第1話 レプリカは、夢を見ない。(4)
消しゴムの跡で引きつれてしまった学級日誌を連れて、私は教室を施錠した。
階段を下り、職員室に日誌と鍵を返したあとは、廊下の突き当たりまで歩けば部室に到着する。
文芸部の部室は狭い。以前は物置きとして使われていた部屋を、顔も知らない先輩たちが学校側に交渉し、部室として改良していったそうだ。
彼らは私を知らない。でも私は彼らの名前や作品を知っている。文化祭のたびに文芸部が発行してきた部誌は、創刊号からだいたいが保管されているからだ。
そこには彼らの書いた短編小説や詩、コラムなどが掲載されていた。添えられたイラストはアニメチックなものもあれば、水彩で本格的に描かれた花や植物もあった。紫陽花やころころしたみかんを眺めるたびに、白黒印刷なのを残念に思った。
「あ、先輩。お疲れ様でーす」
「りっちゃん、おはよ」
がらりとドアを開けると、間延びした挨拶に出迎えられる。
広中律子。一学年下の女の子。縁の丸い眼鏡をかけていて、前髪はきっちりと校則規定の黒いピンで留めている。ニキビひとつもないツルツルのおでこは、つるんと剝いた茹で卵みたい。
向かいのパイプ椅子に座る私に、くふふ、とりっちゃんが変な笑い声を上げる。
「いつも思うけど。おはよって、業界人っぽい」
「でもこんにちはだと、なんか堅苦しくない? こんばんはには早いし」
「そうですかねぇ」
おはよう、はいちばん柔らかい。卵をたっぷり使ったシフォンケーキに似ている。
こんにちは、はちょっと固めに作ってしまった目玉焼き。白身も焦げて、黄身はとろとろの半熟とほど遠い。
りっちゃんのおでこを眺めて、私は卵のことばかり考えている。
「そうだ先輩、新作読んでください。まだ途中なんですけど」
「いいよー」
「やったぁ」
薄くニスが塗られた長机は、同じ大きさの台が向かい合わせに合体してある。そこにりっちゃんがいそいそと原稿用紙の束を置いた。
りっちゃんは小説を書いている。いまどき珍しい手書き派だ。小学生の頃は習字を習っていたりっちゃんの字はとてもきれいに整っていて、本が出版される暁には手書きバージョンも出してほしいなって、私はいつもそんなことを思う。
素直とりっちゃんが出会ったのはずっと前、町内会でのこと。
町内会とは、同じ地域に住む小学生が集まって、日曜の朝に海岸清掃をして、夏休みの間はラジオ体操をして、秋には運動会でかけっこをして、遊園地に行き、一年の終わりにはボウリング大会を開く、そういう集まりのことである。単純に子ども会、と呼ぶ人もいる。
りっちゃんは素直より一歳年下だったけれど、小学生の頃は性別や年齢の違いというのはあんまり重要じゃない。近所に住むりっちゃんは素直にとって気が置けない遊び友達だった。
水鉄砲や鬼ごっこで遊び、川遊びやバーベキューではしゃいだ記憶は、今も素直の中で鮮明に色づいているのを、私は知っている。
それでも素直が中学生になった年、りっちゃんが引っ越したのをきっかけに二人は疎遠になった。翌年だけは年賀状を送り合って、そこで交流はぱたりと途切れてしまった。
再会したのは今年の四月。
風が強く、桜の花びらがぶわぶわと舞う日だった。
三月に先輩二人が卒業したが、彼らはほとんど部室に顔を見せなかったのであまり変化はなかった。もともとひとりきりの文芸部室に、同じくひとりのりっちゃんがやって来たのは、体験入部が始まって一日目のことだった。
最初は強張った面持ちをしていたりっちゃんは、私を見るなり口を半開きにして「おお」と呟いた。私は「おお」とは呻かなかったけれど、たぶん似たような顔をしていたと思う。
だって形ばかりのポスターを作って掲示板に貼ってはみたものの、全校集会での部活紹介にも参加していなかった。知名度最低な文芸部に、入部希望の一年生が、まして懐かしい友人が門戸を叩きに来るなんて思ってもみなかった。
でも二人で膝をつき合わせて好きな本の話をしているうちに、緊張は解れて、懐かしさと楽しさばかりが込み上げてきた。外を駆け回っていた小学生時代は過ぎ去り、私たちはそれぞれ読書好きな高校生に変貌していたけれど、プロの野球選手だってあんなにリズミカルに、キャッチボールなんてできないだろうというくらいに会話は弾んだ。
本の趣味が合ったわけじゃない。むしろライトノベルや漫画を好むりっちゃんと、私の読書傾向はまったく合わなかった。でも私たちは昨日も話し込んだ話題の続きを口にするように、お互い好き勝手に話しては笑い合った。
歓迎の意を示すお菓子やお茶も用意できなかったけれど、りっちゃんはその日のうちに入部届を提出した。
そんな後輩の熱の籠もった解説を聞きながら、私は原稿用紙を読み進めていく。
死に神だと周囲に怖がられる少年が、教会で暮らす捨て子の少女と出会って始まる物語。タイトルは未定、とある。
主役の二人もたいそう美形のようだが、その他の登場人物もみんな息を吞むほどの美形揃いのようだ。そんな馬鹿なという感じだけれど、りっちゃんはアニメも大好きで、美男美女ばっかり出てくるのは鉄板らしい。
原稿の内容に意識を戻す。主人公の少年と捨て子の少女は生き別れの双子のようだ。そっくりな容姿をうまく利用して、二人は修羅場を搔い潜って生き延びていく。やがて裏社会では、「ダブル」と呼ばれる殺し屋となり……。
「あ、ナオ先輩」
「うん?」
私は照れを隠すみたいに唇をすぼめる。小さい頃、私のことをナオちゃんと呼んでいたりっちゃんは、再会してからはナオ先輩と呼んでくるのだが、まだ先輩と呼ばれるのは面映ゆい。
「そこ、どう思います? ミックスルーツと混同されちゃうかもだし、名称は変えたほうがいいですかね?」
「ダブルって、二重って意味だもんね」
「そうそう、そうなんです。ドッペルゲンガーとかもありっちゃありだけど、見たら死ぬわけじゃないしなぁ」
ダブル。ドッペルゲンガー。
二重。あるいは複体。
自分とそっくりの姿をした、分身のこと。
「どうでした?」
用紙の束は六十枚ほど。じっくりと一時間かけて読み終わると、向かいのりっちゃんが上目遣いをしている。
「素直に言っていい?」
「愛川素直殿に忖度されるのはいやだからなぁ。お願いします」
猫背気味の背を、りっちゃんがまっすぐ伸ばしている。
「ちょっと、読者が置いてけぼりかもしれない」
「ぐふー」
パイプ椅子の背もたれに寄りかかり、血を吐いて倒れる振りをするりっちゃん。普段からオーバーリアクション気味なのだ。
「この、冒頭のとこ。雪の降る中、主人公の二人が再会する場面ね。ここをもっと膨らませてほしいかも。大事なところじゃない? ドラマチックな表現よりも、二人の生々しい感情のほうを知りたい」
三ページ目から五ページ目を、ぺらぺらとめくる。
「少年は同じ顔の少女を見つめて何を感じたのか。少女のほうは何を思ったのか。もっと教えてほしいって思ったかな」
単なる素人の意見だから、という前置きはゴールデンウィーク前に置いてきた。りっちゃんによると「感想がどれだけありがたいことか、ナオ先輩は自覚が足りないなぁ」とのことらしい。小説を読んで感想を言葉にするという行為は、わりとハードルが高いのだそうだ。
もう、りっちゃんの小説を読むのは三作目となる。りっちゃんは三か月から四か月の期間で一作品を書き上げる。中学生の頃から執筆を始めたから、まだ私が読んでいないのも何作品かあるようだ。
私はいつも思ったことを率直に言うしかないけれど、そんな私の意見を、りっちゃんはふんふん頷き、メモに取ってまで聞いてくれるから照れくさい。
「参考になります。また読んでくださいね」
「うん」
このやり取りも、四月は違った。りっちゃんは大きな目を不安そうにきょろきょろさせて、「また読んでくれます?」と呟いていたから。
時間を重ねるほど、私たちは少しずつ友達に戻っていき、それで少しずつ、ちゃんと先輩と後輩になっていく気がする。
一年前は、こんな風になるなんて思いもしなかった。私は部室でたまに本を読むだけだった。誰もいない空間でただひとり、ページをめくる音だけが響いていた静かな日々も嫌いではなかった。でも、私は今のほうが、部活の時間を充実したものだと感じている。
原稿用紙に向かって唸るりっちゃんの向かいで、私は文庫本を読み進める。
読んでいるのは川端康成の『伊豆の踊子』。静岡の東端である伊豆を舞台にしたお話。
私もいつか旅に出てみたい。伊豆でなくてもいい。熱海や沼津、三島、富士や富士宮でも、どこでも。
もちろん県内じゃなくてもいいけれど、県の中だってほとんど知らない場所ばかりだから、まずは近場から探っていきたいのだ。叶わないだろう夢だと、分かっていても。
窓の外からは、吹奏楽部が練習するトランペットの音が聞こえる。高らかなメロディー。新しくないほうの宝島。
半分ほど読み終えたところで、長机が表面に赤い光沢を流しているのが目に入った。
ふと見やれば、窓の外がじわじわと濃く染まっていた。午後五時五十分。そろそろ、部活は終わりの時間だ。
文庫本に栞を挟む。白くて小振りなかすみ草が閉じ込められた手作りの栞は、部室に転がっていたのを一時的に借りている。
私は本を読むのが遅い。それに読書するのは部活の時間だけだから、読み終えるにはそれなりに日にちがかかる。
図書室で借りた本は、本来であれば自分の目の届く範囲で管理すべきだろうけど、私には自分の場所といえるようなところは部室しかない。
だからいつも、部室にある本棚の隅っこに本をそぅっと差し込んでおく。部室には普段は鍵がかかっているから大丈夫だと思いつつ、明確にルールを破っているという感覚は心臓をひやっとさせる。
貸出期限は二週間。返却までは、あとちょうど一週間。素直が呼んでくれないと、私はなかなか本の続きが読めないから少しやきもきさせられる。
部室を施錠して、無人の廊下をりっちゃんと並んで歩く。
「来週から部活お休みですね」
「だね」
期末試験の十日前から、運動部も文化部も活動が制限される。
「部室には来るでしょ?」
「もちろん」りっちゃんがにやりと頷く。「勉強場所として最適ですから」
余計なものの少ない部室は、自室よりずっと勉強がはかどる。
「んーん、ヒロインの名前はどうしようかなぁ」
自作のことを熱心に考え続けているりっちゃんは、数秒前の話の続きを口にするように言う。
「どうしようねぇ」
これは答えを求めていない呟きだと分かっているから、私は相槌だけを返す。
声に出すことで、頭の中が整理されていろんな考えが浮かぶそうだ。ぶつぶつ呟いている最中、「あっ!」と叫んだりっちゃんがメモ用紙にがががっと殴り書きするのは、よくあること。
今日はまだまだ、頭の中の豆電球が明るい光を灯すには時間がかかるらしい。私は心の中で、努力家の後輩にエールを送る。
「ナオ先輩は小説書かないんですか?」
「んー。書かない、というか書けないと思う」
私にはきっと無理だ。真顔でも、逆さまになっても、一文字も書ける気がしない。
素直なら、どうだろう。
聞く機会が訪れることはないだろうけど、なんとなくそんなことを思った。
職員室にはひとりで入室する。鍵置き場はすっからかん。運動部も吹奏楽部も、辺りが薄闇に包まれるまで熱心に練習している。
鍵を返したあとは昇降口に向かう。上靴をローファーに履き替え、私の帰りを今か今かと首を長くして待っていた自転車と合流する。
りっちゃんとは裏門の前で別れた。高校のすぐ近所にお家があるのだ。制服のキュートさではなく、立地的な通いやすさで進学先を選んだそう。
からからとホイールは回る。ペダルにぺったりと乗せた足を、私はくるくると動かし続ける。
ローファーの踵はどうにも丸まりたいみたいで、私のアキレス腱を思いだしたように押してくる。もう、元の形を忘れてしまっている。
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