第2話
雨香る昼下がりの校内は薄暗い。
よくよく嗅げば、雨よりも生徒たちの昼食の匂いのほうが余程するのが現実だ。そしてどの教室を覗いても、大抵の生徒の表情は明るい。窓の外を眺め、灰色の空に思いを馳せているやつなどまったくいない。もしくはいても背景に溶け込み、私の意識の外にあった。
「鬱陶しい雨。行きと帰りの時だけでいいから止んでくれないかな」
「文学少女を志す
自然に無力な人間らしい私の愚痴に対し、向かいに座っている
「それはまぁ、私が平安貴族だったら空を仰いで、こんな雨だと今夜はあの人が来ることはないかしらなんて憂うかもだけれど」
「こんなお昼時から夜這いの話なんて、咲希ってば淫らだわ」
「はいはい。柚葉さまは相変わらず美しい言葉遣いですね」
入学以来、柚葉と空き教室で昼食をとるのが恒例となっている。彼女は同学年では唯一、私と同じ中学校の出身だ。中学生の頃はあまり会話したことがなかった。今現在でもこの昼食時を除けば、それほど親しい付き合いをしているわけでもない。
まっすぐな黒髪を基本的には結わずに下ろしている彼女。ともすれば、それは豊満な胸元にかかる長さだった。それでいて私と変わらない平均的な身長だから、世の中なにかと不公平である。肩がこるだけよ、と前に話していたが持たざる人間には挑発にしか聞こえない。
童顔に厚めの唇、その一方でクールな目つきは総合的に知的な印象を相手に抱かせる。おっとりとした口調のくせして、内容は遠慮ないことも多い。
本人曰く幽霊部員しかいない、さびれた天文同好会に所属している。なぜかその事実はクラス内に浸透しており、いわゆるミステリアス系女子の地位を得るのに一役買っていた。
「実際のところ、雨と文芸作品ってそんなに結びつかない」
「それは咲希がまだ多くを知らないからでしょう?」
「うぐ。ま、まだまだこれからだから。私の文学少女道は」
「武道か何かと捉えるあたりがもう違う気がするわ」
「手厳しいなぁ」
柚葉は彼女手作りの弁当を、綺麗な箸づかいで悠々と食べていく。私はというと、母親お手製、実態としては冷凍食品やレトルト食品にまみれた弁当。それを今日もパクパクと口に運ぶ。私の父は巨漢で柔道有段者なのだが、その彼が頭が上がらない相手である母に不平不満を申し立てる気は起こらない。
「映画の中の雨だったら、たとえばほら『雨に唄えば』」
人差し指をぴんっと立てて柚葉が言う。
「なにそれ。勝手に歌えばいいよ」
「知らない? アメリカの有名なミュージカル映画。もう半世紀以上前のね」
「へぇ、ちゃんと音声ついていたの?」
「あのねぇ……サイレントの時代は約百年前に終わっているわ」
「平安の世とは言えない頃だね」
「ええ。そうだ、近年のだったら『ショーシャンクの空に』は?」
タイトルを耳にした覚えがある。たぶん。その程度の知識だった。
柚葉は私の顔から無知を読み取ると、じとっとした眼差しをしてきた。スルーしておこう。宮沢さんだったらフォローしてくれたのにな、なんて思いもする。
「あと、何年か前にアニメ映画でも雨が印象的なのがあったわ」
「柚葉って映画、詳しいんだ」
「パパが若い頃に映画関連の会社で働いていたの。家にビデオやDVDがたくさんある。それで小さい頃からあれこれ観てきたわ。毎週日曜日、ママと弟も入れて四人で。私たち子供はよく途中で眠っちゃった」
「幸せな家族の肖像だ」
「そうね、在りし日の」
柚葉はさらりとそう返すと、ドレッシングのかかっていないサラダをむしゃむしゃとし始めた。私には彼女が咀嚼を終えるまで猶予が与えられた。つまり彼女の今の家庭事情をそれとなく訊くか、訊かないでおくか。
「そういえば、咲希と宮沢さんが話しているのは今日初めて見たわ」
そんな話題を彼女が振ってきたのは、私が迷った末に丸々としたコロッケを口に放り込んでからだった。
「あの子、誰とでも仲良くなれそうな人よね。みだりにスキンシップしてこないのも評価できる点だわ」
ひとりでにうんうんと肯きながら続ける柚葉。
彼女は五月の大型連休明けに、友人未満のクラスメイトの女の子から胸を軽く指でつつかれた経験があり、その時のことを今なお根に持っている。個人的には、あげた声が素っ頓狂なものであって、色めかしくなかったのは不幸中の幸いだったと思える。
「席が遠かったから聞こえなかったけれどあの子と何を話していたの?」
「毒にも薬にもならない話だよ」
私はコロッケを飲み込んでから応じる。
「今日は雨が降っているね、うん、そうだねって。片腕が不自由だと傘を差したらいざというとき身を守れないね、とか」
「片腕でもできる護身術を咲希が教えてあげたら?」
「私がしていたのは剣道。それ以上でもそれ以下でもない。なに、傘を竹刀に見立てて技を伝授しろって? そんなの小学生の悪ガキの戯れだよ」
「一刀両断ね」
「うまいこと言うじゃん。宮沢さん、昨日図書室に来たんだよね」
「あなたの縄張りの」
「その表現は野生動物や反社会的勢力っぽくて嫌だな。図書室ってのは、文学少女にとってのいわば聖域だよ」
「で? 彼女、本を借りていったの?」
「ううん、私と話しただけ」
「変わった子ね。いえ、ちがうわよ。咲希と話したがるのが奇天烈ってわけじゃなくて。図書室に来て本に見向きもしないなんてね」
「でも、あの感じだと私より読書家の可能性がある」
「興味深いわね」
言葉とは裏腹に、柚葉は弁当の残りを食べる速度をあげて、追究してこなかった。されても満足のいく説明はできそうにないからいいか。私が話すのを待っているふうでもないし。良くも悪くも柚葉に私から遠慮する必要はない、それがこの二カ月で導き出した結論だった。
その日の放課後もまた、宮沢さんが図書室にやってきた。
昨日でさえ聞き取れなかった足音は雨音にかき消され、出入り口のドアが開くまで彼女の気配は一切感じ取れなかった。もしかしたら、と思ってちらちらと出入り口のほうを見やっていた私だが、そのタイミングから外れての来訪だった。
「よかった、今日も司書さんいないんだ」
「よかった?」
「いやさ、吉屋さんのところに行こうかなって思ったはいいけど、忙しかったり誰か他の人がいたりしたら、話しづらいなぁって」
「図書室はそもそも……」
「もうっ、そういうのはナシ! 昨日の吉屋さん自身を思い出してみて、はい!」
ナチュラルに可愛い子ぶった口調しやがって。そういうのが許されるのは画面の向こうの存在だけだっての。くぅ、これだから快活美人はさぁ。
彼女はカウンターを背もたれにする。厳密には背までの高さはない。もしその腰をカウンターに下ろそうものなら、ひっぱたいて糾弾してやるのに、彼女はそこに身を寄せて肩から上をこっちに向けるだけだった。
「はぁ。それで宮沢さん、今日はどうされたんですか」
私は彼女を見上げて訊く。
隣にとは言わないけれど、どこか適当な席に座りなさいよ。
「ずいぶん分厚いの読んでいるね。ひょっとして文学全集?」
投げたボールとは別のボールが返ってきた。そんな会話のキャッチボール。
「ええ、そうですとも」
「お、なんだか得意気だ」
「ちがいます。やめてください、冤罪ですよ」
「ふふっ、そっちこそ唐突な被害妄想はやめてほしいな。誰の作品?」
「夏目漱石です。長編はその、えっと、時間がかかるから短編と中編を」
「じっくり読むタイプなんだ。しかも紙の本。漱石ならタダでネットで読めるのに」
「え? 合法で?」
「小説の著作権って著者の死後七十年後に切れるから。今じゃ多くの文学作品がパブリックドメインなんだよ。知らなかった?」
にっと笑う宮沢さんにたじろぐ。中学三年生の公民でそのあたりも習ったようなと今更ながら思い起こす。
まぁ、待て。世間知らずというのはクラシックスタイルの文学少女の属性としてはありなのではないか。小説の世界に没頭するあまり、俗世への関心をおろそかにしてしまう。うむ。これでいこう。
「ほら、スマホ取り出して」
私がまた妙な言い訳を考えていると彼女が要求してくる。
「いけません。ここでは使用禁止です」
「いいから。読めるサイト教えてあげる。もったいないよ、本好きが知らないのはさ。そうでしょ?」
「反駁する材料が二つあります。一つに私が紙媒体の書籍を好むということ。そしてもう一つが、ええとですね、実はあんまり古い作品が趣味じゃないといいますか」
「でも、夏目漱石に興味があるんだよね」
「そうとも言えるしそうでないとも言えますね」
「なにそれ、禅問答?」
宮沢さんがくすっと笑う。ゼンモンドーってなんだ。知らない。ひょっとすると、この宮沢という少女は、いくつかの意味で弱者たる私をからかうべく、今日もこの場所に足を運んだのではないか。無邪気な笑みの裏にどんな陰謀があるかわからない。人間不信に陥りたくはないが、しかしここで彼女の好きにさせてはならない。
私はにわかに帯びた顔の熱を振り払い、堂々と立ち上がると、凛とした声色で彼女に言う。
「いいですか、宮沢さん。たとえ怪我をしていてもバスケ部の一員としてできることはいくらでもあるはずです。こんなところで、ひ弱な図書委員を苛めていないで、向かうべき場所があるのではありませんか」
「吉屋さんがひ弱……?」
「引っかかるところそこですか!?」
私が立ち上がったのに合わせて、彼女は方向転換して私と真正面に向き合う。背中に隠れていた彼女の右腕を改めて目にする。
「吉屋さんの言うとおりだね。邪魔しちゃってごめん。一人で静かに読書したいって気持ち、わかるよ」
しゅんっと。泳ぎ始めた目線が彼女の頭そのものを下げていく。まるで私が彼女に心ない言葉をぶつけて傷つけたような光景だった。
「――――何か理由があるんですか」
「え、何の?」
「バスケ部に出向かずに、放浪している複雑な経緯が」
「放浪って。そんなうろうろしていないよ」
顔をあげて、ぎこちない笑みを作る宮沢さん。
「あのさ、吉屋さん」
「はい」
「もしもね、この怪我はただの事故じゃないって言ったらどうする?」
「それってたとえば野良猫を自動車から助けるために身を挺して……」
「私、そんな柄じゃないって」
「伝説のレイアップシュートの修行のし過ぎで……」
「はい、ツーアウト」
どうして野球なんだ。トラベリングや三秒ルールでもいいのでは。
「次、見当違いのことを言ったらチェンジだからね」
宮沢さんが右手を伸ばし、私の左頬にそっと触れてきた。
撫でもせず、つまみもせず、鋭い刃を添えるような。不意打ち。あまりに自然な動作だったから回避できなかった。そして実際には刃物ではない彼女の右手の指先から伝うのは体温。その手が近すぎるせいでよく観察できない。その五本の指がいずれもバスケットボールプレイヤーに適した形状をして、そうだとわかる痕があるのか否かもわからない。
チェンジしたらどうなっちゃうんだ? 攻められちゃうのか? 待ってよ。私、べつに攻めてなくない? なに、ドキドキしちゃっているんだ私は。
あれか、この子は中学時代から後輩の子たち男女問わずに口説いてきた王子様系女子なのか。その容姿からして、さもありなん。一人称に「ボク」使っちゃうやつか。
私は半歩退く。その指先から、つまり彼女の温度から逃れるために。
「では、もしかしてバスケ部の誰かが、その怪我の原因なのですか?」
笑い飛ばしてくれと思った私だったが、彼女の上がっていた口角が元に戻ったのを目にしたとき、聞こえなかったことにしてくれないかなと願った。
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