信じて弾き続けていれば。そうすることができていたなら、また彼女と新しく関係を結べたかもしれない――――。


 数年遅れての失恋、その傷は新しい春を迎えると時を同じくして、すっかり癒えていました。たまにピアノの音で思い出されるぐらい。とはいえ一口にピアノと言っても、思い出の中にある私の、そして彼女のピアノと似通った音は世の中にそう溢れていないのです。拙くも温かな、鈍くても明るい、ずれていたって楽しげな。

 記憶の奥深く沈んだそれを愛おしく覗き込むとき、私はもう身を焦がさずにいられました。

 

 そして新しい町、新しい学校で私は吉屋さんと出会ったのです。



 

 一目惚れではありません、断じて。

 クラス内のほとんどの女子生徒がそうであるように私と比べて小柄な彼女。その明るめの髪色はクラスの中では目立っていましたが、自己紹介の時に彼女自らが地毛であると申告していました。私が前にいた学校にはその生い立ちをして自然と黒からほど遠い髪色をしている子や、なかには肌の色でこの国の生まれではないと思われる子もいました。

 

 私は入学したその日に近くの席の子と仲良くなり、いっしょに女子バスケ部に体験入部する約束をしました。

 春、それは作ろうと意識したわけではないのに、私を中心に友達の輪ができあがっていくのにいくらか混乱していた時期です。たしかに私は小学生の頃に比べれば外向的となり、相手が何を求めているかをうまく察知することができるようになったとは思います。でも根っこの部分では変わらず、たとえば一人で静かに読書するのを好んでいて、その意味で新天地での暮らしぶりには気疲れがありました。


 新しい友達の一人、いわゆる恋バナが大好きな女の子が私に中学時代には彼氏がいなかったのか、周りの子たちはどうだったかを訊いてきました。バスケに打ち込んでいたから恋をする暇もなかったと答えたのを覚えています。

 なぁんだとがっかりするその子にどんな恋をお望みかうかがってみると、いやに具体的に教えてくれました。しかも一対一ではなく、その空想恋愛劇では彼女をめぐって何人もの男の子が争うというのです。

 ヒートアップして饒舌になる彼女に私は『嵐が丘』を読んだときのことを思い出していました。ああいった悲劇的な結末をこの子は望んでいないし、きっと彼女はそれが十九世紀半ばにブロンテ三姉妹の長姉であるエミリーによって書かれた恋と復讐の物語であるのを知らないのです。

 私だって、ヒースクリフが憔悴して死にゆく様を克明に記憶していると言えば嘘になります。大半の読み終えた本と同じく、今あるのは大まかな印象や感触だけなのですから。


 四月初旬の雨で早々に散ってしまった桜に代わって、ハナミズキの花が咲き始めた頃。友達何人かで昼食をとっていたときに、一人が続きが気になっているというドラマの話をしました。そのタイトルが有名なドイツ文学の小説をもじったものだと推量した私でしたが、彼女たちはピンと来ていない様子でした。読んだことあるのかを訊ねられて咄嗟に「どうだったかな」とはっきりしない返事をよこした私。

 その時に一人が言ったのです。「そういうの、いつも本を読んでいる吉屋さんならわかるかもね」と。私は覚えているままに、彼女の席を見ました。そこは空席となっていて「お昼は、いつも星見さんといっしょみたい」と友達が教えてくれました。

 クラスメイトであるのは知っていましたし、何かきっかけがあれば友達になるのは難しくないはずです。そう、きっかけがあれば。




 星見さんと初めて話した日は私が階段から落ちる三日か四日前の体育の時間でした。

 体育は男女別で行われ、最初の十五分は準備運動と軽い筋力トレーニングやランニングがあり、残りの時間は基本的に自由です。バドミントン、バレーボール、卓球が人気で、バスケットボールをやりたがる子はあまりいません。かく言う私も、接触の恐れがあるバスケットボールを慣れていない人とするのは気が進まず、体育の時間で疲れるのも嫌なので、先生の目を盗んで壁際で友達と話すこともあります。

 その日は友達何人かで第二体育館で卓球をすることにして、しばらくはラリーをぼーっと眺めていましたが、ふと壁際で星見さんが座り込んでいるのを見つけ、友達には「休憩してくる」と言って彼女に近寄っていきました。


「えっと、調子悪そうだけど。大丈夫?」


 真上からだと威圧的かなと思って、隣から私は中腰で声をかけます。


「五日目」

「あ、そうなんだ」

「そんな重くないけど、四日以下で終わったためしがない。一度だけ九日続いたことがあって、このまま何もかも垂れ流していく人生なんじゃないかって勝手に悲観的になったこともあるわ」


 星見さんは膝を軽く抱えて座っていましたが、顔は俯かずに上げたまま、視線は卓球をしているクラスメイトたち、あるいは卓球台や球の動きに向けられていました。運動する気はないのか、束ねられていない髪はその長さがよくわかります。


「あなたって委員長だったかしら」

「ううん、ただのバスケ部」

「そう。目障りだったから追い払いにきた……ってわけじゃなさそうね」

「そんな、悪さをする野良猫じゃあるまいし。話し相手になってくれるかな」

「せっかくだから変なこと訊いていい?」


 噂に違わぬミステリアスさを漂わせ、星見さんは言いました。


「ど、どうぞ」

「身長が百四十センチしかなくてもバスケしていた?」

「していなかったと思う。バスケは、誘われて始めたから。身長を理由に」

「身体を動かすこと自体は好きなんでしょう?」

「小さい頃は病弱で動かしたくてもできなかったの。その反動っていうのかな、うん、好きだよ。気持ちのいい汗を掻くのは。星見さんはどう? 何かスポーツってしていたの」

「中二の初めまではスイミングスクールに通っていたわ。ねぇ、座りなさいよ」


 私は言われるがままに彼女の隣に座りました。

 相変わらず彼女の目線は前方にあります。


「小一からずっと週三日で通っていたの。強化合宿という名目の半分お泊まり会みたいなイベントにもほとんど毎年、参加していた。水の中でしか得られないものがたくさんあったわ」

「好きなんだね、泳ぐの。受験勉強に専念するためにやめたの?」

「ちがうわよ」


 溜息まじりに星見さんは。彼女自ら話題にしたことなのに、あまり触れられたくない話なのかなと思った私は、現在の彼女が所属している天文同好会について訊いてみました。


「苗字が星見でしょ。だから、ノリで」

「ははは……」

「嘘じゃないわよ。志望校に受かっていたら、いい大学入るために勉強に力入れつつ、気ままに絵でも描こうって思っていた。でも落ちたし、ここの高校の美術部は根暗でいかにも日陰者って感じの人たちしかいなかったから入らなかった」

「じゃあ、星は好きじゃないの?」


 そこで初めて星見さんは私を見ると、くすりと笑いました。


「宮沢さんだっけ。大きな体しているのに子供みたい。なんでもかんでも聞いてくる。勘違いしないで、悪く言っているつもりはないわ。そうね、ある意味で大人な対応よね。さっさと話を切り上げて友達のところに戻れるだろうに」


 そのとき授業が終わる五分前であることを第一体育館にいた先生が伝えに来ました。片づけを始めて、第一体育館に整列しないといけない時間です。すると星見さんが立ち上がり、特に汚れてもいないのん膝のあたりをさっと手で払います。


「星空は好きよ。さっき話したスイミングスクールの合宿、それはわりに山奥で行われていたの。夏の夜に、みんなで見上げた空を今も覚えている。……そういうの思い出して、ろくに活動していない天文同好会に入る気になったのかもね」


 どこか他人事みたいに。でもそれは彼女なりの照れ隠しだったのかもしれません。

 

  

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