悪意が見てる 第3章

 やかましいエンジン音を近所に響かせながら、良雄を乗せてボロい白の軽自動車は走り去っていった。どうやら自転車ごと藪に隠れたのは間違いだったようで、思いっ切り排気ガスを浴びてしまい、むせかえる羽目になってしまった。

 昨晩の宣言通り、友樹は母屋に潜入すべく寺島道具店の目の前まで来ていたのだが、予想よりもかなり遅く良雄が出発したために、大急ぎで車道脇の茂みに自転車と一緒にダイビングしてやり過ごしたのである。

 服にくっついた葉を払い落とすと、藪の中でひっくり返っている自転車を車道に引っ張り上げた。肩を回しながら坂の上からチラリと見える店の屋根を確認し、残りあと少しになった坂道を自転車で一気に駆け上がる。店に到着すると自転車を目立たないよう軒下に停め、速やかに中庭へと回り込んだ。当然のことだが車は一台も止まっていない。

 念のため、友樹は呼び鈴を何回かならしてみたが、反応はなかった。ほっと一息ついて、例の縁側の窓へと向かう。鍵が壊れたままなのを確認して、手を掛ける。カラカラと小気味よい音を立てて窓が開いた。友樹は用意していたビニール袋にスニーカーを入れて、室内へ上がり、後ろ手で窓を閉めた。

 目の前に座敷へと繋がる襖がある。冷や汗が背中を伝うのが分かる。普段であればオカルトなど鼻で笑い飛ばす友樹だが、この時ばかりは台所側へと迂回した。

 廊下を進み、階段を上り、まっすぐ明の書斎へ向かう。人っ子一人居ない母屋は深夜の校舎に似た不気味な静けさがあり、心臓が波打つのが分かった。

 書斎のドアのノブを掴む。頭では誰もいないと分かってはいるけれど、この静けさのせいで余計なことを考えてしまう。呼吸を整え、一気に開け放った。当たり前だが、誰もいない。

 壁際のデスクへ迷いなく進み、下から二段目の引き出しを開けた。いつも明はここに商品リストを筆記用具と一緒にしまっていたのだ。が、何もない。空っぽだ。

 友樹は少し焦った。すんなり見つかるとは思ってなかったが、こうして行方が分からなくなると途端に不安になる。

 腕時計を確認する。最寄りの電気屋までは車で十五分だ。往復で三十分、店内に滞在する時間は十分と考えると、おおよそ四十分の猶予がある。まだ最初の五分を使ったかどうかぐらいだ。焦ることはない。

 引き出しを閉め、顔を上げて、友樹は本棚を確認しだしたが、幸運なことに商品リストはすぐに見つかった。大量のルーズリーフを分厚くまとめたもので、本棚に並ぶ他の書物とは明らかに違う。

 商品リストを本棚から引っ張り出し、デスクの上に置いた。さあ、ここからは時間との勝負だ。友樹は袖をまくった。このルーズリーフの束から、必要な屏風の情報が描かれている一枚を探し出さなくてはならない。そもそも商品リストに屏風のページがない可能性だって十分に考えられるので、結構リスキーなチャレンジではある。

 と、思っていたら、ものの二分程度で屏風のページを発見した。事前にとった屏風の写真と商品リストにある写真を慎重に見比べる。商品リストの方がかなり古い写真だったので、少々判別に難儀したが、盲鬼をする子供たちが決め手になった。間違いない。

 想像以上に順調な進み具合に気を良くしていた友樹だったが、いざ商品リストの内容を読み進めようとして、文字を追う指が止まった。


 通し番号:え―〇〇二六→なし(二〇〇〇年十二月より)

 商品カテゴリ:屏風(大型)

 価格:二万六千円→非売品

 年代:不明

 買い取り価格:不明

 来歴:不明

 前所有者の属性:不明


「なんだよ、これ」

 友樹の口から思わず戸惑いの声が漏れた。前のページと後ろのページを何枚かめくり確認したが、項目の「年代」が不明な物があっても、複数の項目が不明となっている物は一つもない。

 友樹は一歩後ずさりし、腕を組んだ。「年代」「来歴」が不明なのはまだ分かる。前所有者がきちんと覚えていないことだってあるだろう。しかし、「前所有者の属性」が不明というのは、少し理解が難しい。最初はネットを介したやりとりで買い取った商品なのかと思ったが、こうしてリストに「前任者の属性」を入れているところを見ると、明はこの項目を重要視していたのだろう。それが不明な相手から買い取りすることはちょっと考えにくい。そもそも、「買い取り価格」が不明ということは、買い取りによって手に入れた物ではないのだろうか。


「ああ、もういいや」

 取り敢えずスマホで撮影する。まだ探さなければならないページがあるのだ。今知りたいのは良雄が商品リストを探してまで見つけたかった古道具なので、付箋や書き込みがあるかどうかだけ確認しながら、手早くページをめくっていく。

 二,三分程一心不乱に確認し続けたが、とうとう最後のページを読み終えてしまった。まあ、そんな簡単に手掛かりをつかめるわけないよな、と友樹は自分を納得させながら、出来るだけ忠実に商品リストを本棚の元あった位置に戻す。もう一度腕時計を確認しながら、ふとデスクを見た友樹は、小ぶりのメモ帳サイズの付箋が貼り付けられているのに気がついた。なぜ気付かなかったのか、と一瞬考えたが、付箋がある部分は商品リストがさっきまで開かれたいた場所なのを思い出した。気付けるわけがない。

 とりあえず友樹は急いで付箋に顔を近づけた。細々とした字が並んでおり、かなり分かりづらいが、何度も読み返すうちに全体を理解することが出来た。


 明日(二十八) 二十時 陶器店へ買いに行く

 無ければ 鍵屋さんに土蔵鍵をお願い

 要予約→予約済み 二十一時から


 色々と内容について考えたかったが、そろそろ潮時だった。もしここで良雄と鉢合わせでもしようものなら、言い訳なんて出来るわけが無い。友樹はこちらも写真を撮って、急ぎ足で書斎を出た。



「なんかさ、気味が悪いね」

「同感。というか前所有者の属性が『不明』ってどういうことなんだよ」


 綺麗な夕焼けに名も知らない山々の稜線がくっきりと浮き上がっている。橙色に染まった帰路を自転車で走りながら、友樹はイヤホンを耳に押し込み直した。自転車走行中のイヤホン等の使用は何らかの法に触れるはずだが、友樹はあんまり詳しくないので一旦忘れることにした。まあ、法がいつだって正しいとは限らない。

 忍び足で店を脱出した後、安全な路地裏で友樹は入手した二枚の写真を由美と直之に送りつけていた。暇だったのだろうか、数秒後、由美から

「今から三人で通話しよう」

 と返信が来たのだ。


「僕もその項目が不明になってることには引っかかったんだけど、多分理由は分かったと思う」友樹は直之の問いに答えた。

「君の意見を聞こうじゃないか、ワトソン君」由美が意地悪く茶化す。

「おそらくあの屏風は祖父ちゃんが店を引き継ぐ前からあったんだよ。で、引き継いだ時点で既に屏風についての詳しい情報は失われていた。そう考えると、買い取り価格が『不明』になっているのにも説明がつく」

「要するに前店主の時から商品だったってこと?」

「商品とは限らないけど、そういうことだと思う。祖父ちゃんが店を引き継いだ時点で、前の店主さんの病気は相当ひどかったらしいから、知りたくても聞けなかったのかも」

「結局、商品リストにはああいう書き方しか出来なかったってことか」

 納得がいかない、というように直之はイヤホン越しに唸った。由美も同意見な様で

「要するに『何にも分かんない』ってことでしょ」と諦めたような口調で言う。振り出しになっちゃったじゃん、と。

「しょうがないよ。祖父ちゃんにとってはただの素性の分からない屏風でしかなかったんだから、調べてすらなかったかも」

「非売品になってるのは何でだと思う?」

「買い手が全然見つからなかったとかじゃないか。屏風なんて普通はおいそれと買うようなものじゃないだろ」

 直之は由美の疑問に取って付けたような答えを返すと、切り替えたように口を開いた。

「そんなことよりも、もう一枚の写真は差し迫ってるな」

「差し迫ってる? 何が?」友樹は思わず聞き返した。

「何がって、見れば分かるだろ。『明日(二十八)』って、今日が七月二十七日なんだから、明日のことだぞ」

「ああ、そうか」

 休日が続き、日付の感覚が狂っていたようだ。夏休み恐るべし、友樹は心の中で呟く。

「『二十時 陶器店へ買いに行く 無ければ 鍵屋さんに土蔵鍵をお願い』……。これってつまり、目当ての物を陶器店に買いに行って、もし無ければ土蔵を開けて中の物で代用するってことなのか?」直之が慎重に考えを口に出していく。

「だとしたら順序がおかしいんじゃない? わざわざ鍵屋さんに頼んで土蔵を開けるなら、最初っから土蔵の中の物を使えば良いと思うんだけど」由美はすかさず反論する。

「いや、別に不自然じゃない」友樹は言葉を返す。

「そもそも良雄叔父さんは、土蔵の鍵に骨董品としての価値があるとかで、いじりたがってなかった。だから土蔵を開けるのは最終手段なんだと思う。もしくは手に入れたい物が出来れば新品がいいとかかな」

「ふうん。なるほどね」

 由美が呟いたのを最後に、暫しの静寂が訪れた。友樹は視線を上げ、オレンジ色から紫色のグラデーションがかかった初夏の夕暮れ時の空を眺めた。西の空では太陽がしぶとく地平線にしがみついている。


 良雄の目的は一体何なのだろうか。遠くに見える点滅する青信号に合わせるように自転車を減速させながら、友樹は顎を引いてつと考え込んだ。『陶器店』で何かを入手しようとしている様子を見ると、骨董品関係が目的なのか。ともかく、土蔵の錠前を鍵屋に開けさせようとしているということは、良雄が土蔵の鍵を持っている訳ではなさそうだ。結局、鍵は本当にただ無くなっただけなのか、それとも他の誰かが盗み出したのか。色々な「?」が友樹の頭の中で雑多に混ざり合い、複雑怪奇な謎となって頭蓋の内側をノックしている。


「ねえ、明日みんなでパパラッチしない?」

 突然の由美の提案に、二人は反応出来なかった。少しして

「張り込んで、写真を撮るってことか?」と直之が聞き返す。

「当たり前じゃん。だってメモの時間見た? 『予約済み←二十一時から』なんて絶好の時間帯だよ。土蔵を開けて何を持ち出すのか見たくないわけ?」

「いや。そりゃ知りたいけどな、陶器店で目当ての物手に入れてたら、無駄足だぞ」

「分かってるって。でも、叔父さんは結局土蔵を開けることになると思うな」

「根拠を述べろよ、ホームズ君」直之が合いの手を入れる。

「だって、もう鍵屋を予約してるんだから、多分だけど、陶器店の方は元々一か八かで、本命が土蔵なんじゃない」

「確かに。必要なくなるかもしれないのに、わざわざ予約してるってことは、そういうことなのかも」友樹は思わす納得の声を出してしまう。

「おい。懐柔されるんじゃねえ」

「大丈夫だって。遠くから数枚写真を隠し撮りして、とっとと帰るだけだから」

「ばれたらどうするんだよ」直之はしつこく食い下がる。

「忘れたの、ナオ? 叔父さんはこの一連の動きを私たちに隠してるんだよ。疚しいところがあるんだから、ばれたところでお互い痛み分けよ。何なら写真を持ってるこっちが有利まである」

「……」

 黙りこくった直之目がけて、由美は勝ち誇ったように言い放った。

「二人とも、ここまで来たら最後まで見届けるのが義務だと思わない? 私たちは冒険をしてるんだよ」

「俺はしてないぞ」

 直之の最後の抵抗は、由美の

「じゃあ、何時に集合する?」の声にかき消される。

「おい、友樹。お前は良いのかよ」

 直之の矛先を変えた質問に、友樹はすぐに答えた。

「僕は行くよ。純粋に良雄叔父さんの目的が気になる」

「ほらね!」

 嬉しそうに由美が叫ぶ。

「ええ……」

 困惑したような直之の情けない声がイヤホンから響いた。夕日はいつの間にか沈みきって、もうすぐ夜が来る。






 七月下旬と言っても、さすがに二十時を回ると辺りはしっかりと暗くなる。店舗のすぐそばに立つ電灯からは、蒸し暑い初夏の夜には似つかわしくない青白い光が投げかけられ、人っ子一人居ない歩道を浮かび上がらせている。

「ああ、なんでついて来ちまったんだ」

 直之は明かりの無い店の前で苦しそうに呻いた。由美曰く、出発時にかなりごねたので、無理矢理連れてきたらしい。弱みでも握られているのだろうか。

「ちょっと、静かにしてよ。友樹、自転車はどこに停めたら良い?」

「僕が昨日停めた所だと、叔父さんが帰ってきたときにバレるだろうから、そこの路地に停めちゃおう」

 近所の野良猫ぐらいしか使わなさそうな路地に三人は自転車を押し込んだ。上手い具合に街灯の光が入ってこないので、気付かれる心配はなさそうだ。

「で、叔父さんが帰ってくるまで四十分ぐらいあるけど、どこで待機しようか」

「母屋の中に入ろうぜ。こんな所まで来て蚊に刺されたくない」

 直之はそういって顔の辺りで手を振った。確かに時折あの不快な羽音が耳元で聞こえてくる。

「そうしよう。それで、二十一時ちょっと前になったら外に出て、土蔵の裏手に隠れる」

「写真はどうやって撮る?」由美が勢いよく挙手をして質問した。

「僕は正直、写真は必要ないと思うんだ。こんな夜中に鮮明な写真を撮ろうと思ったら、フラッシュは絶対必要だけど、確実に見つかるだろうし」

「じゃあどうするんだよ」

「確認するだけで良い。叔父さんの目的が何なのか、それだけ分かれば十分なんだ。写真を撮るのは僕たちがバレたときに、開き直って撮影すれば良い」

「友樹がいいなら、私はそれでもいいよ」

 由美は意外にもあっさり同意した。直之はどうだろう、と友樹が顔を見ると、顔の前で両手を振り回している。どうやら屋内に入れさえすれば、もう何でも良いらしい。

「取り敢えず母屋に行こうか。細かいことは入ってから考えよう」

「はいはい、早く行こう。俺もう刺されちゃったよ」

 例によって三人は店を回り込んで母屋へ向かった。近所の人間に見られたら面倒なことになるかもしれない、と思っていたが、友樹の予想に反して店の前の道には相変わらず人気が無いままだった。明かりの一切無い中庭は、隣家からこぼれてくる光で辛うじて歩ける程度になっている。

「ねえ、もしかして監視カメラとか設置されたりしてないよね」

「こんな小さい古道具屋に、そんな大層な物がついてるわけないよ」

 返事をしながら、友樹は鍵の壊れた縁側の窓に手を掛けた。一瞬鍵が直されている可能性を考えたが、問題なく窓はすんなりと開き、後ろの方から安堵のため息が聞こえてくる。友樹だってヤブ蚊にご馳走をするのはお断りなので、胸をなで下ろした。取り敢えず三人は廊下に腰を下ろす。

「でさ、叔父さんは何を欲しがってると思う?」

 由美が左腕を掻きながら聞いてくる。早くも蚊に食われたようだ。

「うーん、順当に考えれば、祖父ちゃんの頃に商品を予約してた人から連絡が来て、その商品が土蔵の中にあることが分かった、とかになるんだろうけど」

「それなら俺たちに隠す必要は、無い、ってことになる」

 直之が引き継いで、腕を組んだ。

「まあ、大きい物じゃないだろうな。だって陶器だろ。ティーセットとか人形とか、そんな感じじゃないか」

「分かんないよ、馬鹿でかい信楽焼きの置物かも」

 ああでもないこうでもないと話し合っている二人を見ながら、友樹は廊下が結構暑いことに気付いた。エアコンなんてあるわけないので当たり前ではある。

「ねえ、ここ暑くない?」

 友樹の問いかけに二人は顔を見合わせ、口々に

「確かに」と応えた。

「どうする? 座敷の中で待機する?」

 由美は気味悪げに襖を見てから首を横に振ったが、直之は逆に襖に手を掛けて言った。

「そうしよう。別に一人だけじゃないから、大丈夫なんじゃないか」

「ナオはあの化け物を見たこと無いから、分かんないんだよ。あの気味悪い感じがさ」

「でも、一人で見なきゃ問題ないんだろ。現に俺だってお前たちと一緒に何回も見てるけど、特に何もなかったんだから」

 ここまで言って直之は意地悪く笑った。

「あ、お前もしかして、怖じ気づいてる?」

 由美の眉間に深くしわが寄った。屏風に掛かっていた直之の手を払いのけて、語調も荒く言い放つ。

「分かったわよ。入れば良いんでしょ、入れば」

 台詞を吐いたと同時に襖を勢いよく開け、ずんずんと座敷の中へ進んでいく。友樹もその後に続き、座敷の敷居を跨いだ。


「はーじめーましょ」


 視界が暗転すると同時に、声が聞こえた。



 裸足の足が砂っぽい地面を捉えると、平安時代風な建造物が前から後ろへ流れていく。心臓の音が深い振動となって耳の奥から響いてくる。

 すぐ横を由美も跳ねるように駆けてきた。今にも飛ばんとする鷹のように走り抜ける。

 二人で人気の無い大路を、旋風のごとく両の足を動かしながら通り過ぎた。友樹は由美に向かって呼びかける。

「これが、由美の言ってた」

「そう、『白昼夢』」

 なんなんだ、ここは。友樹は混乱していた。意識していないのに、足の回転が止まらない。大体友樹はこんなに早く走れないのだ。幸いなのは、障害物らしき物が通りのどこにも見当たらない事だろうか。

 が、次の十字路を右へ曲がった途端、唐突に目の前の塀の一部が吹き飛ばされた。同時に足の自由が利くようになり、驚いて立ち止まった二人だったが、目の前でもうもうと上がる土煙の中からぬっと現れた人影に度肝を抜かれた。

 平安時代を彷彿とさせる古めかしい服装で、体格は友樹と殆ど変わらない。そして、見覚えのある仮面を着けていた。異常に見開かれた目、横に無理矢理引き延ばされたような口、これは、あの屏風の仮面だ。

 滲み出る不快感に二人は一歩たじろいだが、仮面を着けた人物はその場で回れ右をした。突然後ろを向いたその姿に、友樹は心当たりがあった。これは、まるで

「鬼ごっこだ」

「え」

「こいつ、鬼ごっこしようとしてる」

「じゃあ、こいつが『鬼』?」

 応えるように、鬼が足を踏みならした。数秒の間隔を空けて、もう一回。由美が何かに気がついたように息を飲んだ。

「これ、スタートまでの時間を数えてるんだ」

「急ごう、出来るだけ距離を稼ぐんだ」

 二人は元来た道を一目散に引き返す。十数秒後、時間になったのか、鬼の足音が追いかけてきた。

 足音に違和感を覚えて振り返った友樹は、思わず驚きの声を漏らした。

 鬼は凄まじい勢いで追ってきていた。しかも、四足を使って。両手両足を不規則に出しているので、牛や馬とも違う、気持ちの悪い足音になってる。そして何故か、鬼を見る度に、不快感や嫌悪感が襲ってくる。立ち居振る舞いから来るものでは無い、不気味な感覚だ。

 走り続けていると、さっき通った十字路が見えてきた。由美が走りながらおもむろに左側を指さす。友樹は頷き、十字路に差し掛かったところで素早く右へ曲がった。

 醜い足音が一瞬立ち止まった後、遠のいていく。どうやら由美の方を鬼は追っていったようだ。さて、どうしようか、と友樹は走りながら考えを巡らす。逃げ切れば勝ちなのか、時間制限はあるのか。何も分からない。

 突然開けた場所に出た。最初は広場か何かに出たのかと思い、速度を緩めて左右を見渡すが、すぐに勘違いに気付いた。広場ではなく、幅が異様に広い大通りに出たのだ。並木も電柱も何も無い、だだっ広い道が左右両側にどこまでも伸びている。平安京にこんな様なナントカ大路があると授業で聞いた記憶がある。

 そうしてしばらく走っていたが、違和感に気付く。友樹の足音に混じって、別の足音が近づいてきている。少しの間そのまま走り続けたが、やがて想像は確信に変わった。気味の悪い、あの足音だ。どうやら由美は捕まったらしい。

 捕まった後、一体どうなるのかという疑問には一旦蓋をすることにした。今は兎に角逃げ切るしか無い。友樹は再び速度を上げて通りのど真ん中を走り出した。

 後方でまた壁が崩れる音がした。見なくても分かる、鬼が追いついてきたのだ。友樹の体は更に加速していき、地面すれすれを滑るように駆け抜けていく。こんなところで捕まる訳にはいかない。

 猛然と走り続けていると、大通りの幅の広さとは全く釣り合っていない、こぢんまりとした建物が近づいてきた。何やら既視感を覚えた友樹は、よく見ようと眉を寄せ、危うく転びそうになった。あれは、寺島道具店の母屋だ。どういう訳かはさっぱりだが、確かに母屋が迫ってくる。

 必死に走っているはずなのだが、いつの間にか鬼の足音はすぐ後ろまで迫っていた。そのままの勢いで母屋の入り口に突っ込み、転がる様に中へ飛び込んだ。廊下を直進し、座敷の引き戸を素早く開ける。座敷の中を見渡し、見つけた。押し入れだ。

 友樹が押し入れに飛び込んだと同時に、屋敷の入り口の方から汚らしい足音が聞こえてきた。鬼が屋敷の中に入ったのだ。足音はそのまま廊下を進み、座敷に到着する。友樹はそっと押し入れの扉を、片目で覗ける程度に開けた。

 座敷の真ん中に鬼が、何やら観念した様子で仁王立ちしている。友樹を探している様子は、何故か無い。数秒後、両手をその仮面に伸ばすとゆっくりと外し始めた。


 バサリと長い髪が露わになる。


 仮面が畳に落ちた。現れた「見覚えのある」その素顔見て、友樹は思わず声を上げてしまった。

「え、なんで?」

 声に反応したのか、鬼は押し入れの隙間に向き直った。が、相変わらず友樹を捕らえる素振りを見せることは無く、ひどく悔しげな表情を顔に浮かべると、座敷の空気に溶け込むように消えていった。何が何やら分からないまま、取り敢えず押し入れから出ようと友樹は引き戸に手を掛けたが、次の瞬間、前触れ無く友樹の目の前は真っ暗になった。



「友樹、大丈夫か? しっかりしろ!」

 直之の声が上の方から聞こえてくる。同時に自分が肩を掴まれて、揺さぶられていることに気がついた。背中の感触から察するに、座敷の畳の上で仰向けになっているようだ。

「大丈夫。ちょっと目眩がするけど」

 友樹は体を起こして、心配と安堵をブレンドしたような表情をしている直之と由美の顔を交互に見て、聞いた。

「何か、あったの?」

「何がって、お前と由美が座敷に入った途端にぶっ倒れたんだよ。由美はその内起きたんだけど、お前は鼻つまんでも、頬を叩いても起きないから、もう救急車を呼ぼうかと思ったんだぞ」

 確かに顔がちょっとヒリヒリする。それにしても、何だったんだあの夢、と思いながら友樹がこわばった首をぐるりと回すと、畳の上で同じようにへたり込んでいる由美と目が合った。そういえばついさっき直之は、由美も倒れた、と言った。もしかして、と友樹は口を開く。

「由美もさ『あれ』、見た?」

 由美は頷く。直之は困惑したように二人の間に割って入る。

「ちょっと待てよ。『あれ』ってなんなんだ?」

「直之、落ち着いて聞いてくれ」

「分かったから早く話せ」

「僕が座敷に入った時、『始めましょう』って声が聞こえたんだ。それで、次の瞬間、その、誰もいない大通りみたいな所を、全速力で走ってた」

「それって、この前由美が言ってた夢の話だろ」

「いや、ついさっき僕と由美は同じ夢を見てたんだ」

 目を丸くしながら直之が由美の方を見る。

「私も一緒。それで楽しく走ってたんだけど、突然仮面を着けた鬼が出てきて、鬼ごっこが始まったの。ちょっとの間は逃げたんだけど、私は捕まっちゃった」

「待てよ。仮面を着けた鬼って」

 直之がスマホをポケットから取り出して慌ただしく操作し、ライトを起動させ、目の前の例の屏風を照らした。

「この盲鬼じゃんか」

 友樹は白い光の中で浮かび上がった仮面の絵を、じっくりと眺めた。間違いなく、幻の中で友樹と由美を追いかけ回したあの仮面だ。やっぱりただの奇妙な夢というわけではなさそうだ。

 直之が頭をガリガリと掻いて口を開く。

「その鬼ってのは、どんな感じだったんだ。この絵の通りなのか?」

「何というか、不気味だった。直之には伝わらないかもだけど、あの屏風から覗く『誰か』と雰囲気が凄く似てる」

 由美の方をチラリと見ると、その通りと言わんばかりに首を縦に振っている。そんな二人を見た直之は腕を組んで

「その後はどうなったんだ」と聞いた。

「その後僕は、この母屋にそっくりな建物に逃げ込んで、座敷の中の押し入れに隠れたんだ。鬼はそこまで追ってきたんだけど、座敷に入ったところで諦めて、それで」

「それで?」

 直之が促したが、友樹は少し黙ってしまった。あの顔を、思い出してしまったから。

「……それで、鬼は仮面を外した。僕は鬼の顔を見た」

 友樹はその顔の人物の名を口にした。二人は一様に訝しげな顔になる。

「え」

 思わず、といった様子で由美が呟く。

「説明は出来ないけど、見間違えじゃない」

「それで? そこで目が覚めたのか?」

「うん。そこで視界が暗転して、気がついたら直之の顔が目の前にあった」

 ふうっ、とため息をついて直之は胡座をかいて呟いた。

「一体どうなってるんだ」

 由美と友樹に説明出来るわけでも無く、直之自身もぼやいたつもりだったのだろうが、幸か不幸か沈黙が座敷に訪れた。そして、その静けさの中で一つの音が響いた。


 カチャリ


 三人は顔を見合わせ、立ち上がった。友樹は咄嗟に腕時計を見たが、二十一時までにはまだ時間がある。しかし、そんなことを言ってられない。そもそも三人ともここに居て良い人間では無いのだ。

 友樹は襖を開け廊下に出ると、出来るだけ音を出さないように窓を人が一人通れるぐらいに開けた。縁側の下に隠した靴を取り出し、突っかけながら人気の無い庭を横切り土蔵の裏へ向かった。残る二人も後に続く。

 土蔵の裏は思ったより雑草が生い茂っており、特有の青臭い匂いが充満していた。それぞれに雑草を踏み倒して安全地帯を作り、ようやく落ち着く。

「ねえ、どういうこと? まだ二十分ぐらい余裕あったはずでしょ」

「いや、僕もちょっとびっくりしたけど、もしかしたら良雄叔父さんじゃ無いかもしれない」

 友樹は二人に手招きして、土蔵の陰から中庭を覗かせる。当然だが、相変わらず庭には何も無いし、誰もいない。

「何にも無いけど」

 腑に落ちないといった表情の直之に、友樹は言った。

「この前土蔵の鍵を探しに来た時見たと思うんだけど、叔父さんはいつも庭に車を停めるんだよ」

「ああ、そういえば」

「でも車はどこにも停まってないのに、誰かが母屋に入ってきた」

「玄関の鍵を開けたってことは、お前のとこの親戚の誰かなのかな」

「さあね、取り敢えず誰であろうと、僕らは見つかったらまずいんだから、帰るまでじっとしてた方が良い」

 友樹が喋り終えた瞬間、真っ暗な母屋で何か物音が聞こえた。良雄もしくは他の人が中で何をしているのかは定かでは無いが、少なくとも母屋の中には確実にいるようだ。

 さほど間を空けずに物音は止み、その十数秒後に玄関のドアが開く音が聞こえてきた。しかし、様子がおかしい。遠ざかるとばかり思っていた足音が、友樹には徐々に近づいてきているように感じられるのだ。それもアスファルトでは無く、芝生を踏みしめる柔らかな足音である。どうやら本当にこちらへ歩いてきている。由美と直之も気付いたのか、小声で話しかけてきた。

「あれ、こっちに来てるよね。どうする?」

「静かにしてやり過ごそう。僕らに勘づいたんじゃ無いなら、こんな所まで来ないだろうし」

 友樹の予想通り、足音は土蔵の手前で止まった。それと同時に金属と金属がこすれ合うような、嫌な音が断続的に聞こえてくる。残念ながらこっちは予想外だった。何の音だ?

 もっと近くで聞こうと友樹が身を乗り出した時、足下から「パキッ」と小枝か何かを踏んづけたような、結構大きな音が出た。金属音はピタリと止み、代わりに女性の声が呼びかけてくる。

「ねえ、誰かいるの?」

 まあ、こうなるよね、と友樹は思った。ちょっと横を見ると直之が、無言で大きく口を二度動かしている。バ・カ。

 友樹は腹を括って立ち上がった。このままだんまりを決め込むことも考えたが、女性の語調から察するに音がした場所を調べるぐらいは平気でやりそうだった。藪の中で蚊に刺されている姿を発見されるよりかはマシだと踏んだのだが、情けないことに足は軽く震えている。

「あー、ちょっと待ってください」

 意味の無い受け答えをしながら、友樹は土蔵の正面へ向かう。二人もガサゴソと雑草をかき分けて付いてきた。どうにか正面に回り込んだ三人は、声の主の顔を見てちょっと固まった。

「あれ、友樹君じゃん」

 アルバイトの長谷麻衣だった。



「麻衣さんは、何しに来たんですか?」

 取り敢えず友樹は、この場で最も当たり障りのなさそうな質問をしてみる。今一番怖いのは、友樹たちがここに居る理由を聞かれることだ。一応言い訳も考えてきてはいるが、正直言ってかなり苦しい。

「私は良雄さんにお願いされてる事があるの」

「お願い?」

 友樹は戸惑いながらも聞き返す。ここで麻衣の口から良雄の名を聞くことになるとは思っても無かったからだ。麻衣は肩に掛けている、やや大きめの手提げ鞄を芝生の上に降ろし、申し訳なさそうに言った。

「そう……なんだけど、出来るだけこの用事は内緒にしてて欲しいって言われてて、だから私がここに来たことも他言無用にしてくれないかな?」

「用事ってこの土蔵と何か関係あるんですか」

 由美が全く空気の読めていない質問を返す。しかしこんな無遠慮な質問でも無いよりマシなので、友樹は心の中で由美を応援した。良いぞ、もっと変なこと聞け。

「土蔵に近づいたのは、そう言えば鍵が無くなっちゃった錠前をまだ見たこと無かったな、って思い出しただけ。だから用事とは関係ないよ」

 麻衣は中々懐が深いようで、不躾な由美の問いかけにもあっさりと応じた。そして。

「友樹君たちは、なんでこんな時間に、あんな所にいたの?」

 この状況では順当ではあるが、友樹たちにとっては非常に都合の悪い問いを投げかけてきた。仕方なく、友樹は言い訳を試みる。

「夏休みの課題を皆で集まってやりたかったので、母屋の座敷を使わせて貰えないかなと思って、来てみたんですよ」

「はいはい、なるほどね。でも良雄さんが居なかったから閉め出されたと」

 意外にも突っ込んで来ることは無く、普通に納得した様子の麻衣に、友樹は鎌を掛けてみることにした。

「逆に麻衣さんが、叔父さんがどこに行っちゃったのか、知ってたりしません?」

「えー、分かんないなあ。私も不在だって事しか知らないし」

 そう言って由美は、何かを誤魔化すように笑った。

「ほら、私って、部外者じゃん?」


 何気ない台詞だった。それを発した麻衣にとっても、それを聞いていた由美と直之にとっても。でも、友樹は少し違った。

 不意に、馬鹿げた考えが友樹の頭の中に降って湧いてきた。口にするのも憚られる様な、根拠も何も無いただの妄想。

 いつもの友樹なら誰にも言わないだろうし、そもそも考えつかないかもしれない。でも、友樹は直感でこの妄想を話し出す必要性を感じていた。仮面の下のあの素顔が脳裏にちらつく。例え理性と科学で説明できなくても、与えられたヒントは最大限活用すべきじゃないだろうか。明の思い出をこれ以上喰い物にされたくないのなら、どんな物でも利用すべきなんじゃないか。


「麻衣さん、一つお願いしても良いですか」

「なあに?」

「僕は、今から、その、嘘みたいな本当の話をします。それを全部聞いて貰って、最後に麻衣さんの感想を聞きたいんです。お願いできますか」

「嘘みたいな本当の話?」

 麻衣はオウム返しに聞いてきた。しかし友樹が至って真面目な顔をしているのに気付いたのか、苦笑をして返事をする。

「あんまり長くなければ、いいよ」

 友樹はぺこりと頭を下げて話し始めた。

「麻衣さん、母屋の座敷に屏風があるのって知ってますか」

「うん。あの二枚組の大きいのでしょ」

「あの屏風には、実は化け物が取り憑いてるんですよ」

「……」

「一人で座敷に入ると、二枚の屏風の隙間から正体不明の『誰か』がこっちを覗いてくるんです。もの凄く不気味なんですけど、他の人には見えない。そういう化け物です」

 友樹の視界の端で直之がとんでもなく変な顔をしているのが見えた。まさか屏風の怪異のことを話し出すとは思いもしなかったのだろう。

「で、ある日僕はその化け物に遭遇したんですよ。その数日後に、この由美も同じく遭遇しました。ただ、もうこの時点で十分恐ろしい思いをしたんですが、これで終わりじゃありませんでした。ついこの間、座敷に入った時、僕と由美はその屏風の怪異によって気味の悪い幻覚を見せられたんです」

 友樹はちょっと言葉を切って、改めて麻衣の顔をそっと見た。暗がりの中で麻衣はなんとも言えない、知り合いの高校生が突然怪談を始めたのには相応しい、微妙な表情をしている。

「僕たちはその幻覚の中で、鬼ごっこをやらされました。仮面を被った何者かが鬼の役で、僕たちは必死に逃げ続けてたんです。結局最後まで逃げ切ったんですが、なんと鬼は僕の目の前で仮面を外しました」

 友樹はかさかさの唇をなめた。

「その鬼の素顔は、麻衣さんの顔でした」

「おい、ちょっと」

 直之がさすがに我慢できなくなったのか、声を上げた。けれど、友樹の口は止まらない。

「え、これってさ、ドッキリか何か?」

 麻衣も不審そうに問いかけてくる。

「話を聞いていて、思ったかも知れませんが、屏風の怪異は凄く不気味で意味不明です。でも、頭を冷やして考えてみると、不自然な事が幾つかあるんです。第一に、僕も由美も、屏風そのものを『気味が悪い』と思ったことが無い、ということ。普通に考えると、今話した様な不気味な怪奇現象が起こったら、まず間違いなくそれが発生する屏風と、この母屋に寄りつかなくなるはずです。でも僕も由美も、そんなことはありませんでした。奇妙なことに、怪異と屏風がまるで別物みたいに感じられるんです」

 同じく友樹の視界の端で、由美が、確かに、といった風に頷いた。

「第二に、屏風の怪異が僕らに見せた幻想についてです。もし、僕たちに危害を加えることが目的だとしたら、幻想世界に僕たちの意識を取り込んだところで、そのまま放っておくでしょう。さもなければ、恐ろしい目に遭わせてトラウマを与えたりなど、やり用はあったはずです。なのに敢えて僕たちに鬼ごっこを仕掛け、結果として僕たちは無事に意識回復をしました。つまり、屏風の怪異はそもそも害を為すつもりが無いんです」

 友樹の突飛な話に、肯定とも否定ともとれる沈黙が間に入り込んできた。皆少々唖然としているが、それは友樹だって同じだった。出来心でここまで話してきたが、もう引くに引けなくなっていることは明白だった。一呼吸おいて、頭を整理する。チャンスを逃すわけにはいかない。

「ここまで考えて、僕は祖父ちゃんがあの屏風について、あることを言っていたのを思い出しました。祖父ちゃんは確か『屏風は昔、仕切りと壁の役割を担ってた』という様なことを僕に教えてくれたことがあったんです。この記憶がヒントになりました。僕たちは今まで、『屏風があの怪異を見せている』もしくは『屏風にあの怪異が取り憑いてる』とばかり考えてたんですが、もしかしたら逆かもしれないんです」

 麻衣が、話が見えなくなった、と言わんばかりの怪訝そうな表情をした。よく分からないだけで、後の二人も似たような顔になっているのだろう。

「例えば、あの屏風が壁だったとします。そうすると、その屏風の向こう側からこっちを覗いてくる、顔の分からない気味の悪い誰かって、差し詰めどんな人だと思いますか」

 麻衣は何も言わない。その代わり由美が声を上げた。

「不審者、とかかな」

「その通り。じゃあこう考えたらどうでしょうか。『この家に対して良からぬ事を企む悪人がいて、屏風はそれを伝えてくれていただけ』。屏風は口がきけません。じゃあどうすれば良いのか」

 今度は誰も応えない。仕方が無いので友樹はもう一度口を開いた。

「その家の者に、自身を壁に見立てて、その壁の向こうから覗き見る不気味な『誰か』の姿を見せる、そうして悪人の存在を伝えようとしていた。そう考えれば、僕と由美が屏風そのものに恐怖しなかったことの説明も出来ます」

 麻衣が軽く眉を寄せた。どうやら友樹が何を言いたいのか察したようだ。

「そして、その『誰か』を見た僕と由美を幻想の中で鬼ごっこをさせて、逃げ切ることが出来れば鬼、つまり悪人の正体を明かすというチャンスを与えていたんです。実際、鬼が仮面を取る場面を見られたのは、鬼から逃げおおせた僕だけで、途中で捕まって由美はその時点で目を覚ましてますから」

 友樹は土蔵の方へ目線を向け、錠前を指さした。

「そしてこのところ寺島道具店で起こっている良くない事と言えば、一つしか無い。で、僕はこう思って訳です。麻衣さんが土蔵の鍵を盗ったんだ、と」

 ここでようやく麻衣が口を開いた。ややあきれた様に友樹を見つめる。

「まあ、嘘か本当かは置いておくとして、よく出来たお話だと思うよ。でも、想像で人を悪人呼ばわりするのは良くないかな」

 直之が素早く友樹に近寄ると、手で無理矢理友樹の上半身を前方に折り曲げ、自分も頭を下げた。

「そうですよね、すみません」

 頭を下げながら直之は横目で友樹を睨み、小声で問い詰める。

「お前、何考えてんだ」

「いや、どうしても言いたくなって」

 そんな二人のやりとりを見て、麻衣は軽くため息をついた。

「はいはい、もうこれでお開きにしましょう。もし、今すぐに帰るんだったら、ここでコソコソしてたことは、内緒にしてあげる」

 無駄だったか、と友樹は肩を落とした。まあ、当然と言えば当然の結果だ。麻衣の言うとおり、彼女からすればこれはただの「お話」でしかない。麻衣がこの怪談を一から十まで信じ込んで、その通りで私が悪人です、と涙ながらに告白するとは、友樹だって思っていなかった。それでも、折角のチャンスが、両手の間からこぼれ落ちていったのが、悔しくて堪らなかった。

 麻衣は踵を返して車道の方へと歩いて行く。その後ろ姿を見て、やれることは全部やったのだ、と友樹は自分に言い聞かせた。少なくとも屏風の怪異に関しては真相に大きく近づいた。ここは一旦引き下がってもいいじゃないか、と。直之も同意見のようで、スマホで時間を確認し、眠そうに目を擦っている。

 しかし、その空気を全然読めていない人物がいた。由美だ。

「麻衣さん、私も一つ質問していいですか?」

「いいけど、出来るだけ手短にね」

「なんで母屋に入ったんですか?」

 麻衣の声色に刺々しい苛立ちが混じった。

「だ、か、ら、良雄さんの用事のお手伝いです。人の話はちゃんと聞いた方がいいよ」

「じゃあ、なんで電気を点けなかったんですか?」

 麻衣は息を吸い、押し黙った。

 友樹は頭の中でつい二三分前の情景を思い出す。確かに、母屋は暗いままだった。でも、なんで。

 電気を点けない、ということは母屋の中に誰かがいるという状態を近隣の住民に知られたくなかったのだろうか。となると、麻衣にはやましいことがあったと言うことだ。が、やましいことをしていたと言っても、母屋で出来ることなんて限られている。何せ一階には座敷と台所、二階は寝室と明の書斎だけだ。

 明の書斎。

「ああ、なるほど」

 友樹はようやく理解した。てんでバラバラだったここ数日の出来事がジグソーパズルのように綺麗に当てはまる。

 友樹はもう一度麻衣に向かって呼びかけた。

「麻衣さん、やっぱりあなたが土蔵の鍵を盗ったんだ」


 麻衣は素早く振り返った。明らかに苛立っている。

「あのさあ、年上をからかうのもいい加減にしたら? そもそも私は鍵がどこにあるか見当も付けられないんだよ」

「そうですよね。親戚の僕らですら分からないのに、『部外者』の麻衣さんが探し出して盗める訳がない。でも、麻衣さんにも鍵を手に入れられるタイミングがあったんです」

「はあ? 何言ってるの」

「祖父ちゃんが倒れた時、バイトの出勤で店に来た麻衣さんが、気がついて救急車を呼んでくれたこと、感謝してます。ただ、祖父ちゃんが倒れた時期は、ちょうど年に二回の土蔵の大掃除の時期と被るんです。もし、その予定日に祖父ちゃんが倒れて、病院に搬送された後、店の床に何かの鍵が落ちてたとしたら。もし、祖父ちゃんが事前に麻衣さんへ店番を任せるついでに、土蔵の整理の話をしていたら。魔が差すってこともあるんじゃないですか?」

 麻衣は呆れたようにため息をついて額に手を当てると、踵を返した。

「ちょっと、私もう帰るね。君たちと付き合ってられない」

「待ってください。最後に一つだけ」

 構わず立ち去ろうとする麻衣の背中に、友樹は最後の一撃を投げつけた。


「鞄の中の商品リスト、返してもらっていいですか?」


 麻衣の足がピタリと止まった。由美の顔が一瞬で晴れ渡る。

「ああ、そういうことか」

「そう、僕も最初に麻衣さんが鍵を盗ったんじゃないか、って考えた時、何ですぐに目ぼしいものを土蔵から盗んで、行方をくらまさないのか分からなかったんだ。でも、当たり前なんだよ。商品リストがある以上、鍵がなくてもいずれ何らかの方法で土蔵が開いた時、何が無くなってるのか一目瞭然になる」

 直之がはたと気付いた表情になる。

「でも、逆に商品リストを処分してしまえば、逆に土蔵の中に何があったのか誰も知らないから、そもそも盗みが発覚すらしない」

 友樹は頷く。

「そう。その為には、良雄叔父さんが商品リストの写しを作ったりする前の、出来るだけ早い段階で処分しなきゃいけないんだ。だからこんな夜中にわざわざ母屋に来た」

「じゃあ、叔父さんからのお願いは」

「僕らに見られたから、咄嗟に思いついた言い訳だろうね」

 麻衣は立ち止まったまま、何も言わない。が、友樹が一歩近寄った瞬間、唐突に車道目がけて走り出した。

 虚を突かれた三人は、直之の「追いかけろ!」という声で一斉にスタートする。

 想像以上に麻衣は足が速く、あっという間に車道に飛び出し、角を曲がる。そう言えば大学で陸上をやっているんだっけ、とどうでもいいことを友樹は思い出した。

 友樹たちが角を曲がると、車のドアが閉まる音と共に、車道が一気に明るくなった。停めてあった車に麻衣が乗り込み、ヘッドライトを点けたのだ。

 急いで車に駆け寄り、ドアを開けようとしたが、既にロックされておりビクともしない。それどころか側面に三人を貼り付けたまま、車は走り出した。

 少しの間は併走していたが、みるみるうちに加速し坂道を下っていく。ヘッドライトがもう一度角を曲がり、見えなくなると、先頭を走っていた直之が諦めたように立ち止まった。友樹も肩で息をしながら、歩き出す。

「逃げられちまったぞ。どうする」

「兎に角、叔父さんに連絡しないと」

 さて、どうしたものかとスマホを取り出した時、坂の下の方で重い物同士がぶつかったような、ドンッという音が響いた。三人は顔を見合わせ再び走り出す。

 長い坂を下り、音のした方へ近づくと二台の車が正面衝突していた。手前側の車は見覚えのある、麻衣の白い軽自動車だ。恐らく慌てて逃げて運転を誤ったのだろう。運転席側のサイドウインドウを覗くと、座席とエアバックの間で麻衣が泡を吹いて気絶している。奥側の軽自動車にも……何故か見覚えがある。この薄汚れた感じは、良雄の車だ。慌てた様子で運転席から降りた良雄は、麻衣の車の横に立っている友樹たちに気付いたようで、

「え? なんで君たちがここに」

 と駆け寄ってきた。

 一旦良雄を無視し、友樹は塀にもたれかかった。どうにかなった、という安堵感が筋肉を弛緩させ、その場にズルズルと座り込んでしまう。ハアーと長いため息が口から漏れ出す。衝突した車に、麻衣が乗っていることにも気付いた良雄が騒ぎ始めたのを横目に、友樹はゆっくりと立ち上がった。

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