第1話 レプリカは、夢を見ない。(3)

 授業が終わり放課後になると、とたんに空気が緩む。

 私がぐっと伸びをする間に、大きな部活バッグを抱えるようにして、ぱたぱたと忙しない足音を立てて数人が教室を出て行く。


 私もこのあとは、彼らと同じように部活動へと向かう予定だ。

 文芸部が、素直の所属している部活。特別な理由がない限り部活動への参加は校則で強いられているから、素直は致し方なく幽霊になりやすい地味な文化系の部を選択した。

 それが文芸部だったのは偶然に過ぎなかったが、私にとっては僥倖だった。素直と違って、私は読書が好きなのだ。

 だから部活動くらいは素直じゃなくて、私自身が所属している部だと思っていたい。結局、入部届を書いたのは私ではなくても。


 スクールバッグに教科書とノートを詰め、後ろ扉から出ようとしたところで、黒板の右下に目が留まった。

 そこに、自分のものよりも馴染みのある名前が、掠れた字で書いてある。


「あ」


 気がついていなかった。今日、素直は日直当番だったのだ。

 日直の仕事は、細かくいろいろあるが基本的には四つだけ。

 毎時間の黒板消しと、移動教室の際の施錠と、学級日誌の作成と、放課後の教室の戸締まりだ。生理痛と日直当番のダブルコンボに苛立って素直は私を呼んだのだと、そのときになってやっと分かった。

 授業後の黒板消しは、五時間目までは同じく日直だった男子生徒が何も言わず担当してくれたらしい。その代わりというように彼の姿はもう教室にはなかったし、黒板には英会話の板書がきれいに残ったままになっていて、教卓には手つかずの学級日誌が待ちぼうけになっている。

 制服の裾を引っ張られたような気分になって、後ろめたい私は日直の仕事を全うすることにした。

 まずは汚れた黒板消しをクリーナーに押し当てて、白いチョークの粉をめいっぱい吸ってもらう。へにゃりとしたバンドに手を通したら、教壇に立ち、上から下に向かうように背伸びをして黒板をなぞっていく。

 でも意外に広くて長い黒板を埋め尽くすように書かれた文字列は、そう簡単には消えてくれない。

 教室には、背面黒板の分と合わせて三つの黒板消しがある。両手にひとつずつ装着して黒板と格闘する自分を想像してみるものの、むしろ効率が下がるような気がしてくる。


「左半分、やるよ」


 そう思っていたとき、背後から低い声がした。

 声をかけられたのは、私じゃないだろう。そう思いつつも念のため振り返ってみて、呼吸を止めた。

 声の主は、真田さなだ秋也しゅうやだった。

 黒くて凜々しい眉。一重の鋭い目に、がっしりとした肩。

 頭を支える太い首。顔立ちは精悍に整っているのに、一目見てまず怖いと思ってしまうのは、彼が愛想のひとかけらもない仏頂面を下げているからだ。


 私は彼と話したことがない。素直も、一度もないみたい。

 でも噂はよく聞く。入学時からバスケ部で頭角を現し、強豪校との練習試合ではほとんどの得点を彼が決めたそうだ。

 彼を擁するバスケ部は我が校始まって以来初となるインターハイ出場に王手をかけていた。インターハイの舞台でもスーパースターになれる逸材だと騒がれ、周りの人はみんな、彼の将来に期待していた。だけど……。


「大変そうだから」


 気もそぞろな私は、いちいち彼の言葉に反応が遅れてしまう。

 真田くんはバンドに手を通さず、黒板消しをがっちりと握り込むみたいにして動かしている。一見、乱暴そうに見える手つきなのに、彼に操られる黒板消しは緩やかな海を泳ぐように滑らかに動き回っている。

 私はその手つきに気を取られながら、どうにか口を動かした。

 大変そうだからと手伝ってもらえるような、素直と真田くんはそんな間柄ではなかったから。


「でも、忙しいでしょ?」

「俺、今は部活やってないし」


 私は、藪をつついてしまった。時間を巻き戻したい、とできもしないことを考える。


「いいから手、動かして」

「あ、うん」


 止まっていた手を動かす。上から下、上から下。慎重に下る私を、二周目の彼が追い越していく。

 ちらりと目だけを向ける。平静な横顔に苦悶の色はなかったが、彼は私に話しかけてきたときからずっと、身体の左側に重心を置いている。

 私の心配とは裏腹に、順調すぎるほど順調に、物言わぬ平たい黒板は生まれた頃のような美しさを取り戻していった。ただし、それは左側だけだ。おざなりな私に面倒を見られた右側は、羨ましげに横目で隣を眺めている。

 最後に、右隅に書かれた愛川素直と男子生徒の名前を消して、次の当番二人の名前を書く。

 役目は終わったとばかりに真田くんが教壇を降りていく。かつかつ、と白いチョークの先っぽでクラスメイトの名前を書きながら、私は大きな背中に声をかけた。


「あ、ありがとう」


 掠れた声で口にする。聞こえていたかは分からない。

 真田くんが教室を出て行くと、私はひとりきりになった。

 まだ明るい窓の外から、運動部の練習する声が聞こえる。近いようで遠い場所では、かきん、と小気味よい音。バットの芯が球を捉えたらしい。

 私は学級日誌を持って席につき、筆箱からシャープペンを取りだした。

 かちかち、をそっくり三回繰り返したところで、役目を思いだしたようにシャー芯が顔を見せる。私はくたびれた日誌に今日の日付や天気、時間割を記入していく。

 備考欄には原則、その日の出来事で教師やクラスに報告すべき内容を書くことになっているが、今までのやり取りを振り返ると、担任の先生としりとりをしている生徒や、絵で埋めている生徒もいる。つまり、好き勝手に書いてしまえばいい。

 私は、考える前にそこに一文字目を書いていた。



 日直の仕事をしていると、私が大変そうだからと、真田秋也くんが黒板を消すのを手伝ってくれました。

 素直の記憶によると、二日前に真田くんは学校に戻ってきたばかりのようです。

 彼は黒板消しの達人で、おかげで黒板はぴかぴかになりました。

 でも本当は、私に親切にしてもらえる資格はないのです。

 私は、入院していた彼をお見舞いに行こうとすら思いつかなかったのですから。



 そこまで書いて、ぜんぶ消した。

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