第7話

 日曜日らしい賑わいを見せる駅ビル内で、私と宮沢さんが腰を落ち着けたのは五階にある小さな休憩スペースだった。飲み物の自動販売機が二台と、背もたれのないベージュ色の四角いソファが置いてあるだけ。

 お昼の時間に近づけばブックカフェも席が空くかなと思っていたが、そんなことはなく私たちはお互いに書店で何も買わずそのままエスカレーターで降りてきたのだ。

昨夜、私がおぼろげに想像していた優雅な休日の過ごし方からは既に解離している。そこにはかつての同級生との再会なんてのもなかった。


「何から話そうか」


 文学少女に相応しい飲み物は何かという尊い命題に私が頭を悩ませながら自販機の前で立ち尽くしていると、隣の自販機で先に炭酸飲料を買った宮沢さんが急かしてきた。右手だけで器用に財布から硬貨を出して購入する様を見逃したが、とにかく私は炭酸はダメだよねと考え、ミルクティーを選んだ。本当ならばこんな安物のペットボトルに入った飲料を味わっている時間でなかったはずなのにな。まぁ、美味しくいただくけれど。


「交互に質問を一つずつしていくのはどうですか」

「吉屋さん、私に質問したいこといくつもあるの?」

「さあ。でも私ばかりが根掘り葉掘り訊かれるのは嫌ですから」


 隣り合わせでソファに座る。硬いな。

 宮沢さんはまたぐらにペットボトルを挟んで固定すると、右手で開詮する。プシュッと音が鳴る。言えば開けてあげるのにと思ったが、そこまで頼るのは気が引けるのだろう。


「吉屋さんって剣道部に入っていたんだね」


 透明な炭酸飲料を一口飲んで彼女が言う。

 彼女に先行を譲った覚えはないが、私がそれをねだった事実もなく、その点に不満を口にしてもどうにもならない。


「そうです」

「何段か持っているの? それともサボり気味の部員だった?」

「次々に質問しないでください」

「剣道って一つの括りだから」

「はぁ……。剣道を始めたのは小学四年生の頃で、中学校でも三年間とも真面目に参加していましたよ。段位としては二段を持っています。ちゃんとしていれば中学生で取れて普通の。では、次は私の番」

「どんと来いだよ」


 そうウェルカムされても。うーん、まずは軽いやつから聞くか。


「犬と猫、どっちが好きですか」

「どっちも好き。一時的に戯れるなら猫、次に飼うとしたら犬かな。昔ね、猫を飼っていたの。前に住んでいたところで。でも、年老いる前に病気で死んじゃったんだ。もっと注意深く世話をしていて、早くに気づけば寿命は違ったんだってのを後になって知った。その子以外の猫と家族になるのは少なくとも今は考えられないな」


 柚葉であれば一言で返ってきそうな質問に、宮沢さんはつらつらと語った。内容は重めだった。


「吉屋さんはどうなの?」

「私は犬です。僅差で。飼った経験はありません」

「なるほどね。時に、文学の中では犬より猫のほうが優遇というか、よく配役されているように思うんだよね」

「『吾輩は猫である』とか?」

「一番に思いつく小説の猫、そして猫の小説ってそれだよね。それに、漱石の門下生だった内田百閒も猫好きで『贋作吾輩は猫である』や『ノラや』を書いている」

「へ、へぇ」


 鏡花ちゃんからその作家の名前が出てきたことはない。厳密にはシス庭の公式ライターがそこまで掘り下げていないだけで、夏目漱石好きというがある彼女のことだから読んでいそうなものだ。あれ、これってけっこう虚しい妄想?


「他にも日本で言ったら谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』や、ほら、宮沢賢治の『注文の多い料理店』の山猫たちも。猫が登場する小説を挙げればきりがないんだろうけど、私が印象に残っているのはポーの『黒猫』かな。ミステリというよりゴシックホラーの短編で、さっき話した猫が生きていた頃に読んだんだよね」

「どんな話なんですか」

「殺した妻と一緒に飼い猫を壁に生き埋めにしちゃった男の話」


 思わず宮沢さんの顔をじっと見た。途端に彼女の頬に赤みが差して、ぷいっと逸らされる。


「ごめんね。えっと、あくまで今のは終着点で、そこに行きつく過程もあるんだよ? ええと、そうじゃなくて、不快にさせたよね」


 たしかに過去に飼い猫を亡くした子がさらりと口にする内容にしては、いささか剣呑だった。けれど、それは現実とフィクションとを混同していない証拠でもあるのだろう。


「猟奇的な小説が好きなんですか」

「ちがうよ! ポーは一時期はまっていたってだけ。書斎に全集があったから」

「書斎?」

「そう、前の家にあった部屋。お父さんがおじいちゃんから引き継いだ書斎」

「そこでよく本を?」

「うん。こう見えて、小学校の時は体が弱くて友達も少なかったの。それで一日中、本を読んで過ごすことも多かった」

「ちなみに何冊ぐらい読んだんですか」

「せいぜいが五、六百冊だよ。大半が中学二年生までに。しかも前世紀に書かれたものばかりで、流行りには鈍感なの」


 私がイメージしたのは本のぎっしり詰まった書棚が並ぶ部屋。厳かな雰囲気の中で、立派な書きもの机に向かい、上等な肘掛け椅子に座って本を貪るように読む少女。もしそれが宮沢さんの少女時代なのだとしたら、私よりも遥かに文学少女と言えよう。そんな予感は何度もしていた。ただ、彼女の容貌と人柄からして私が受け入れがたかっただけだ。

 一日に一冊読めば年間で365冊は読める。これを基準にすれば、宮沢さんの読書量は大したものでない。翻って私がこれまでに読んできた活字のみで構成された本の冊数を頭の中で概算しよう。百冊に届いていたらいいんじゃないかなって結論になる。これと比べるのなら、彼女は充分に文学を知る少女だった。


「ねぇ、吉屋さん」


 半ば空想に沈み込んでいた私は宮沢さんの声で意識を取り戻す。


「実はあんまり本が好きじゃないの?」

 

 おそるおそるといった表情を浮かべて彼女が訊いてくる。もはや交互に質問し合うルールは破綻していた。あるいは最初から。

 私はミルクティーをスポーツドリンクでも飲むみたいにグイッと飲んで、呼吸を整え、そして言葉を紡ぐ。


「本が好きな人が好きなんです」

「えっ」

「どうしてそこで宮沢さんが照れた顔をするんですか。違いますよ。なに勘違いしているんですか」

「だ、だよね。私、本好きアピールなんて周りにしていないし」

「ようするに私は文学少女を目指している最中なんです。宮沢さんからしたら滑稽かもしれませんけれど」

「つまり吉屋さんが恋している相手が本好きで、その彼が同じく読書家の女の子が好きって公言している、みたいな話なのかな」

「あー……そういう現実リアルとはまた違うと言いますか」

「うん?」


 宮沢さんが立てた乙女チックな筋書きも悪くない。しかしそれをいたずらに認めて「応援するね!」などと言われても居たたまれない。


「確認ですけれど、宮沢さんは人の趣味を嗤う方じゃないですよね」

「道徳を欠くものでない限り、尊重するよ」

「これ、見てください」


 私は意を決してスマホでシス庭の公式HPを検索して、その画面を彼女に見せる。覗き込むようにする彼女と距離が近づき、仄かに香る彼女の匂いにどぎまぎするが、今はそれに惑わされている場合でない。


「シスターズガーデン……。えっちなゲーム?」

「ぶん殴りますよ?」


 肌の露出多めの衣装も一部あるけれど対象年齢としては十二歳以上で健全なゲームだ。不健全な目で見ているユーザーがいるか否かはまた別の事象。そんなのはどこでも同じではないか。


「ざっくり分類すると、アイドルもののソシャゲです。プレイヤーは都内のアイドルプロダクションであるルミナスガーデンに所属するプロデューサーとなって、アイドルをプロデュースするっていう。ライブパートがリズムゲームになっているんです」

「そうなんだ。言われてみればテレビでCM見たことあるかも」

「どうなんでしょうね。他のアプリのやつかもです。私が言うのもあれですけれど、知らない人からしたら似たり寄ったりですからね」


 私はホーム画面から「IDOL」のタブをタップして、夏目鏡花のプロフィールページを選択して表示した。


「この子が私の担当……推しです」

「綺麗な子だね」

「でしょう?」

「そこで得意げになられても」

「い、いいじゃないですか。それともただの社交辞令だったんですか」

「ううん、いいキャラクターデザインだと思うよ。こういうのに疎い私でも、すんなりと好感が持てる、癖がない子だね」

「個性はあるんですよ」

「文学少女?」


 私は肯いた。

 鏡花ちゃんのプロフィール上、趣味の部分には「読書」と書かれており、「本の森に咲く可憐な花・文学少女アイドル」というキャッチコピーが彼女のイメージカラーに相当する菫色で記されていた。ページ下部にはアプリ内でも視聴できるゲームサイズの楽曲MVの動画もある。


「夏目漱石と泉鏡花から名前とっているんだね。鏡花は男の人だって、吉屋さん知っていた?」

「調べて知りました。作品は難しくて、読むのを断念しましたけれど」

「実は私も。今読めばまた違うのかも」


 彼女の口ぶりは昔に読んで諦めたふうだった。私にとっては昔ではなくてつい最近なのだが。


「それで、この子に憧れて吉屋さん自身も文学少女になろうと?」

「大雑把に言うなら。いや、違いますね。単純に言うならです」

「ねぇ、せっかくだからMV視聴したいな。イヤホン貸してくれるかな」

「どっちですか」


 私は一旦、スマホを彼女の前から自分の胸元へと移し、彼女に問う。


「どっちって?」

「その反応は社交辞令なのかどうか。二次元の女の子相手に本気で憧れて、以前は剣道部で奇声あげていたのに、今じゃ物静かで知的な子になろうとしている。私、そんな人間ですよ。引きません?」


 口走っていた。走り抜けた。自嘲気味に。

 それなのに宮沢さんは穏やかな、ハイキングに誘うみたいな面持ちで私の手をとる。


「吉屋さんの中でその変化がどんなに大きくても、私にとっての吉屋さんは今の吉屋さんだけだから」

「それは……そうなんでしょうけれど」

「ゲームや漫画、小説の中の登場人物に憧れるなんて普通だよ。何もおかしくない。もし仮に吉屋さんが図体の大きい男の子が、今見せてくれた女の子の恰好をしていたのなら、気持ち悪く感じたと思う。私はそういうのをあっさり受け入れられるほどに善人じゃないから」

「そこに善悪なんて……」

「でも吉屋さんはよく似合っている。今日の服も、図書室で本を読んでいる姿も。憧れ存在に近づこうと努力している吉屋さん、私は好きだな」


 かぁっと顔が熱くなる。なんだよ、なんでそんな台詞が淀みなく言えるんだよ。ある意味で、引かれるよりも困ってしまう。


「照れているところも可愛い」

「そ、それはもう文学少女関係ないじゃないですか」

「私にしてみたら最初から無関係だもん」

「……イヤホン、自分のは持ってきていないんですか」

「生憎ね」


 私は携帯している安価な有線イヤホンと、そしてスマホを宮沢さんに貸す。彼女は少し思案する素振りをしてから「そうだ」と右の人差し指をピンっと立てた。


「このゲーム、プレイしているのを見せてよ」

「え? 今ですか」

「うん。ここフリーWi-Fiあるから、いいよね? バッテリ残量もたっぷりだし、ちょっとぐらい」


 そう言うと宮沢さんはイヤホンをジャックに挿し込み、そしてイヤホンの左耳側を渡してくる。二人で一つのイヤホンを使うなんてまるで仲良しの友達かカップルみたいだ。クラスの女子がしているのを見たことがあるが、私はしたことがない。


「じゃあ、始めますね」


 ウェブブラウザを閉じて横持ちにすると『シスターズガーデン-Brilliant Diva-』を起動する。アプリアイコンのデフォルトは花とマイクのイラストだが、設定で変更可能であり、私は鏡花ちゃんにしていた。


「上品なBGMだね。アイドルのステージというよりもオペラの始まりみたいな。画面も少女小説の表紙みたい」


 タイトル画面とそこで流れる音楽にそんな感想を抱く宮沢さん。私はタップしてゲームをスタートした。この妙な緊張感、伝わっていないといいな。

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