第壱譚

僕の名前1



誰かが、僕の名前を呼んだ。


+


真っ暗な世界で、人影が揺らいで立っている。違和感だらけな確かな姿は、黒の空間でも一際黒い。


その人影が微笑んでいる。


「○○○ーーーー…………ね」


僕の名前を呼ぶ人影。短い科白であれど雑音が多い為、殆どが掻き消える。


ーーーーーーなんて、呼んでいるの?


「ーーーーー……わね」


人影がゆらりと、此方へ近付いた。その口元は弧を描く形で固まり、手を後ろで組んでいる。目を凝らすのが確認出来たが、やはり鮮明に見れない。


「ーーた……わね」


ーーーーーー聞こえないよ。


「らーーーーた……」


ーーーーーー??


僕が首を傾げようとした時だった。


ダンッと大きな音が響き、人影は僕に飛び掛かった。突然の事で身体が固まり、そのまま後ろへ倒れる。


頭を強か打った気がするが、痛みはしなかった。


目の前に人影の顔が映る。正気を見失った赤い瞳から涙が溢れる。「彼女」の手には先の尖った刃物の様なものが握られていた。


その手が振り上げられる。


そして、彼女が叫んだ。




「裏切ったわね、○○○!!」




+




「う、わあああぁぁぁっ!!」


ごつんと頭を打つ。「僕」は眠っていたベッドから転がり落ちた。


とても頭が痛い。


心臓が早鐘を打ち、呼吸の仕方を忘れ、息を呑む。慌てて呼吸を正し、僕は体勢を楽な姿勢に戻した。


遅れたようにどっと冷や汗が吹き出る。


「……夢?」


それにしてはやけに現実味があった。あの空間はまるで異世界のようだったが、未だに「彼女」が鮮明に浮かぶ。夢心地のように、感覚はなかったが。


周りを見渡すといつもの風景があった。木材で統一された素朴な部屋、簡素ではあるが此処は僕の一軒家。


僕は数秒思考を停止させたが、学校に行く為の準備を脳内から引っ張り出す。




けれど。




「ーーーあ、れ…?」


僕は首を傾げる。周りを見渡す。「なんの変りのない」風景。


ー僕はなんで此処に住んでいるのだろう?


冷や汗が止まらない。思考を回転させる。


疲れている、怖い夢を見たから。早く学校へ、デポとニーナが迎えにー


そこで引き出しが空になる感覚に陥った。


ーその名前、誰だっけ?


そもそも僕は、学校へどうやって、どうして行っていたのだろう。




僕の名前は、なんなのだろう。




「あ、れ……?」


軽いパニック状態に襲われ、振り払うように頭を振った。しかし幾ら考えても自分の名前は覚えていなかった。考えると考えるだけ、まるで拒絶するかのように頭痛がするだけだ。


何かがおかしい。


結論付け、僕は立ち上がりこの部屋から出る。


まだ夢の中なのかもしれない。落ち着こうと洗面台へ向かう。迷いながら、焦りながら、幾分経って漸くたどり着く。


洗面台には立ち鏡が置いてある。自分の姿を見て安堵したいが故に、僕は鏡の前に立つ。


その鏡に映し出されたのは、見覚えのない姿の人物だった。


+


まず目に入ったのは緑だった。


見た目は15歳程度の少年だと思われる。短くざんばらに切った髪の毛は、まるで若草のように明るい緑色。童顔の顔が目を見開く。瞳は硝子のような濃灰色だ。姿見に映る体格は、まだ成長期を彷彿とさせる。


元気で活発そうな顔に、僕は手を伸ばした。鏡の向こうの人物が己の頬に触れる。目の前の少年は見た事がなかった。


それでも自分自身だった。


僕は更に混乱する事しか出来なかった。どうすれば良いか判らずに呆然と鏡を凝視する事しか出来ない。僕は誰か、此処は何処か、どうして記憶がないのか。何も判らない事に恐怖を抱き、僕は近くにあったパーカーを恐る恐る羽織り、外へ出ようと出口を探した。


取り敢えず外へ出たかった。


狭いであろう家のドアが見つからずに、僕は慌ててドアではなく窓から脱出した。風が吹き荒れる。春の匂い、木々や花のふわりとした風が、僕の髪の毛をばさばさと揺らした。


外は自然の多い街…村だろうか。風車が村を囲った村のようだった。やはり見覚えがない…その事に焦りを感じ、裏庭を横切り、玄関まで足を運ぶ。


玄関まで来ると周りは住宅地が広がっていた。静かではあるが人が行き交っている。人がいた、僕はそう安堵して近くの人に声を掛けようと、した。


「あの、ちょっといいかな?」


「あら……?」


二人組の少年少女だった。栗色の髪の少女が疑問そうに呟く。傍にいた金髪の少年がじろじろと僕を観察する。その瞳は疑問が浮かんでいる。


「お前、誰…?」


「え?」


「此処、あなたの家なの?」


それは此方が訊きたいと答えようとした時だった。突然少女が何かに気付いたようにハッとし、わなわなと震える。心なしか顔色が悪い。


少女は少年の服を握ると、僕を指差して叫んだ。


「この人!きっと『異端者』よ!!」


「い、たん……?」


首を傾げると、少年も顔を真っ青にする。


「そうだ、此処はーーーーの家の筈だ!」


科白の間にノイズが流れて掻き消える。少年と少女の反応に戸惑っている間に、周りの通行人も集まって来る。


まるで感染のように、周りが騒めいている。




「お父さんが言っていたの!」


「ある日友達の家に見知らぬ人がいると!」


「それは友達を殺して住み着いた『異端者』だって!」


「『魔術師』だ!!」




騒がしい方向から何かが飛んできた。頭に何かが当たったのがまるで条件反射のように、僕は駆け出した。人の罵声、それと石礫の嵐から逃げ出す。


「ペイグンは消えてしまえ!」


「連絡は!?直ぐに彼処に連絡しろ!」


僕は飛んでくる石から逃げる為にひたすら走った。騒ぎが大きくなっているのか、すれ違う人々は顔を痙攣らせる。まるで化け物を見るかのように、悲鳴を上げる人もいるようだ。


恐ろしい視線から逃げた。村から逃げ出した。


訳の判らない孤独感に押し潰された。目から溢れるものを抑えきれない程、僕は相当参っていた。







どのくらい、走ったのだろう。


陽は最も高い所まで昇っていた。まだ確認できる街中の先に、山と風車が見える。「風車」を理解するこの脳は正常だと、皮肉気に考えながら、もう追いかけて来る人はいないと察す。僕は目の端に残る滴を乱暴に手の甲で拭い、空を見上げた。泣きたくなるような快晴があたり一面に広がる。穢れを知らないような空が嫌で、僕は視線を地面に落とした。


これから、どうしていけと言うのだろう。


自分の悩みも知らない身で、街中を転々としていけとも言うのか。そして異端者と罵られながら、生きていけと言うのか。


僕には異端者の知識があった。


昔、根絶やしにしたと噂される魔術師の汚名の事だった筈だ。異端者は人間達の裏切り者であり、見つけ次第処刑される咎人だ。


ただ僕は咎人ではない。その筈だった。


異端者は魔法を使う。魔法で人間を苦しめると聞いた事がある。そんな力を、僕は持っていなかった。それとも、今まで隠してきたと言うのか。それなら、何故記憶を喪くしてしまったのか、誰かにされでもしたのか。そんな負の思考が廻る。否定も肯定も出来ない考えに、僕は考えるのを辞めた。


悔しさと悲しさが混ざった気持ちを飲み込んだ時だった。




ーーーーーガサッ




音が聞こえた。


僕は自分でも驚く程身体を震わせた。此処は山を越え、林道になっている一本道。人影は自分以外を見つける事は出来ない。何があるのか、辺りを見回しても何もないように思える。


ーーーーーガサッ


再びその音が聞こえた時、林の何処かが揺れたのを肌で感じ取った。


肌が粟立つ。恐怖で身体が竦む。早足で其処を通り過ぎようと駆けた時だった。


ーーーーーガササササッ


真横から黒い塊が突っ込んできた。その黒いものにぶつかり、僕はどんもりうって転がる。


「うわあぁ!?」


もう少しで傍だった崖から落ちる。すれすれの所で僕の身体は止まった。目と鼻の先に黒いものがある。それは獣だ。獣の口から鉄臭い匂い、そして荒い息が鳴る。ずらりと並んだ恐ろしい牙が、僕の喉笛に近づいた。


僕はギュッと目を閉じる事しか出来なかった。




此処で死ぬのか。




頭が無意味に回転している。すると、先ほどの記憶が走馬灯の様に駆け回った。


恐ろしい夢を見た。自分が何者なのか思い出せなかった。異端者と呼ばれ逃げ回った。


途端、僕の頭の中で何かが弾けた。


学校へ行かなくてはならなかった。デポとニーナが迎えに来ると。


ーーーーーデポと、ニーナ?


それはあの金髪の少年と栗毛の少女の事だ。


彼等の科白が蘇る。


ーーーーー○○○は何処にやった!


ーーーーー○○○を返して!


それは“僕”を呼ぶ声だ。


再び、頭の中で何かが閃く。


○○○なんかじゃない。僕の名前は。


「…………………あ」


獣の牙が僕に襲い掛かろうとしている。若草色の髪が風に揺らぐ。活発そうな黒灰の瞳が恐怖と形容の出来ない感情で見開く。




そうだ、僕の名前は、




「ーーーーー“アリエッタ”!!」

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