レプリカだって、恋をする。

榛名丼/電撃文庫・電撃の新文芸

レプリカだって、恋をする。第1話 試し読み

第1話 レプリカは、夢を見ない。(1)

 私は、ベッドで眠ったことがない。

 布団を庭の物干し竿に干して、お日さまの光をたくさん浴びせたことはある。夕陽が沈む前に、急いで取り入れたことだって。

 でも、ベッドに敷き直した白い布団の感触を知らない。

 想像するとドキドキする。横になったら、どんなにふわふわするんだろう。


「なに、ぼーっとしてるの?」


 ぱちりと目蓋を開く。何度か瞬きをする。

 膜が張ったように見えるのは、ベッドに横になっている彼女の視界が、まだ明瞭じゃないからだ。


「ごめん。おはよう」


 挨拶に返事はない。

 こちらを見ないまま、猫を追い払うようにしっしと片手を振られる。


「二日目でだるい。行ってきて」


 どうりで、と納得した私は「分かった」と頷く。

 部屋を出て、まずは一階の洗面台に向かう。この時間帯なら誰もいないのは分かっているけれど、足音を殺すのはもう癖になっている。

 ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗って、歯を磨く。このあたりで頭がすっきりと冴えてくる。

 磨かれた鏡の中から見返してくるのは、茶色い髪の少女だ。

 せまい額と細い眉毛。ぱっちりとした二重まぶたに、長い睫毛に縁取られた大きくて丸い瞳。

 形のいい鼻、桜色の小さな唇。猫みたいにしなやかな手足と、均整の取れた身体。

 人によってかわいい、あるいはきれいと形容するだろう魅力的な女の子から、私は目を逸らし、濡れた口元を新品のタオルで軽く拭う。

 水気が取れたあとは、化粧水、美容液、クリームの順に肌に塗り込んでいく。

 最後に日焼け止めクリームを、顔と首回り、手足に塗る。必要最低限の量にするよう言われているけれど、私だって女だからどうしてもスキンケアは気にしてしまう。

 ヘアブラシで念入りに長い髪を撫でつけたら、ブラシについた髪の毛を丹念に取ってごみ箱に捨てておく。すべて借り物なのだから、注意深く使わなくてはならない。

 ついでにキッチンに立ち寄り、水切りかごに並んだコップ二つをひっくり返すと、それぞれに蛇口から水を入れる。ごくんと飲み干すのが、私の朝ご飯代わりだ。


 コップと鎮痛剤。それにお弁当の入った巾着を手に、彼女の部屋に取って返す。

 もぞもぞと、丸まった布団の山が動く。そこから小さな顔だけが現れる。

 鏡の中の誰かさんと、おんなじ顔のその子が。


「朝ご飯なに?」

「今日は和風みたい。白米、鮭の切り身、大根の味噌汁、卵焼き、それと」

「もういい」


 うんざりしたように遮られる。愛川家の朝食はどうやら二種類らしい。和風か洋風のどちらかで、和風が多め。ちょっとした違いはあるけれど、基本的に副菜の種類は変わらないみたい。


 ドラッグストア薬剤師のお母さんは、鶏も眠っている早朝に起きて、朝ご飯の支度を済ませてから職場に向かう。夜のはじめ頃に帰ってきたら、てきぱきと夕食の準備をしている。

 私はお母さんの顔より、エプロンをつけた背中を見ることのほうが多い。

 起き上がった彼女は、ひったくるように私の手からコップと薬を奪う。

 本当は胃が荒れるから、何かお腹に入れてから飲むほうがいい。それに、どうせなら胃を満たしてから呼んでくれたほうが、私も助かる。

 でも私が小言を言うのを彼女は嫌う。だから私は、クリーム色の壁のほうを向いている。


「いいね、あんたは。血が出るだけで痛みなんか感じなくて」

「うん」


 大人しく相槌を打つ私を、彼女は煩わしげに見ている。

 中身を半分残した水と、空っぽになった包装ケースを受け取る。またキッチンとの往復だ。

 二階の部屋に戻ったら、隅っこでこそこそとパジャマの上下を脱ぐ。

 脱いだパジャマは畳んでベッドの下に隠し、壁に取りつけられたハンガーからアイロンをかけた制服を外す。

 白シャツに、チェック柄のプリーツスカート。胸元にはターコイズブルーのリボン。SNSでもかわいいと評判になったことのある制服。冬服はこれに紺色のブレザーもつく。

 彼女は制服デザインにつられて、今の高校を受験した。

 私も、このキュートな制服が好き。

 着るだけで意識がしゃっきりして、背筋を伸ばして歩きたくなる。


「ナプキン四枚もらうね」


 やっぱり返事はない。私相手に、いちいち口を開くのも億劫なのだろう。

 念のため、筆箱に入っている折りたたんだ時間割表を見ながら、スクールバッグに詰めてある教科書とノート類を確認する。

 前に呼びだされたのは五日前だった。再来週には期末試験を控えている。今回もいい点数を取らなくてはならない。

 支度を終えたところで、ベッドに向かって声を投げる。


「スマホは?」


 ハァ、と大きな溜め息が返ってくる。

 差しだした手のひらの上に見慣れたスマホが載せられる。パウダーピンクの、シンプルなスマホケース。

 最新スマホはほんのりと温かい。布団の中でいじっていたのだろう。


「行ってきます。部屋の鍵はちゃんと閉めてね」


 返事がないのはいい加減、分かりきっている。他に何か言いつけられる前に部屋を出た。

 廊下の奥にあるトイレに寄って、ナプキンを取り替える。階段を下りつつスマホの天気アプリで、今日は朝から晩まで晴れ予報だと確認してから電源を落とす。

 時刻は午前七時半。

 ローファーを履こうとして、踵が履きつぶしてあるのに気がついた。私は大切に使ってるのにな、と少しがっかりする。堅い革はつぶしてしまうと、靴底から新しくしないといけない。

 私がお母さんに進言してもいいけど、勝手なことをするとまた彼女に𠮟られてしまう。だからって彼女に直接伝えると、いやみに受け取られてしまうからもっと困る。

 へこへこ丸まろうとする踵の革を伸ばしながら、指先を押し込んでいく。履き終えたら、つま先でタイルをとんとん叩く。

 玄関に入れてある自転車のかごに、スクールバッグを預けて外に出す。潮風で錆びつかないように普段から家の中に自転車は収容してある。


 頭上には、白い雲をいくつか従えた青い空。今日は梅雨の晴れ間らしい。

 空を見上げないと、私は季節をうまく感じ取ることができない。

 手で庇を作って、水平線に目を眇める。遠くからは風に乗って、ざばんざばんと激しい波の音が聞こえてきた。しょっちゅう台風中継で映される用宗もちむね海岸は、今日も賑やかだ。

 忘れずに玄関はきっちりと施錠する。警戒しているのは泥棒だけではない。両親とも共働きでとっくに出かけているし、訪ねてくる人もほとんどいないものの、万が一にも部屋で休む彼女の姿を誰かに目撃されるわけにはいかないのだ。

 彼女の部屋にも鍵がついている。小学生のとき、彼女が両親に頼んで取りつけてもらったものだ。今頃のそのそと布団から這い出て、溜め息交じりに鍵を回しているだろう。


 自転車に跨がり、出発する。

 海辺に近いこのあたりは潮の香りがするそうだけれど、慣れきった鼻ではうまく嗅ぎ取れなかった。

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