第9話

 月曜日の午後は、早くに授業が終わる曜日だから心待ちにしていたものだった。

 でもその日は違った。昼休みを迎えると、いつもどおり柚葉といっしょに空き教室へと向かう。回避する適当な用事をでっち上げられなかった。

 私が黙っていても、もしくは黙っていればなおさら、柚葉は私と宮沢さんが昨日、どんなふうに過ごしたか訊ねてくるだろう。それとも柚葉はどこまでも無関心であるか、または厄介事を嗅ぎつける名人で、私の沈黙をそのまま受け入れてくれるかな。

 

 訊いてくれるなよ、と思いながら空き教室のいつもの席に座った。


「で、どうだったの?」

 

 こっちを見ずに、柚葉が言った。無地の紺色の風呂敷を広げ、ステンレス製の四角い弁当箱を取り出している。四月に私が「可愛げのないランチボックスだね」と言ったら睨まれたやつだ。


「あー……うん。よかったよ。土曜日に観た。SF映画って難解なイメージがあって観る気が起こらなかったけれど、おすすめされたあれは、家族愛がテーマの作品として観やすかった。感動したなぁ、終盤。まさか最初のシーンがこう繋がるかぁって」

「咲希にしては的を射ているわね。結局、細かい設定の整合性にこだわるより、普遍性のあるテーマが骨となってそこにSF要素が肉付けされていく、そういう物語がぐっとくるのよね」

「そうそう」

「で、宮沢さんとのデートはどうだったの?」


 今度は私の目を見て、柚葉が言う。変に逃げたのが、かえって彼女の気を惹いてしまったようだ。


「たとえばさ」

「なによ」

「私が今朝からずっと、今日の夕食はカレーがいいなって思っているとするでしょ」

「それで?」

「でもそれを伝えない限り、柚葉がそれを知る由もない」

「当たり前ね。カレー食べたそうな顔ってのはあるかもしれないけど、読めるわけない」

「そう。それで私が夕食の場でいきなり、カレーじゃねぇのかよって怒りはじめたらやばいやつだよね」

「……ねぇ、そのたとえ話って必要なの?」


 柚葉は弁当箱を開き、合掌して「いただきます」と言ってから、箸を持って弁当を食べ始める。


「私が言いたいのは、突拍子もない話題を振られても反応に困る、でもそれは相手からしたらずっと考えていた可能性もあるってこと。心は目に見えないから」

「宮沢さんに何言われたの?」


 私の意図を正確に掴んだ彼女がそう訊ねた。今日の彼女の弁当箱に詰められている鮮やかな黄色の厚焼き玉子。甘くはないと前に話していたっけ。


「誰にでも言いふらすべきではないこと」

「咲希はそれを一人で抱えたくない」

「よくおわかりで。『王さまの耳はロバの耳』って知っている?」

「私を穴にしないで。前にも言ったとおり厄介事には関わりたくないわ。それに何か秘密を知ったのなら、それを私に明かすのは彼女に悪い。でしょ?」

「たしかに」


 筋道は通っている。

 私は宮沢円香との試着室でのやりとりを、軽率に第三者に漏らしてはならないと思っている。が、同時に自分だけで処理できずに誰かに相談したがっている。こういうの、平凡な人間の凡庸な悩みの一つだ。どこにでもある、誰にでも一度はある。


 あの時。

 宮沢さんに鏡越しで、少数派の性的嗜好を持つのを告白された私は、鏡越しのまま彼女を見つめるほかなかった。彼女が振り返って、直に私の瞳を覗き込まなかったのが幸いだった。そうされていたら、どんなことを口にしていたか。

 差別や偏見の意識がなくとも、あの空間で彼女の告白を快く受け止められるほど、私は器の大きい人物ではない。

 溢れてしまう。自意識過剰なんだとわかっていても、ああいう状況で告白されたら、そのまま私への愛の告白を疑ってしまう。嫌悪ではなく疑念、そうだと彼女に伝わっていてほしい。


『ありがとう。この服、買うことにするね』


 宮沢さんのその一言で止まっていた時が動き出した。淡々と。何もなかったみたいに。そして彼女は私を置いて試着室を去り、店員に声をかけて会計を済ませた。店のロゴが入った不透明なビニール袋に着てきた服を入れて、再び着替えることはなかった。


「どうしてもって言うなら、聞くわよ」


 柚葉の真剣な声色は、虚ろになりかかっていた私の意識をクリアにする。


「ありがと。でも……」

 

 私は首を横に振った。


「ごめん。自分から言い出しておいて」

「――――もし今みたいな暗い顔でずっと教室で本を読んでいたら、あんたは文学少女と陰で噂されていたかもね。でもそれだと私たちは友達にならなかった」

「そうかな。楽しげに読書していたって、文学少女でしょ?」

「腹を抱えて笑い転げる話よりも、眉間に皺を深く刻み、一筋の涙を流す話のほうが文学的だと思わない?」


 柚葉の格言めいたそれに私は返答できなかった。何が文学的であって、何がそうでないかをどう決めるかを知らないでいる。

 誰が知っているんだろう。鏡花ちゃんは彼女なりの答えを持ち合わせているのかな。でも、それは冷静になってみれば鏡花ちゃんの人格を作り出している公式ライターの産物でしかない。ひょっとするとその意味では鏡花ちゃんそのものが文学的な存在なのだと言える。だとしたら、彼女は少女的文学か。

 なるほど、わからん。


 それから私たちは黙々と弁当を食べていく。今日もまた柚葉に玉子焼きを一つ食べさせてくれるように頼めなかった。彼女は無自覚なんだろうけれど、他のおかずと同じく彼女自身が作ったはずのそれを、とてもとても美味しそうに彼女は食べるのだ。

 その顔ときたら、クラスメイトが見たらミステリアスという彼女を形容することばの前か後ろに「腹ペコ」がくっついてしまうぐらいに可愛かった。


「ああ、そういえば」


 食べ終えて、適度に時間を潰して教室に戻る頃になって私は思い出したことがあった。


「なによ」

「広まっていないと信じたいけれど、クラスの中に私と柚葉が付き合っているんじゃないかって妄想している子がいるんだって」

「ふっ」


 柚葉は鼻で笑うとご自慢の黒髪を手でさらっと梳き、私を残して教室に帰っていった。




 宮沢さんと話さないまま、木曜日がやってきた。メッセージアプリでのやりとりもしていない。私が無視しているのではなく、彼女が送ってこないのだ。私からは送っていない。

 放課後、図書室でしばらく学校司書といっしょに事務作業をしていたが、三十分もしないうちに私ができる作業がなくなってしまった。本を読んでいていいわよと言われたので、そうする。地道に読み進めていた『それから』もやっと残り三分の一だ。

 練歯磨き、アラスカ探検記、蕎麦饅頭……。

 ダメだ、目が滑る。正直、代助―――『それから』の主人公で三十路のニート―――には好感を持てないでいる。

 近くに司書がいるというのに、眠気がしてきた。こくっと首が一度傾き、戻る。不意に司書が他所での用事があるから早めに退勤すると言い出した。私は「気をつけてくださいね」と見送る。彼女は自動車で通勤しているが、今日の雨だと視界不良は免れない。運転が下手という話も以前に本人から聞いていた。 


 司書が出ていってから数分して、またドアが開いた。私は既に読書を中断しており、窓際にもたれかかって、閉じたカーテン越しに雨音を聞いていた。


「何か忘れも……宮沢さんでしたか」

「あれ、吉屋さんだけなんだ」

「司書さんはさっき出ていきましたよ」

「そっか。何をしているの?」

「なにも」

「変なの。本、読まなくていいの?」

「読んでいましたよ。でも、目が疲れちゃって」


 宮沢さんが後ろ手でドアを閉めて、私の近くにやってくる。


「疲れ目に効くツボ教えてあげようか」


 そう言って顔とうなじにあるツボを身振りと共に教えてくれる宮沢さんに、私は素直に従って実践してみる。


「どう?」

「……疲労回復の実感ないです」


 馬鹿正直に言ってしまったのを後悔する。気まずそうな顔をする宮沢さんを見てそう思った。でも、その気まずさの正体が別にあるのはわかっている。


「ええと、どうですか。バスケ部は」

「どうもこうも、やれること少なくて。顧問からは絶対に無理するなってきつく言われているから。片手だと、ボール出しってのも難しい」

「他に変わったことは」

「心配してくれている? 大丈夫、ないよ。何もね」

「それだったらいいんですけれど」


 割り切れるんだろうか。

 突き落とした相手はバスケ部であることしかわかっていない。最長で三年間、その犯人と部活を共にしないといけないんだぞ。その子が今なお宮沢さんに負の感情を抱いていてもおかしくない。そこに宮沢さんに非があるかなんて無関係で逆恨みや嫉妬をこじらせたものであったら……。


「吉屋さんが守ってくれる?」


 冗談半分、もう半分は挑戦的に。そんな顔の宮沢さんだった。


「正体不明の悪意から私のことをさ」

「文学少女には荷が重いミッションですね」

「ふふっ、そうだね」


 またアンニュイな面持ちを浮かべて口を噤んだ宮沢さんを、雨音を聞きながら盗み見た。彼女もまた雨の音に耳を澄ませているのかな。何を考えているんだろう。


「あのさ、面倒くさいこと訊いていいかな」


 本の頁をめくるみたいな声で、彼女は。


「そう表現されると了承し難いですよ」

「えっと、今から吉屋さんに面倒なことを言うね」


 言い直す。強気だ。それなのに、声は沈んだままで雨の色。


「今日、もし私がここに来なかったら、吉屋さんから教室で話しかけてくれたり、メッセージ送ってきたりすることなかった?」

「寂しさを感じたら、話しかけにいったかもしれませんね」

「つまり今の吉屋さんにとっては、数日間一言も交わさなくたってどうも思わない相手なんだ。それこそ寂しいね」

「なんですか、何が言いたいんですか」

 

 語気を荒げてもいない、ただ言い返しただけなのに宮沢さんは押し黙ってしまった。その表情に翳りが増した。私は溜息をこらえ、考えた。

 

 というより思い出していた。

 昨日、例の洋服店を出た後で彼女は『さっきのは忘れて』と私を直視せずに、ぽつりと言った。私はそれに「わかりました」と応じたのだった。そしてその後の昼食でも、そしてブックカフェでも友達同士らしく振る舞った。総合的には、楽しい休日になった。なったはずだ。私にとってそうであるように彼女にとっても。でも、いや、だからこそ忘れられはしない。

 

「私は……宮沢さんが同性愛者だろうと、まだまだ文学少女にはほど遠い半端者の私を嗤わずにいてくれたのと同様に、忌み嫌ったりしません」


 彼女はその首を横にも縦にも振らず、ただゆっくりと顔を窓のほうに向けた。そこには実際には閉じられたカーテンがあるだけで、つまり彼女はより雨の音を誠実に聴く素振りをみせたのだった。けれど、その動きは私に対して不誠実だった。

 私はじめじめとした二人分の沈黙から抜け出すための、次の台詞をひねり出そうとしていた。


 ふと、外の雨が窓、そしてカーテンを突き抜けてきたのかと思った。

 宮沢さんの瞳が潤んだのは私からするとあまりに突然の出来事だった。なぜこのタイミングで彼女が涙をそこに浮かべないといけないかが見当がつかなかった。


「ねぇ、吉屋さん」


 彼女は声を震わせ、私の名を呼ぶ。そうしてからまた時間をかけて顔を私へと向けた。正面からだとよりはっきりとわかる。今にも落ちそうな涙。


「私が認めてもらいたいのはこのセクシュアリティじゃない」

「え……」

「私自身を認めてほしい。恋しているんだよ、あなたに」

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