第1話 レプリカは、夢を見ない。(5)

 私が生まれた日の話。


 その日、素直はどうしても子ども会の集まりに行きたくなかった。

 りっちゃんと喧嘩していたからだ。素直は意地っ張りな女の子だったから、喧嘩をしても自分から謝ることができない。でも喧嘩の原因が自分にあると知っていたから、謝りたくない自分と謝らなければならない自分の間で、板挟みになってしまった。

 そんな気持ちの葛藤の末に、私は生みだされた。ただ実際は、素直がりっちゃんと喧嘩をするのはその日が初めてではなかったから、それが理由だったとは言い切れないのだが。

 素直は驚きながらも、私に向かって手を合わせた。

 まるで神様にお祈りをするポーズのようだった。


「私の代わりに公民館行って、りっちゃんと仲直りしてきてくれる?」


 自分と同じ顔を持つ生き物への、緊張と警戒。それとわずかな期待がにじむ声だった。

 私はその言葉に従った。初めて公民館に行き、初めて広中律子という少女に会い、愛川素直らしい苛立ちを挙動の端に見せながら、遠回しな謝罪の言葉を口にした。

 りっちゃんは素直をあっさりと許し、私は凱旋するような心持ちで初めての帰路を辿った。私の帰りを今か今かと待ちわびていた素直は報告を聞くなり、大喜びで私を抱きしめた。

 その日の夕方、両親が帰ってくる前に素直と私は手を振って別れた。素直が「じゃあね」と言えば、私の意識はそこで途切れていた。


 翌日、素直はまた私を呼んだ。

 消えている間の記憶はなかった。だけど素直に呼ばれると、薄暗いところから急に意識のかけらのようなものがぶわりと浮かび上がり、集合して、私という存在を形作っていった。

 私は呼ばれるたび、合わせ鏡のように、今現在の素直と同じ格好をしてどこかから現れる。パジャマを着ていればパジャマ、新しい洋服を着ていたら新しい洋服。消えると、着ていた服も一緒に跡形もなく消える。

 ただし途中でパジャマから洋服に着替えた場合は、私が消えると、私が着ていた洋服だけがその場にぽつんと残るらしい。私が着てきたパジャマは、私と同時刻に消えてしまう。

 なんにも増えないように。なんにも減らないように。神様か誰かの都合なのか、物事というのは辻褄が合うようにうまく調整されているらしい。

 素直の大きな瞳には、誰も持っていない珍しいオモチャを手に入れた喜びと誇らしさだけが、爛々と浮かぶようになった。


「知ってる? ほんものとおんなじに見えるのに、ほんものじゃないものは、レプリカって呼ぶんだよ」


 覚えたての知識を披露する素直は、得意げだった。

 それに幼い頃の素直は子どもらしく好奇心が旺盛で、いろんなことを試したがった。

 レプリカはどれくらいの時間、存在していられるのか。お菓子を分け合って食べたら、二倍、お腹は膨れるのか。同じテストの問題を解いたら同じ点数を取れるのか。じゃんけんをしたら、いつまでも続くのか……。素直は子どもの小さな脳が思いつく限りのありとあらゆることを試した。

 そうして分かったのは、素直と私は生物学的にはほとんど同じ存在だということ。ただ、二人の間には川が流れるように大きな隔たりがあった。

 着ている服だけじゃない。私は出し入れされるたび、最新の素直の記憶を持って生まれてくる。でもそれは自分自身の経験としてではなくて、川の向こうの景色に目を凝らすように、実感とは遠いものだった。

 たとえば、素直が昨日見たバラエティ番組の内容を私ははっきりと覚えていない。素直自身がちゃんと記憶していないからだ。

 小説を読むのは、私が素直の記憶を探る感覚と似ている。素直にとって印象的な出来事はくっきりとした明朝体で書かれていて、整っていて読みやすい。でもにじんでいる字や、インクでべとべとの字を読み取るのは難しい。

 どうやら素直にとって嬉しいこと、いやなことなど、喜怒哀楽を司る記憶は明瞭で、それ以外の興味が薄いことは、私には曖昧に感じられるらしい。

 海辺で砂の城を作っても、次の波が来れば一瞬で消え去ってしまう。でも城を作っていたという跡だけは、ほんのわずかに残っていたりする。リアルタイムで素直の記憶を引き継げない私は、浚われたあとの砂地に何かが浮き出てくるのを、いつだって辛抱強く待っている。


 もどかしさを感じていた。私はもっと素直の役に立ちたい。素直に褒めてほしい。素直に、喜んでほしい。

 季節が巡り、学年が上がっていくにつれて、素直が学校の勉強に追いつけていないことを知った。

 私は隙を見つけて教科書を開いては何度も読み込み、内容を頭の中にまとめた。

 素直には私の記憶や経験、怪我は共有されない。たぶん必要がないからだ。愛川素直は愛川素直であって、彼女を構成するのにレプリカの要素はいらない。

 だからあるとき勉強を手伝うと申し出てみたけれど、素直はガラス玉のような目を向けてきて呟いた。


「いい。代わりにテスト受けてきて」


 素直に恥ずかしい思いはさせられない。私は自分にできる限りの努力をして精いっぱいの点数を取るようにした。

 当初、素直は私のことを気が置けない友人か、あるいは双子の姉妹のように接していた。素直は鍵っ子だったので、私の存在は彼女の気を紛らわせていたのだろう。

 素直は私を呼ぶと、大好物のシュークリームを半分こにしてくれた。一緒に本を読んだ。アニメを観てたくさん笑い合った。一緒にいるところを誰にも見られてはいけない私たちは、秘密を共有した二人きりの親友のように仲が良かった。

 そういう時間は、気がつくとなくなっていた。私を呼びだした素直は用件を呟くだけで、他のことは何も言ってくれなくなった。


 私は素直のために、喧嘩した友達と仲直りをする。

 私は素直のために、テストを受けていい点数を取る。

 私は素直のために、山登りをして、マラソンをして、シャトルランだって腕を振って走る。

 素直のために、素直のために。私のすべては、素直に捧げるためにある。


 食事や排泄、睡眠は、私にも人並みに必要だけれど、素直が「もういい」と言えばどこへともなく消えるので、素直は私の生活に頓着しなくなっていった。

 だから私は、朝ご飯を食べたことがない。昼ご飯はよく食べる。お菓子は、素直が分け与えてくれた頃にだけ。分けても二倍、お腹は膨れないシュークリームを素直はひとりで食べるようになっていた。

 夕ご飯はほとんど食べたことがない。ついでにいうと誕生日ケーキを食べたことも一度だってない。

 高校に上がってから、お昼は給食じゃなくてお弁当になった。私はそれが本当に嬉しかった。忙しいお母さんが用意してくれるお弁当には、前日の夕ご飯の残りが入るからだ。

 プラスチックの容器に入れるためにキッチンバサミで切られたからあげ。コロッケにハンバーグ。味が染み込んでいてどれもおいしかった。

 しかもわざわざお弁当のスペースを埋めるために、用意してくれるおかずもあった。甘いマヨネーズが溶けたポテトサラダ。アルミホイルに載ったマカロニのグラタン。苦いアスパラガスを抱きしめるベーコン。塩が振りかけられた茹で卵。食が進むように、白米には鮭のフレークや牛そぼろ、のりたまのふりかけもかかっている。

 私が毎日のふりかけに喜びを見いだしていることを、素直は知らない。


 今じゃ素直は根っからの運動嫌いで、私は好き。

 素直は勉強が嫌いで、私はまぁまぁ好き。そう思い込まないと、レプリカなんてやっていられない。

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