第3話
甘酢あんのかかったミートボールが一つ、箸から滑り落ちた。
柚葉が黙ってポケットティッシュを差し出してきたから、私はありがたく受け取り、机上に鎮座しているそいつを包んで拾い上げた。しばらく所在無げにしていたが、また机上に置き直す。後で捨てにいこう。床じゃないから食べたってお腹を壊すなんてないと思うんだけれどな。もっと言えば、床に落ちたってすぐに拾えば……。
「肉団子一つで、そんな恨めしい顔するものではないわ。それともそこには何か文学的意味があるのかしら」
「ないよ。社会的意義を見出すなら、フードロス削減への前向きな心が、もったいないぞと叫んでいる」
「物は言いようね。それで? 宮沢円香が放課後の図書室に来るようになって一週間。何か問題でも?」
「疲れる。ちょっとね」
先週の水曜日から金曜日の三日間、そして今週の火曜日から木曜日の三日間。もし今日も彼女が図書室にやってくるのなら確かに合わせて一週間となる。
私と柚葉は今日もいつもの空き教室で昼食をとっていた。
「どうせお淑やかな女の子を無理して装っているからでしょう?」
「どうせって言わないで。それに私はもとより品性を重んじる人間だよ。装っているだなんてひどい言い草」
「でも、今みたいな話し方はあの子相手にしていない。ちがう?」
「それは……まぁ」
「今日あたり向こうから、もっとフランクに話してほしいって頼まれたらどうするわけ。私は文学少女なので勘弁してくださいって逆にお願いするのかしら」
「柚葉の意地悪」
「べつにからかっているのではなくて、現実に起こり得る状況を先んじて話しているに過ぎないわ」
ふふんと柚葉は箸で煮豆を一粒摘まんで口許に運ぶ。豆の良し悪しはわからないが、それが塩味のきいたピーナッツと違う味というのは察する。
「なにか噂になっていないよね? 宮沢さんと私のこと」
「知らないわよ。私が噂好きの女の子に見える?」
「見えない。そんな柚葉の耳にも入っていたらと思って」
「放課後、他に誰もいない図書室で女子二人が逢瀬を重ねているって?」
「柚葉以外の子が表現するなら、もっと直接的で下品な作り話になるかも」
「あら、そう」
柚葉の顔にはどうでもいいと書いてあった。少なくとも彼女は私が危惧したような噂は聞いていないようだ。そこには安心したが、しかし……。
「なによ、湿っぽい顔して。それじゃいよいよ病弱で本しか友達のいない文学少女らしくなってしまうわよ」
「それはそれでありかな」
「もしかして、本当にあの子と何か特別な応酬をしているの?」
「特別ってわけじゃない。ただ、教室では見ることのない宮沢さんを見ている、そんな気がする」
「ここ、笑うところ?」
「なんでよ」
「まず今の咲希こそ、教室での優等生かつ寡黙な女子生徒・吉屋咲希とは違う」
「うん」
「そして表面上は周りの目や耳を気にしているみたいだけれど、真にあなたが気にしているのは宮沢さん本人だけよ」
ずばりと。図星を突かれたような。
クラスメイトの中には柚葉の容姿から、占いでも趣味にしていると勝手に予想していた子もいたが、実のところ、柚葉はスピリチュアルな類をほとんど信用していない。「天気予報だってあんなに外れるのよ、何が占いよ」と前に話していた覚えがあった。星占いをしないタイプの天文好きなのである。
柚葉になら、と私は先日に宮沢さんとした会話を共有してもいいのではと思った。でもその決心が固まる前に彼女は私の瞳を覗き込む。
「ねぇ、咲希。ひょっとして」
「なに」
「あの子に惚れた?」
なんでそうなる。がくっと私は右肩をずり落とすというオーバーなリアクションをしてしまった。
「まさか」
「応援しないけれど差別もしないわ。つまり干渉しない。アドバイスしておくと、相談する相手は選んだ方がいいってこと。私、恋愛相談なんて面倒で嫌だもの」
「勝手に話を進めるなっての。そう言う柚葉は、つい昨日イケメンの先輩に声をかけられるところを見たって誰かが言っていたよ」
「思い出させないで。胸ばかり見やがったあの屑野郎なんて、不能になってしまえばいいのよ」
「ああ、うん。ごめん」
この子はこの子で教室では見せない一面を私に見せてくれている。もっとも柚葉の場合、クラスの男女にとって高嶺の花になっているから、その素がばれにくいだけで、きっ皆と会話するようになれば包み隠さず今のような台詞も平気で口にするんだろうな。
放課後を迎え、図書室で配架作業にとりかかる。貸し借りされる本の冊数は少ないから、素早くやろうとすればすぐに終わってしまう作業だ。無駄に丁寧に不必要に時間をかけてのらりくらりと行いながら、宮沢さんとのやりとりを思い出してみた。
右腕の全治一カ月の怪我。その原因が同じ女子バスケットボール部の誰かによる犯行だと彼女は先日、私に明かした。私の出来損ないの推理が的中したのだ。
階段からの突き落とされたのだという。はっきり言って、それは殺人未遂だ。右腕一本、たかが一カ月で治る負傷で済んだのは幸運でしかない。
犯人の姿は目撃していないそうだが、当時の状況から鑑みてバスケットボール部員だと彼女は推察したのだった。事件発生は五月上旬、午後から雨が急に降り出した日のこと。体育館のコートの割り当ては曜日と時間による交代制をとっており、その日の女子バスケ部はコート外での筋力トレーニングが中心だった。普段なら校舎外周のランニングもそこには含まれるのだが雨のせいで校舎内を走る段取りとなった。
ランニングが長時間になればなるほど、最初こそ団体で走っていた部員たちにも差が出てきて、やがてバラバラになった。そして宮沢さんの周囲に人がいなくなるタイミングが生まれた。そして階段を下るコースに差し掛かった際、誰かに背中を押された、宮沢さんはそう供述した。押される直前、聞こえたのはたしかにバスケットボールシューズの音だったと。
言わずもがな私は裁判官でないし、宮沢さんもそれほど真剣な語り口ではなかった。むしろ彼女は最近読んだ本のレビューでもするみたいに私へとその怪我の背景を話したのだった。
ちなみに大多数の生徒とそして教職員にとっても、校舎内ランニングは不評であるのに、あたかも伝統行事みたくこれまで続いていた。だが、宮沢さんの一件で当分はすべての部が禁止ということになった。それが一年なのか十年なのかは不明だ。
配架作業を終えて、カウンターに戻ると同時にドアが開く。そこに宮沢さんが立っていてももう驚かなくなっていた私だった。
「あれ。今日は一段と難しい顔していない?」
「そんなことありません」
小さな溜息を一つついて返事をよこすと、私はカウンターの内側の椅子に腰かけた。すると宮沢さんはスッと隣の席に座る。昨日、一昨日は学校司書が座っていた席だ。
その四十過ぎの小太りで声の小さい女性と宮沢さんはすぐに打ち解け、私よりも楽しげに話していた。彼女が縁の厚い眼鏡のレンズをクロスで拭きながら「吉屋さんは真面目すぎてなかなか話してくれないし、声もかけづらいのよねぇ」といっそう声を潜めて言っていたのをしかと聞いた。なお、それに対する宮沢さんの反応は「そうですね」と愛想笑いだった。
「あの、宮沢さん」
「珍しいね。吉屋さんから話を振ってくれるなんて。それにテーブルに本もないし、何か大事な話?」
「ここ数日で考えたことです」
「なにかな」
「単刀直入に言います。やはり、先生方にも打ち明けるべきです」
「学校司書さんが、給与の低さを嘆いているって?」
「そんなの私の知ったことではありません。あなたの怪我の件です」
私の言葉に、頬を掻き「うーん……」と唸る宮沢さんだった。
他ならぬ彼女が、その右腕の怪我ついて事故として処理することになった一番の原因である。すなわち、彼女は誰かに背中を押されたなどと証言しなかったのだ。名乗り出た生徒も今のところいない。嫌な想像をすれば、彼女の怪我の様態が深刻であったり落命したりであれば、罪悪感に押しつぶされての自首があったかもしれないけれど。
「学校側への報告。それで解決に向かうって考えているの?」
「解決というのが今回の場合、何を指すかはわかりません。ですが、最悪の事態は避けられます」
「つまり?」
「犯人が明確な殺意をもって宮沢さんを突き落としたのなら、再び犯行に及ぶ可能性があると思いませんか。事故ではなく事件であったと公になれば、それを防げるはずです。まともに捜査が行われるかどうかはまた別ですけれど」
「吉屋さん、推理小説も嗜んでいるの?」
「はい?」
宮沢さんは微笑んだ。どうにも調子が狂う、妖しい笑みだ。敵意を一切感じさせないどころか、私の言動がちぐはぐなのだとすら思えてくる。
「この前、話したでしょ? 誰にもそんなに恨まれていないはずなんだって。たぶん、半分事故みたいなものだよ。魔が差したみたいなさ」
「ですが!」
「なんだったら、少し脅かしてやろうって思って背中を軽く叩いただけなのかもね。記憶が曖昧だから、そうじゃないって言いきれないもん」
「猫が飼い主のお気に入りのアクセサリをひっかくのとはわけがちがうんです。その怪我、完治したって前みたいにバスケができる保証あるんですか」
「そこは大丈夫。医者が言うには支障ないって。そりゃ、一生ものの傷だったらこんなふうに笑っていられないよ」
「そこには精神的な部分が加味されていませんよね。無自覚に片腕をかばってプレーすることで全体に乱れが生じるおそれもあるでしょう」
「なぁに、今度はスポ根漫画あるある? 心配性なんだね、吉屋さん」
ダメだこりゃ。なんだよ、こいつ。
何かあっても知らないぞ。いや、知っているから嫌なんだ。もしも近日中に宮沢さんの身にまた何かよからぬことがあれば、その時に「ああ、もっと必死に説得すべきだった」って後悔するのは目に見えている。そこで終わらずに、たとえば加害者の容疑を私にかけられでもしたらどうする。いやいや、もっと悲観的になれば、宮沢さんを害した誰かが私にもその魔の手を伸ばしてきたら? 洒落になっていない。
「ごめんね。言わなきゃよかったよね」
そう口にした彼女がまた、無駄のない動きで私へと手を伸ばし、今日は髪を撫でてきた。私は後ろ向きな発想と保身を一旦、中断して彼女を睨む。
「ほんと、そうですよ。あと、馴れ馴れしく触れないでください」
「綺麗だったから、つい。地毛なんでしょ?」
「母譲りです。……お世辞、いらないですから」
やや栗色がかっているだけだ。それだけなのに、染めているのを疑われることが少なからずある。今や文学少女を目指す私としては黒染めしたいぐらいなのに。彼女だって黒髪なのだから。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている?」
「誰が坊ちゃんですか」
「おお! 伝わった。嬉しいな」
内心ヒヤリとした。夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭部分の引用。漱石の中でも読みやすい長編だってことで高校入学前に読んだのだ。……半分だけ。中学の教科書にも少し載っていた気がする。覚えていてよかった。宮沢さんを嬉しくさせるつもりはなかったけれど。
「お願いしたいことがあるの」
やっと手を離した宮沢さんがかしこまった調子でそう言う。もしや柚葉が言ったとおりに私の言葉遣いに関する頼みかと、身構えたがそうではなかった。
「くれぐれも独自調査なんてしないでね。私は吉屋さんほど、この件を重く考えていないけれど、もしも何かあったら……」
彼女は言い淀むとそれっきりだった。察しろということか。面倒なやつ。
「わかりました。ええ、そういうことなら忘れることにします」
「それと連絡先を交換しておきたいな」
「なぜ?」
「来週からは部活に顔を出そうと思うの。それでこういう時間は減っちゃうから。吉屋さんがよくても、私は寂しいなって」
「なら、もう部活やめてしまえばいいじゃないですか」
投げやりな提案。
彼女が言うように真実が事件もどきに過ぎないならそれでいい。しかしそうでないのなら、部活動に復帰するなんて文字通り自殺行為だ。底なし籠に球を入れて何が面白いんだか、とまでは選手を前にして言わないが。
「それもありかもね」
力なく笑ってそう返してきた宮沢さんだった。
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