文学的と言い難い恋、たとえば図書室にバスケットボールがいくつ入るかについて
よなが
第1話
囁き声すら五月蠅いしじまに、独り酔いしれていた。
数日にわたって降り続いていた雨の気配も、無作法に窓を叩く風も今日はない。こう静かだと、手元の本の頁をめくるのにも慎重になってしまう。微かな音が、書架に並んだ大勢の物言わぬ本たちにとって耳障りにならないのを祈った。それと少女一人分のささやかな息遣いは許してほしいとも。
カーテン越しの夕日は、明るい部屋に色をほとんど加えない。私の他に誰もいないのだから、いっそ照明を消してカーテンを開き、落日の光を頼りに本を読み進めるのもありかなと思った。
そのほうが文学少女らしいよね?
どうだろう。数少ない長所の一つと言える視力を、悪くする行為は避けたいものだ。それに人が来ないとも限らない。誰かが入ってきた時に、夕映えする文学少女として絵になるのは嬉しいが、図書室の亡霊扱いされて怖がられるのは御免だ。
それはそれとして、目が滑る。
頁をめくろうとした指が止まった。もう何度目かわからない。背伸びして、百年以上前に書かれた小説を読んでみてはいるけれど、五行読んでは三行戻っている。実のところ、書かれた年代はさほど関係なく、こいつの文章が私の頭と相性が悪いのだと感じ始めている。ああ、待った。文豪をこいつ呼ばわりは穏やかでないし、雅でない。それは文学少女らしくない。落ち着こう。千年以上前の作品だって古典の授業で読まされているではないか。
舟を漕ぎかける。そして六度目の欠伸を、それまでと同じように噛み殺し、涙を拭った私はとうとう本をぱたりと閉じた。まるでそれが合図であったかのように、図書室のドアがガラガラと風情に欠いた音を鳴らして開かれる。
そこに一人の女子生徒が立っていた。同級生の
「あ、ほんとに
開口一番、彼女が発した礼儀正しいと言い難い台詞。喩えるなら、昼間の動物園にて、檻の中の住処に隠れる夜行性の動物を見つけたような。
急に現実に戻された感覚がした。夕暮れ時の図書室で一人、優雅に読書をしていた自分をどこか幻想的な世界に置いていた私だったのだ。
「宮沢さん、私に何か用ですか」
わざとらしく一つ咳払いをしてから、私は図書委員の定位置であるカウンターの内側で、首から上だけを彼女に向けて口にした。
英語や数学の課題の類は問題なく提出していたはずであるし、そもそも彼女がそうした提出物の回収係ではないはずだ。彼女の現状を考慮すればなおさら。だとすれば、私にいったい何の用だろう。
「そうだなぁ、ちょっと退屈していて」
「なるほど。それでここに来たということは、本をお勧めしてほしいのですね」
ふむ。文学少女にうってつけの依頼だ。胸が高鳴り、腕も鳴る。とはいえ、宮沢さんの好みをまったく把握していないうえに、いざ細かく訊かれたら適切な一冊を選べる自信がない。いやいや、弱気になってどうする。
私は読むのを断念した本をそっと抱えると、すっと立ち上がった。そのまま、出入り口をまたガラガラと閉めた彼女の傍に寄る。
「その腕の治療に役立つ本に心当たりはありませんが、気休めになる本は選べるかもしれません」
そう言って私が微笑みかけると、宮沢さんはばつの悪い顔をした。気の利いたことを言うつもりがまずかったか。腕の怪我は話題にするべきではなかった。
宮沢さんは女子バスケットボール部に所属しており、一年生ながらも先月の大会で活躍したという。そんな彼女はつい先週、左腕を骨折して全治一カ月を要していた。今もそこにはギプスと包帯がつけられていて、痛ましい。
「ちがうの。本はよくて。ただ、吉屋さんと話したくて来たんだ」
「私と?……いえ、図書室はおしゃべりするところではありません」
「でも、うとうとする場所でもないよね」
虚をつかれるとはまさにこのことか。宮沢さんが意地の悪い表情を浮かべて、私は反射的に「見ていたの?」と言っていた。
「今さっきね。そーっと、ドアを少しだけ開けたら眠そうにしているのが見えたから。そのまま眠りこけたら、その場を去っていたかも。それともあれは寝起きだった?」
「眠っていません」
「ぷっ」
笑いやがったぞ、こいつ。
「ごめん。そんな顔もするんだって思って」
「存外、失礼な人ですね。それで話というのは?」
「べつにこれだっていう話はなくてさ。入学してもう二カ月になるでしょ? うちのクラスの女子の中じゃ、まともに話したことないの吉屋さんだけだったから」
クラスのみんなと仲良くしたい系女子なのか、この子。そういうの面倒だな。独りは嫌だけれど、交友範囲は狭くても気にしない私とは相容れぬ価値観だ。
「どうかな。眠気覚ましにさ。吉屋さんが好きな本の話をしてくれてもいいよ。こう見えて私、そこそこ本を読むから」
「ごめんなさい。私は誰かと本の感想や評価を共有したいタイプではないので」
「そっか。んー……とりあえず座ろっかな。出ていけとは言わないでしょ?」
「ええ、もちろん。閉室の時間まで好きなだけ本を読んでください」
でも片腕だと読みにくそうではあるよね。
私は宮沢さんから離れて、本を元あった棚に返しに向かう。すると彼女はごく自然に後ろからついてきた。
「それってさ、遠回しに私と話したくないってこと?」
そんな声をすぐ背後からかけられる。その色に怒りはない。振り返ると、果たして笑っている彼女がいた。
「歓談に興じる場ではないというだけです」
「じゃあ、今日はいっしょに帰ろっかな」
「変に意固地になっていません? 私と話したって……」
「それ、ブーメラン。ちょっと話すならいいじゃん。他に誰もいないし」
私は肩を竦めてみせ「そうですね」と了承した。
クラスの人気者の気まぐれだ。たった一日、ほんの数分程度付き合ったっていいだろう。閉室まではまだ時間があるが、ずっと彼女がいるとは思えない。そんな盛り上がる話はないだろうし。
私がカウンターの内側に座り直すと、宮沢さんはさも当然のように隣に座った。そこも学校司書か図書委員のための椅子なんだぞとわざわざ主張はしないでおく。
「静かなもんだね。うちに司書さんっていないの?」
「いるのは非常勤の学校司書一人だけです。他校と掛け持ちしているので、いない日も多いんですよ」
「ふうん。吉屋さんみたいな活動的な図書委員はどれだけいるの」
「さあ。昼休みは他の一年生と二年生が持ち回りで担当してくれていますし、月曜日は放課後には別の人がここにいるのは知っています」
私と親しい間柄にある委員はいない。ちなみに月曜日は授業が終わるのが早いため、さっさと帰って家でゆっくりしている。
「うん? 月曜以外の放課後は吉屋さんがずっといるの?」
「特に用事がない限りは。部活動みたいなものです」
「わお! この情報、下手に漏らせないな」
芝居がかったおどけかた。これ、美人だからセーフだよね。わかってやっているのかな、うん、わかっているんだろうな。
「それ、どういう意味ですか」
「だってほら、可愛い女の子が放課後に寂しく一人でいる日が多いってことじゃん。しかもさっきの様子だとけっこう無防備。こんなの聞いたら、飢えている狼がやってきてもおかしくないって」
「可愛くも寂しくも無防備でもありません」
「後ろ二つはよくても、可愛くないってのは無理があるよ。真面目な話、変なやつが寄りつかないように警戒したほうがいいって。何かあってからじゃ遅い」
いかにも本気で心配するトーンで宮沢さんが言うから、気圧されてしまう。ろくに話したことのないクラスメイトから忠告を受けるというのは不思議な感じだ。余計なお世話よと突っぱねるのは、文学少女ではないだろう。
「吉屋さんはさ、海辺の宿で眠らされている裸の女性でないのだから、群がるのは若くてお盛んな男の子たちだよ」
「はい?」
私が返答を熟考していると、今度はさらに不可解な比喩が宮沢さんからもたらされて当惑する。正直、そこには不快感もあったがすぐに失せた。というのは、首をかしげる私に対して、彼女が気恥ずかしそうな面持ちになっていたからだ。
「えっと、今のは川端康成の『眠れる美女』が元ネタっていうか……わ、忘れてっ。吉屋さんなら知っているかなって勝手に思い込んだだけだから」
眠れる森の美女なら知っているが、そうではないのだろう。
『雪国』の人だよね? あと、なんだっけ。なんとかの踊り子。
何はともあれ、本が好きというのは出まかせではないらしい。ひょっとすると、私より読んでいるかも。
「宮沢さんってたしか高校進学に合わせて引っ越してきたんですよね」
微妙な空気が流れた後、私は思い出したことを確認した。彼女は肯くと、この国で有数の都市の名前を言う。そこと比べたらこの町はかなり鄙びているだろうな。
「バスケはいつから?」
「中学校に入ってから。中一の時点で、身長が160センチあったから先輩に勧誘されて。ま、私って中学の時に大した選手だったわけでもないんだけどさ」
「そうなんですか? でもこの前の大会じゃ、大活躍だったって」
「この地区のレベルがそんなに高くないってだけ。これ、内緒にしてね」
誰に言ってもどうにもならない情報ではないか。悪口っていうのとも違うと思う。私はそんな返しを飲み込むと、自分の要望を伝える好機と捉えた。
「私が眠そうにしていたってのも秘密にしておいてくれますか?」
「わかった、それでいこう」
「ありがとうございます」
「ところで『三四郎』はもう読んだの?」
「えっ」
「吉屋さんが持っていたの『それから』だったから。あ、その顔はわかっていないな。『三四郎』『それから』『門』で夏目漱石のいわゆる前期三部作だよ」
言われてみればそうだった気がする。前に調べた時は。
「順番に読まなきゃダメってこと?」
「そんなことなかったと思う。テーマが共通しているってだけで」
「へぇ……」
私は『それから』を二割ぐらいしか読めておらず、他の二作品に関しては一頁たりとも読んでいなかった。
「気を悪くしたならごめんね。昔の本をたくさん読んでいるのが偉いってことはないもんね。好きな本を好きなふうに読むのがいいよ」
呆けていた私に宮沢さんはそう言った。
なんて爽やかなやつだ。かえって自分が情けない。逆恨みこそしないが、あえて大袈裟に言えば辱められた気分だ。私の似非文学少女ぶりを見抜かれてしまったみたいな。
「そうですね。宮沢さんの言うとおりだわ」
精一杯のすまし顔をつくって返した。口調が不安定だがしかたあるまい。
「円香でいいよ。みんな、そう呼んでいる」
「そう? でもしばらくは宮沢さんにしておきます。ほら、雨ニモマケズ風ニモマケズってね」
何を言っているんだ私は。
衝動的に、ようは自分を文学少女っぽく仕立てようとした結果がこれだった。これでは安っぽいな。
私の珍妙な宣言に、一瞬ぽかんとした宮沢さんだったけれど、それからくすくすと可憐に笑った。それともかぷかぷと表現すべきだろうか。
その日、宮沢さんといっしょには帰らなかった。帰り道が逆方向だったからだ。それに彼女は怪我をする前から電車通学であるそうだが、私は自転車通学である。今日みたいな梅雨入り直後の稀な晴れ間だと快適に登下校できるが、雨天の日には雨合羽を着込んでの通学だった。
かくして校門前で私たちは別れた。彼女は私へと右手を小さく振って笑う。
「また明日ね。眠り姫さん」
眠っていないっての――――そんな弁明をするのを忘れてしまうほど、夕焼けに照らされ輝く彼女の笑顔は眩しく、素敵だった。
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