第1話 レプリカは、夢を見ない。(6)

 次の日も、素直は私を呼んだ。重い生理痛に苦しむ素直は、私を呼ぶ頻度が増す。

 今朝は起き上がる気力もないようだ。私は水と鎮痛剤を猫足のテーブルにそっと置いてから家を出る。


 授業を受けて、ひとりでお弁当を食べて、午後はうとうとして、放課後は教科書を片づける。誰も、代わりにレプリカが授業を受けているとは夢にも思わない。

 文芸部室に行く。いつも通り部室の鍵は開いている。りっちゃんは、放課後になると真っ先に鍵を取りに行ってくれる。

 鍵のかかっていない部屋は、なんとなく安心する。学校から戻ってきた私を迎える家の玄関も、素直の部屋も、しっかりと施錠されているから。


「おはよう」

「おはようございます、ナオ先輩」


 卵の額がつやつやしている。汗の影響も大いにあるみたい。

 りっちゃんの表情には疲れが見える。全開になっている窓から見上げれば、夏そのものみたいな形をした入道雲が気持ち良さそうに空に浮かんでいた。

 錆びた扇風機が部屋の隅でかくかくと首を揺らしているが、そこから吹いてくる微風はあまりに頼りない。私たちを生かそうとする気力がなければ、自分がこの夏を生き抜いてやるという気概も感じられない。

 名ばかりの梅雨はまだ明けないまま。天気予報は雨マークが続いていたはずなのに、昨日も今日も日が照っている。


「支給金があれば、新しい扇風機が買えるのにね」

「まったくです。ないものねだりですけど」


 りっちゃんは机の上にだらしなく寝そべり、半目で扇風機を睨んでいる。

 部員が二人しかいない文芸部に、学校が貸し与えてくれるのは小さな部室だけだ。


「部費の徴収とか、します?」


 ぎくりとした。

 当然だけれど、レプリカの私にお小遣いは与えられない。

 お人形を、リップクリームを、洋服を、ブルーレイを、スマホを買ってもらう素直の記憶を見て、羨ましいなと思ったことはある。クラスメイトに不審がられないようスマホを持参してはいても、結局これは私のものじゃないのだ。

 何も持っていない私は、自分だけの何かがほしかった。

 子どもの頃は率先してお風呂掃除や洗濯をして、手伝い賃をもらった。

 埃をかぶった缶の中に、私は五十円玉を隠し続けた。小学六年生の頃、素直が卒業旅行でディズニーランドに行ったとき、お土産に買ってきたクランチチョコレートの缶だ。

 私が内緒で缶を使っているのを、素直は知らない。缶のこと自体を忘れているのだと思う。

 手伝い賃は今の今まで、一度も手をつけずに貯めている。大きな缶はとっくに五十円玉でいっぱいになって、困った私は二階の廊下にある戸棚の奥に、二重にしたスーパーの袋と缶を置いている。

 どちらも中身は五十円玉だらけだ。ざっくざく。素直にばれてはいけないので、たっぷりと錆のにおいがする袋を持ち上げてみたことはない。


「扇風機って、どれくらいするのかな」

「家電量販店で見たら、古いやつならけっこう安かったですよ。いちばん安いと千円くらい」

「えっ、やす!」


 夏場の扇風機の価値を考えれば、てっきり一万円くらいはするのかと思っていた。


「それなら、ひとり五十円玉が十枚あれば買えるよね」

「なんで五十円玉換算なんですか」


 おかしそうにりっちゃんが笑う。お風呂掃除も洗濯物を畳むのも、掃除機かけも一律五十円。眺めているとドーナツみたいでかわいくて、子どもの頃の私は小さな硬貨を宝物のように手の中に握り込んでいた。

 こんこん、とドアがノックされる。

 私とりっちゃんは口の動きを止め、顔を見合わせる。わざわざノックして文芸部を訪ねてくる人なんて、今までひとりもいなかった。

 りっちゃんが声を張る。


「開いてますよ」


 立て付けの悪いはずのドアが静かに開いていった。

 そこに立っていた人物を、私は見上げる。背の高い彼の名前を、私は知っていた。

 真田秋也くん。私のクラスメイトで、元バスケ部で、黒板消しの達人。昨日と異なり今の真田くんは、ほんの少しだけ驚いているように見えた。

 でも、どうして真田くんが文芸部室に? 疑問は喉の奥に詰まって出てこなくて、声もなく戸惑う私に、真田くんは少し首を傾げるようにした。


「入部したいんだけど、いい?」

「え?」


 低い声で思いがけないことを言われた気がして、私は目を丸くする。


「ええと、誰が?」

「誰がって、俺がだけど」


 そりゃそうだ。そうなんだろうけど、意外すぎる。

 芳しくない反応を誤解したのか、真田くんがぽりぽりと頰をかく。


「なんかルールとかあんの?」

 ルール?

「入部の条件」

「特にないです、けど」

「なんで敬語?」

「え、それは」

「こういう中途半端な時期に入部はお断りな感じ?」

「うぁあ」


 矢継ぎ早に質問されて、頭が追いついてこない。口も回っていない。


「入部希望者、大歓迎ですよー。部員二人しかいないから」


 長机に肘をついたりっちゃんがにっかりと笑う。

 相手は男子で、先輩で、しかも真田くんなのに、りっちゃんは落ち着いている。私よりも、ずっと余裕がある。


「ナオ先輩。入部届書いてもらって、一緒に提出しに行ってくださいよ」

「え、あ、うん」


 さらりと助け船まで出してくれた。私よりよっぽど先輩らしい。

 でもりっちゃんの言う通り、名ばかり部長であってもそれは私の役割だろう。とりあえず立ち上がった私だったが、そこで困った。


「りっちゃん、入部届ってどこにあるんだっけ」


 頰がちょっぴり赤くなる。私が名ばかり部長なのが、新入部員にさっそくばれちゃう。


「あそこの棚にあるカンカンの中です」


 カンカン、カンカンね。

 これもディズニーランドの缶。おせんべいが入っていた、平べったくて大きいサイズ。詰め込まれていただろうおせんべいは、ずっと前に卒業した先輩たちが食べ尽くしている。

 かぱりと埃っぽい蓋を開けると、雑紙の束が出てきた。なんじゃこりゃと思いつつ、ぺらぺらとめくっていくと、ようやく入部届を発見する。

 A4サイズを半分にしたA5サイズの紙が、輪ゴムでまとめられている。ペーパーカッターがなかったのか、変に曲がっていた。そこらへんにあるハサミを使ったのだろう。

 なんとなく汚れが少ない気がして二枚目を抜きだしたところで、はっとした。真田くんは律儀にも部室の外に立ったままでいる。


「これ、お願いします」


 紙を手にして早口で言えば、真田くんが頭をかがめて部室に入る。左足にぐっと体重をかけ、右足で床を踏む時間を最小限に抑えた歩き方だ。

 大丈夫か訊くのも余計な気がして、黙ってしまう。りっちゃんは目をしばたたかせたが、やっぱり何も言わなかった。

 彼がパイプ椅子を引く。私の隣の席。四人分の椅子があるけれど、りっちゃんの隣は窓際なので、出入り口から近い私の隣が選ばれたのはほとんど必然だった。

 背負っていた黒いリュックを下ろした彼に、りっちゃんが「どうぞ」とボールペンを渡す。いつもなんとなく机の上に転がっている、先輩の誰かが置いていったボールペンだ。透けて見えるインクはとっくに切れている様子なのに、いつまでもどばどばと黒いインクが出てくる。

 サンキュ、と真田くんが短く返した。反射神経が鈍い私は、二人の頭の上で視線を右往左往させながら、入部届を机の上にそっと置いた。

 真田くんは整った字で入部届を埋めていく。部活動の欄は「文芸部」の字がコピーされているので、記入する欄は学年、クラス、氏名の三箇所だけでいい。

 一分と経たず書き終えた真田くんが立ち上がった。パイプ椅子を引く耳障りな音はしなかった。身体が大きいのに、彼の周りは不思議と物音が小さい。なんでだろうと考えるより早く、りっちゃんに送りだされる。


「行ってらっしゃいませー」


 私と真田くんはさっそく職員室に向かう。

 職員室はすぐ近くだ。部室を出て、右の右。


「あー、涼しい」


 職員室のドアを開けた瞬間、思わずといった様子で真田くんが独りごちる。まったく同感だ。汗ばんだ額や頰、首筋を、冷えた風がこれ見よがしに撫でていく。

 やっぱりここはオアシスじみている。無敵のヴェールに身体全体を包まれて、氷の魔法を自由に扱う魔法使いのような気分になる。


「失礼します」


 昨日ぶりに注意深く唱える。机に向かう先生たちの目がこっちを向くけれど、すぐに興味を失ったように逸らされる。この数秒間、私はいつも胸がドキドキしてしまう。この緊張感が苦手だから、住処の隣の隣にオアシスがあると知っていても、あまり寄りつくことはない。

 入部届の提出先は、文芸部顧問でもある赤井先生だ。でも先生は不在だった。剣道部と文芸部の顧問を掛け持ちしているので、手のかからない文芸部は普段から放置されている。私とりっちゃんの生真面目さと、羽目を外さない大人しさをよく分かっている先生は、困ったことがあるときだけ相談するようにと言っている。今のところ先生の目論み通り、特にそういった事態は訪れていない。


「机の上に置いておこうか」


 エアコンの稼働音とペンの走る音だけが響く中、乾いた唇を開く。


「おう」


 真田くんのほうは緊張とは無縁のようだ。散らかった机の真ん中に、きっちりと入部届を置いている。

 私は文鎮代わりにとカエルの置物を、薄っぺらい紙の端っこに載せた。これで気がつかれないことはない。赤井先生は大のカエル好きで、机の上には旅行先で蒐集したカエルグッズがけろけろと転がっている。先生は職員室に戻ってくると、カエルたちが元気にしているか必ず一匹ずつ確認するのだ。けろけろ。

 職員室を出ようとしたところで、私は遅れて気がついた。何人かの先生の目がこちらを見ている。私ではなく、見られているのは真田くんだった。

 彼は上背があるし、歩き方がひょこひょこしているので、視界の端に捉えるだけでも目立つのだろう。それでも嫌悪を感じた。バスケ部を退部した生徒が何をしにきたのかと遠巻きに観察するような、好奇心を隠さない目つきに。

 真田くんは、素知らぬ顔をしている。

 たぶん、刃引きした刃物みたいな視線に、気がついているからこそ。


「失礼しました」


 ぴしゃん、と攻撃的な音を立ててドアを閉めた私に、真田くんは何も言わなかった。乱暴な奴だと思われたかもしれない。

 職員室を出ると、ちょうど八秒くらいで無敵のヴェールは呆気なく剝がれてしまう。つかの間の夢を見ていた頭のてっぺんからつま先まで、元の世界に呆気なく戻されてしまう。

 名残惜しそうに、真田くんがシャツを持ち上げてぱたぱたと動かしている。ここにはもう、生ぬるい空気だけが居残っている。

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