第1話 レプリカは、夢を見ない。(2)
私は、
素直は七歳の頃、私を生みだした。自分自身と瓜二つの外見を持ち、同じ声で喋る存在を。
セカンドと名づけられた私の役目は、素直の代わりに学校に行くこと。
誰も、私が素直のニセモノだとは気がつかない。本物の素直が部屋ですやすやと眠っていることなんて、知る由もない。
すれ違う近所のおばさんに挨拶をして、ぐんぐんと速度を上げる。犬の散歩をするおじいちゃんを追い越していく。全身もじゃもじゃのヨークシャーテリア。よろよろとした足取りは、おじいちゃんよりも危なっかしい。どうか今年の夏も越えられますように。
からからとホイールが回る。タイヤにやや空気が足りていない感じ。ギアを替えても思ったほど速度が出ない。家に帰ったら空気を入れておかないと、と頭の中に予定を刻みつけておく。
からからとホイールは、回る。
見慣れた景色が前から後ろへと流れていく。
ちょうど信号が変わったのでブレーキを使わず道路を横断。静岡大橋の舗装された自転車道を上っていく。山からの強風が吹くので、ギアを下げて立ち漕ぎしないと車体がちっとも前に進まない。
私が四苦八苦する間にも、ひゅんひゅんと猛烈なスピードで左横を車が通り過ぎていく。タイヤに空気がたっぷり詰まっていても、私が生理じゃなくても、車には敵わない。素直も、きっとおんなじ。
二日前の雨で増水したらしい安倍川と、正面の富士山を交互に見ながら橋を渡りきる。白い粉砂糖みたいな雪を頭のてっぺんに乗せた富士山は、今さら物珍しくもないけれど、五日前は灰色の空に覆われて見えなかったものだから、久しぶりと頰を緩めてしまう。
この難所を乗り切れば、あとは平坦な道ばかり。今日は二回まででと祈っていたけれど、信号には三回引っ掛かってしまった。
クラスメイトは私服警官にしょっちゅう捕まっているので、私は黄色い切符を切られないよう、信号がちかちかと点滅したときには早めのブレーキをかけている。
違反内容が書かれた切符。正式名称は自転車指導警告カードと呼ばれるそれを切られた場合、教室の後ろの黒板に貼りつけていくルールだ。勲章みたいに十五枚も集めている男子がいたけれど、最下位のクラスは全校集会で晒されるらしいと噂が流れてから、みんな学校が近づいてくると自転車の速度を心持ち緩めるようになった。
ようやく学校の裏門に到着。洞穴みたいに大きな駐輪場に、他の自転車に挟まれながら勢いよくなだれ込み、ブレーキをかける。自転車から降りる頃には、両足のふくらはぎに心地よいを通り越した気怠い疲労感が溜まっている。
素直の家から学校までは約九キロ。自転車で毎日踏破するには、やや長めの距離だ。
私は調子がいいと三十五分、調子が悪いと五十分ほどで九キロを駆け抜ける。調子がいい、には体調面以外にも、具体的には橋の上の向かい風と、信号機の色合いが影響している。
今日の記録は体感だと四十二分くらい。電源を落としたスマホにいちいち首尾を聞いたりはしない。
ミニタオルで汗を拭う。梅雨が明ければ、本格的な夏が到来する。これくらいの汗では済まなくなる。
同じ服を着た少年少女がごった返しになった昇降口で、踵が駄目になったローファーを上靴に履き替える。こちらの踵は大丈夫そうでほっとした。厳しい先生たちに目をつけられないよう、素直も用心しているのだろう。
「おはよー」
「おはよ、って汗くさーい」
「なにおー!」
とんとんとやっていると、ふざけて抱き合う女の子たちの声が、耳の鼓膜をほのかに揺らす。
昇降口横の階段を上ってすぐが、素直の所属する二年一組の教室だ。
私はおはよう、と言いながら教室に入る。生徒はまだ十五人くらい。そのうち、こっちを見た顔はほとんど男子のものだ。こちらを見ていた女子は、実体のない曖昧な微笑みを浮かべる。
まばらに返ってくる挨拶に片方の耳だけ傾けながら、窓際後ろの席についた。
カーテンは引いてあったけれど、全開の窓から入り込んでくる風に押されて、少しずつレールの上を滑っていく。私の机の上にも太陽の光が射してきて、うんざりしてそっぽを向く。汗でぺたりと頰に張りついた髪を、宥めるように風が吹く。
スピーカーの横にはエアコンがついているのに、その口がかぱりと開いたところは一度も見たことがない。
詰め寄る生徒たちに担任の先生が説明するには、うちの高校のエアコンは市からの借り物だとかで、動かすには市の偉い人から逐一許可をもらわないといけないらしい。
でも今日はこれくらい暑いので使いたいです、と今日伝えたって、数分で許可が下りたりはしない。許可申請書はお役所の中をたらい回しにされてしまう。宝の持ち腐れだ。
私たちが飢えた犬のように舌をぺろんと伸ばして、冷えた引きだしに両手を張りつかせているときも、お偉いさんたちは涼しい部屋で快適に過ごしているのだろう。
ちなみに職員室では、いつだって二台のエアコンがフル稼働している。先生たちがいなければ真夏のオアシス。前提が前提なので、誰も寄りつかない蜃気楼。
机に頰杖をつく。ホームルーム前の時間は、だるくて、暇だ。
五分でも十分でも、空いた時間があれば飛びつくようにして会話するような友達は、クラスにひとりもいない。一年生のとき仲の良かった子たちとはクラス替えで分かれてしまって、空気穴のような隙のあるグループも見当たらなかったものだから、素直はこのクラスで、ひとりで過ごすことを選んだ。もちろん私も。
だから私はチャイムが鳴るまでの手持ち無沙汰な時間を、教室内を観察して消費している。
地上を煌々と照らす太陽がこんがりと焼いた、蒸し風呂みたいな正方形の箱の中。口を動かしている同じ年のクラスメイトたちは、目蓋がとろとろとまどろんでいる。
暑いと判断能力が鈍るというか、分かりやすくトーク力が下がっていく。みんな、下敷きで自分の顔をあおいだり、窓の手すりに触れて涼を取ろうとしている。早くも水筒の中身を飲み干してしまい、教室前の水道に走り込む男子もいる。
眺めているとどうにも、私まで眠くなってくる。あくびを片手の中でこぼすと、耳の穴にじわじわと、生温かいお湯が入り込んでくる気がした。
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