第1話 レプリカは、夢を見ない。(7)
ささくれ立った心のまま、部室に戻りたくはなかった。
「図書室、寄っていっていい?」
職員室の隣。つまり文芸部室と職員室の間にあるのが図書室だ。
もとは物置きだったといえども、これだけの好立地を獲得できた先輩たちを私は尊敬している。多くの学生にとって職員室のご近所は罰ゲームに近い位置取りかもしれないけれど、図書室を利用する頻度が高い私にはありがたい。
「分かった」
開け放たれたドアから入室する。顔見知りの司書さんと、本を借りる上級生の姿が目に入った。
ちらっと本の背表紙を確認する。乃南アサの『しゃぼん玉』。どんな本なのかタイトルだけだと分からない。今度読んでみようかな。
図書室の利用者は普段から少ない。職員室の半分くらいのサイズの部屋には所狭しと本棚が置かれているが、ここで同時に五人以上の生徒を見たことはない。授業で調べ物ができたときは、テーブルが埋まるくらいの生徒で溢れたりもするけれど、そういうときの図書室は雑多な物音で溢れていて、なんだか知らない場所のように感じる。
壁に沿うように並ぶ本棚の脇を歩いて行く。通学路と同じくらい通い慣れた小道。黄ばんだ本の香りに囲まれていると、荒んでいた気持ちが凪いでいく。
私は現在、近代日本文学作品をローラー中だ。芥川龍之介、太宰治、樋口一葉、坂口安吾。誰でも名前や作品名をひとつは知っているような、超超有名な作家たちの作品を読みまくっている。
今とは名前の違う時代に書かれた作品は、意味の分からない言葉が出てくることも多くて、部室に置いてある広辞苑や国語辞典によくお世話になっている。本によっては単語の解説が後ろにまとめられていたりもするけれど、解説の中にも分からない単語があると、辞書を開かずには読み進められなくなる。ぺらぺらと分厚い辞書をめくって、単語を指で辿る時間や、目についた言葉に心奪われて読み耽る時間が好きだから、電子辞書は授業以外では使わない。
近代日本文学の前は何ローラーしていたかというと、海外推理小説ローラー。その前は現代文学ローラー。有名な作品や気になった作品をいくつか手に取っただけだから、その方面に一気に明るくなったわけではない。
私が本を読むスピードよりも、一冊の本が世に生みだされるスピードのほうがずっと速いのだと知った。
真田くんは無言で、ゆっくりと後ろをついてくる。
話しかけようと思い立つのに、そう時間はかからなかった。私語厳禁ということになっているが、うるさくしすぎなければ怒られたりはしない。前に注意されたのは、隣のりっちゃんが「やば! リゼロ置いてあんじゃん!」と叫んだときだけだ。
そういえばリゼロがなんなのか、聞きそびれたままだった。
「真田くんって、本とか好きなの?」
「別に」
別に好きじゃない。別に嫌いじゃない。どっちだろう。
「フツー」
なるほど。
だいたいの人はそうだと思う。本は好きですか。別にフツー。
今さらながら、部活動について何も説明していないことに思い至った。
「文芸部ではね、私はだいたい小説読んでて、さっき部室に一緒にいたりっちゃん……広中律子ちゃんは、自作の小説を書いてるの。ときどき、私はりっちゃんが書いた小説を読んで感想を言ったりもする」
返事はなかった。ついさっきまで、端的にでも言葉を返してくれていたのに。
不思議に思って振り返ると、真田くんが頰をかいている。数分前にも見た仕草だ。
あ、と遅れて気がついた。十本の指はきっちりと爪が切られていた。困ると、頰をかく癖があるのかな。
「小説って書いたことないんだけど、書かないと駄目とかある?」
心配事のポイントが分かって、私は微笑んだ。
「ないよ。ぜんぜん。コンクールとかも別にないし。あ、りっちゃんは個人的に小説賞とかに送ったりしてるんだけど」
「へぇ」
関心が薄い相槌。
「あとは文化祭のときに部誌も発行する。去年のは感想文を掲載しただけなんだけど、普段は小説や詩とか、コラムやエッセイを載せたりするの」
「感想文って、読書感想文?」
「そうそう」
私と先輩二人とも、文章やイラストを書く人じゃなかった。でも何も発行しないわけにもいかず、三人ともとりあえず本の感想を千字くらい書いて、脇にフリー素材のイラストを貼りつけた。歴代の部誌の中で、恥ずかしいほどに最もページも内容も薄っぺらな一冊。
今年はりっちゃんがいるから、昨年の二の舞にはならないだろう。
「愛川って、真面目に部活動とかやるんだ」
急な一言に、控えめに浮かべていた笑顔が固まる。
「いつも体育館の外できゃーきゃー言ってるイメージだったから」
うっかり項垂れそうになった。
素直は一度も、文芸部室に来たことはない。そんな素直が放課後に何をしているかといえば、イケメン揃いと有名なバスケ部の練習を見学しているのだ。
素直自身はそこまでバスケに興味がなくて、ただミーハーな友達の付き添いとして見学しているだけのようだが、そんな細かい言い訳をしても無意味だろう。
真田くんもついこの間までバスケ部の一員だったのだから、当然、素直のグループがきゃーきゃーしているのをよく知るひとりである。そんな姿は、彼にはどんな風に見えていたのか。
「否定はしないけどね」
嘆息する私に、真田くんは追撃をしなかった。揶揄するつもりもなく、思ったことを口にしただけのようだ。
これで話は終わったとばかり、きょろきょろとしている。上背のある彼の身長は本棚と背比べができるくらい。
本だらけの部屋を、物珍しげに見回している。
彼の目にはきっと、私とは違うものが見えている。
「どの本借りんの?」
「ううん。今日は私じゃなくて、真田くんが読む本探そう」
私は『伊豆の踊子』を読み終わっていないから、次の本を探すのはもっと先でいい。
真田くんが一度こっちを見る。
もしかしたらいやがられる? 別に本は読みたくないとか?
「おすすめの本とかある?」
予想と異なり、わりと乗り気のようだった。
「え、あ、うーん」
一口に本といっても、ジャンルや種別は様々だ。絵本から文芸書、図鑑や歴史書に学術書、ファンタジーや恋愛小説と、挙げてみたらキリがない。
質問を質問で返すのは良くないかもしれないが、一応訊いてみる。
「本の好みとかってある?」
「ない」
ばっさりだ。
「じゃあ国語の教科書に載っていたお話や詩で、印象的だったものとかは?」
白目の中を泳ぐ黒い眼球が、蛍光灯のほうを向く。
「向上心のないやつは、馬鹿だ」
自分に言われたのかと思って、びくりとした。
「そんな台詞が出てくる話、授業でやったなって」
呼吸を落ち着かせてから、返事をする。
「夏目漱石の『こころ』だね。『精神的に向上心のないものは、ばかだ』」
「ああ、それだ」
夏目漱石の代表作で、日本で一番売れたとされる小説でもある。
レプリカとしては、私は向上心のあるやつだと思う。運動能力は素直に準じるけれど、教科書を読み直したり、シャトルランのコツを本で調べたり、私自身にできる努力を重ねて、それなりにいい成績を取っている。自分以外のレプリカに会ったことはないから、比較はできないけれど。
歯が抜けたように隙間のある本棚の間を歩いて行く。昨年からしょっちゅう立ち寄っているから、どの作家の本がどのあたりにあるのかだいたい把握できている。
文庫本の『こころ』を手に取る。それなりに厚い本を目にして、真田くんは目をぱちくりとしていた。教科書だと数ページしかないので、気持ちはよく分かる。
「教科書に載っている話って、だいたいが長編の切り取りだったりするんだよ。『こころ』の場合も話が上中下に分かれてるんだけど、下の数場面しか掲載されてないんだ」
少しでも本に馴染んでほしい、という思いで載せられるのだろうか。大人が想定するより数は少ないだろうけど、教科書に載ったお話の続きが気になった学生が足を向ける先は、図書室や町の図書館。あるいは、ウィキペディアや書評ブログであるのは間違いない。
真田くんは本を受け取ってくれた。
「読んでみる」
「うん。良かったら、感想聞かせて」
「分かった」
人の感想を聞くのも、私は好きだ。
一冊の本を読んでも、思うことはそれぞれ違う。人の数だけいろんな考え方があるなんて、そんな当たり前のことを実感する瞬間、私はなぜだか、いつもほっとする。
本棚の中には、タイトルだけ知っている本がちらほらある。読んだことのある本がわずかにあって、知らない本は、その倍以上ある。
出版業界では、一日に数百冊の本が出版されていると聞いたことがある。私は五日から十日くらいでようやく一冊の本を読み終えるけれど、その間に世界には読み切れないくらいの本が増えていく。それは私がレプリカじゃなく、ただの人間で、毎日自由に読書の時間が取れたとしても、きっと変わらないこと。
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