第6話
夏目鏡花が二曲目の持ち歌を披露するイベントストーリーの序盤、彼女がお仕事終わりに中学時代に仲のよかった同級生と駅前でばったり出会うシーンがある。
同級生『すごいね、鏡花ちゃん。遠い存在になっちゃった』
鏡花『そ、そんなことないよ。わたしなんてまだまだ駆け出しで周りの子たちに支えられているだけなの』
同級生『そっか。そうだ! ○○先生の新作はもう読んだ? あのシリーズ好きだったよね? 私も鏡花ちゃんの影響ではまったの』
鏡花『あ……。まだ読んでいないや。先週、買ったはいいけど積んだままになっているの』
同級生『え? そうなんだ……しかたないよね、忙しいから』
鏡花『う、うん』
同級生『前は私より先に何でも読んでいたよね。躍起になって、鏡花ちゃんが読んでいない本を読もうとしていた頃もあったもん』
鏡花『そうなの?』
同級生『ふふっ、気づかなくても当然だね。ちょっとの間だったから。やっぱり、鏡花ちゃんがお勧めしてくれる本のほうがはずれってなかった』
鏡花『そうかな、えへへ……』
同級生『でも、そっか。変わったんだね、鏡花ちゃん』
鏡花『え?』
同級生『図書室の妖精さんも、外の広い世界に出たのかな』
鏡花『わたしは――――』
同級生『ってもうこんな時間! 帰らないと! アイドル活動頑張ってね!』
鏡花『あっ。ま、またね!』
このやりとりを経て、夏目鏡花は単に読書の時間が減っている事実のみではなく、自身の境遇と心境の変化について向き合うことになる。しかしそれは一人ではうまくいかず、レッスン中やお仕事中にミスを連発してしまう。そんな彼女を案じたプロデューサーや親身になってくる仲のいいアイドルたちとの対話を通じ、ストーリー終盤で彼女なりの答えを見つけるのだ。
ありふれた展開と言えばそのとおりなのだけれど、些細なことをきっかけに落ち込んだ鏡花ちゃんが、アイドルとしての彼女を再認識して新たな一歩を踏み出すストーリーは、じーんとくるものがあった。
走馬灯が如く、そんなストーリーを頭によぎらせた私であったが、置かれている状況はまったく別物だった。私、アイドルじゃない。
駅構内で出くわした女子二人組、それは私のかつての同級生だった。それも一人は小学校も同じで、何度か遊んだことがあった。私が剣道をしていたのも把握している。
「へぇー。咲希ちゃん、イメチェンしたの?」
旧友のうち、お団子頭でワイドパンツコーデの子がそう言ってくる。的確なコメントだ。でも、あんまりまじまじと見られると、宮沢さんのときとは違う恥ずかしさがふつふつと沸いてくる。
「最後に遊んだ時は、たしかけっこうラフな格好だったよね」
「ひ、人違いじゃないでしょうか」
「またまた~。うちの中学じゃ、その髪色目立っていたし、その声はもろに咲希ちゃんだよ。べつに剣道中の声じゃなくてもわかるって」
「すごかったよね、よっしーの声。男子でもビビる迫力あったもんね」
もう一人の、ショートボブミニスカートが言いだす。苗字をあだ名にしてくるタイプの子だ。そんな親しくなかったぞ。
そんなことより、なぜ剣道中の声を知っているんだ。試合を見に来てはいないはずだ。そうか、あれか。中三の春にさせられた、新入生向けの部活動案内オリエンテーションのやつか。図体ばかりが大きいでくのぼうの部長の男子に代わって副部長の私があれこれしないといけなかったのを覚えている。どうして知名度上げているんだ、私。
「ねぇ、こっちの男装が似合いそうな綺麗な子は?」
「……高校の友達」
「そっかー、一瞬だけ彼氏かと思ったよ」
「実はあたしも」
「どこに目ついているのよ、ポニーテールだってしているでしょ」
スタイルはまぁ、凹凸に乏しくシュッとしているけれど。
「いやぁ、ちょうどあたしたちが好きなラノベのキャラにいるんだ、ポニテ男子。もっと長めの。彼は凄腕の剣士で活人剣の使い手なの。夏にはアニメの二期もやるんだよ」
「へぇ」
「咲希ちゃんはラノベに限らず、あんまり本読まないもんね」
「そ、そんなこともないよ? 読む読む」
ちらっと宮沢さんを見やると、口を閉ざしたままだった。そのほうがありがたいけれど、意外だ。誰とでも仲良くなれる、明るい子だから積極的に二人とも打ち解けるのかなと。なんだったら今この時は私を置いてけぼりにして二人とじゃれ合っていなさいよとすら思った。
「えーっと、私たち急ぐから」
私はそう言うと、宮沢さんの右手首に軽く触れた。
「ふーん。二人でどこ行くの?」
「べつに教える義務ないでしょ」
「ひょっとしてこの子はよっしーの彼女さん? じゃあ、邪魔しちゃ悪いかな」
「はぁ!? ただの友達だから!」
「咲希ちゃん、声大きいよー」
誰のせいだ。ああ、もうこれではお淑やかな文学少女としては落第点だ。失格だ。こんなはずではなかったのに。宮沢さんの表情をうかがう。読めない。笑ってもいないし、怒ってもいない。でも目が合うと、口許に笑みが浮かんだ。
「すみません。今日は初めてのデートなので、このへんで」
「へ?」
宮沢さんの言葉に、間抜けな声をあげたのは私。そして、宮沢さんはするりと私の手を手首から離したと思いきや、逆に彼女のほうから私の手をとってきた。指は絡めていないが、ぎゅっと繋がれる手。そして「失礼しますね」と、えらく爽やかな声で別れの挨拶をして私の手を引き、歩き始めた。
後方から「きゃぁ」とか「おおっ」みたいな小さな歓声があがったのは聞かなかったことにして、私はとりあえず二人から離れることにした。
駅ビルの中に入り、混雑したエレベーターで六階まで上がり、そこで降りた。
「何も訊かないんですか?」
隣を平然と歩く宮沢さんに私はそう言った。手はとっくに離している。
「座って何か飲みながら話そうよ。予定どおりにブックカフェでさ。そのほうが吉屋さんもいいでしょ?」
「それはそうですね。でも先に一つだけ」
「なに?」
「ああいう勘違いされるような真似、やめましょう。あの子たち下手したら、その、本当に私と宮沢さんがそういう関係だって思っているかもです」
ああいう手合いは妄想癖が激しくて腐っているものなのだ。
「じゃあ、私もひとつだけ先に言っておこうかな」
「なんですか」
「私はべつに吉屋さんが絵に描いたような文学少女じゃなくたって、嫌うことはないよ、ぜったいに」
「…………それはどうも」
なぜこのタイミングで、少女漫画のイケメンみたいな台詞をさらりと言うのかな。中性的な顔立ちや、さっきのあの子たちとの会話の流れで、うっかりドキッとしてしまった私がいた。
「これ、話せる雰囲気じゃないね」
目的地である、オープンしたばかりのブックカフェのすぐ脇まで来ると、宮沢さんが私にそう囁いた。小声にすればそれでいいのに、わざわざ耳元にその口を近づけて発したものだから、その吐息でぞくっとした。距離感、考えなさいよ。
その書店併設型のブックカフェは静まり返っていた。開店からまだ一時間足らずといったところだが、目に見える範囲では座席は埋め尽くされており、そこでは老若男女が読書に耽っている。歓談に興じている人などいない。
お昼の時間帯になると、また客層が変わるのかもしれない。とにかくそこに私と宮沢さんがおしゃべりできる空気はなかった。
「でも私たちは今日、ここを楽しむためにきたんですよね」
「私にしてみればそれは手段であって目的じゃない」
「はい? なんですか急に。何かの引用……にしては月並みな言い回しっぽいですが。目的が別にあるんですか」
「吉屋さんと仲良くなれるなら、ここのブックカフェにこだわらなくてもいいかなって。それはともかく、書店を見て回っていい?」
「では、何分後かに合流しましょうか」
私はスマホで時刻を確認する。二十分後に落ち合う手筈となった。
高い書棚の間をゆっくりと歩きながら、先の駅構内でのアクシデントないしイベントについて考えを巡らす。あの子が私について本を読まないと口にしたのを、宮沢さんは耳にしていた。聞き逃すような距離ではない。あの子が私について過去に剣道部に所属していて威圧的とも言える声を放っていたのを、彼女は聞いたはずだ。ぼんやりしていなければ。
幻滅の二文字が頭に浮かんだ。
彼女が私に? いや、そこには二つの誤りがある。まず今さっき宮沢さん自身が話していたではないか、私が典型的かつ模範的な文学少女であるか否かは些末なことであるように。好きになるとは言っていないが、嫌いにはならないのだと。
そして二つ目、むしろこちらが先にきてもいいけれど、私は宮沢円香という女の子の前で自分を取り繕う必要はそもそもないのだ。
夏目鏡花への憧憬は、同一視や同化という形をとって私の中で活性化している。つまり、彼女みたいな女の子になりたいという願望。なんてことない、ごく普通に巷でみられる行為だ。好きな芸能人、アーティストと同じ格好をして、同じ食べ物を食べ、同じ主義を抱くといった。それがたまたま、対象が二次元の存在であったというだけ。誰かに後ろ指をさされる振る舞いではない。人によっては嘲笑うだろうが、好きにさせておけ、だ。
それでも、なぁ。
めぼしい本を見つけたわけでもないのに足が止まる。
この後で宮沢さんから「どうして突然、文学少女に目覚めたの?」だなんて訊かれた際に、私は素直に答えられるだろうか。
柚葉の場合には、初めからあっちが私のことを剣道部の副部長だと知っており、それに彼女の性格のおかげで肩ひじ張らずに済んでいる。
私がシス庭のこと、そして夏目鏡花に関して話してみた時に宮沢さんが蔑むような眼差しを向けてきたのなら、ショックだ。この二週間で彼女の人柄をある程度はわかって、そんな目を向けてこないと信じているからこそ、裏切られるのが怖い。
じゃあ、もう逆に推していくのはどうだ。宮沢さんにも
「あ……」
宮沢さんと別れて十五分ほどして気がつけば、愛や夜、他にも扇情的な文字列が並ぶ本棚の前にいた。専ら成人女性向けの官能的な恋愛小説コーナーだった。鏡花ちゃんがこっそり読んでいる(読んでいない?)描写がある類の。
そこに並ぶタイトルを左から右へと辿っていた目をそっと閉じ、こんなところにいてまた知り合いに見つかったら厄介だなと、あたかも鏡花ちゃんと自分を重ねて、私は目を開いてまた歩き始めた。そのはずが、ぬっと宮沢さんが現れたので足が止まった。驚きのあまり、声が出なかったのは静寂を保つうえで役に立った。
「ちがうんです」
私は声を潜めて彼女に言う。でもそれが失態で、彼女は何も気づいていなかったらしく、並んだ本と書架上部に記されたカテゴリを読みとって表情を変えた。にやりと。決して下品な感じではなく品よく。
「手に取って読んでいない限りは証拠にならないかな。けど、その焦り方は可愛い。いいんじゃない? こういうのに興味があるお年頃だよね、私たち」
「誘導尋問はよしてください。通りかかっただけですから」
「そっか。私は『潮騒』の一場面を思い出していた」
「『潮騒』?」
「うん。三島由紀夫の。隅々までは覚えていないけどね。主人公の男の子が物陰に隠れて女の子をおどろかそうと考えて、やめる場面があるの」
「未遂なんですね」
「そう。なんだったかな、愛らしい靴音が近づいてきたのを耳にして、逆に口笛を吹いて自分がここにいるよって知らせる。そんな場面」
私は首をかしげる。え、それと今の私たちって何から何まで違う。
「近くに来たのに気づいていない吉屋さんの、肩でも叩いてびっくりさせようかなって思った。でも、すーっと目を閉じた姿が神秘的で見蕩れちゃった」
「私に神秘性はありません。それに、十二分に驚きました」
「じゃあ、よかった」
よくないっての。
納得していない私をよそに、宮沢さんは例の書棚から一冊、抜き取った。表紙にはドレスを着た金髪女性の上半身の実写と赤い花。書名から察するに一夜の過ちから、ラブロマンスがはじまりそうだ。
「宮沢さんはそういうのも普段から読むんですか」
「ううん、読まない。楽しめる自信なくて。一冊読んでみてもいいかも」
「止めはしません」
「ふふっ。止められたら読んでいたかな」
天邪鬼なことを言って彼女は本を元の位置に返そうとする。しかし両隣の本が隙間を狭め、片手ではうまく収まらない。私は無言で彼女の手から本をとりあげ、元に戻した。図書室で私の頬や髪に触れた手であり、駅で繋がれた手。その指を今こうして間近で目にして、自分から触れてみるとわかることがある。
「宮沢さんの手」
「うん?」
「バスケもいいけれど、ピアノを弾くのに向いていそうですね」
「そんなことない」
謙遜ではなく拒絶。
その声の硬さに私は地雷を踏んでしまった心地がした。
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