第6話

 駅から公園に向かうのは初めてだった。家路から外れるように右へ曲がる。いつもは十分くらいかかる場所が自転車のおかげですぐに到着した。スピードは緩めずいつものランニングコースを回ってみる。


 しかし現れる人影は男のものばかり。いつも待ち合わせをしているベンチ近くで数分待ってみても芦屋あしやは現れなかった。もう帰ったのだろうか。それとも場所が違うのか。自転車を止めて夜空を仰ぐ。


「何やってんだろうな」


 呟いた言葉に反応してくれる人はいない。勝手に芦屋あしやがいると勘違いして、家族の夕食の時間を遅らせて、アホか俺は。あの塾の環境と空腹のせいで頭がどうかしていたらしい。


 重くなったペダルを踏みしめ、来た道を戻った。


「ただいま」

「やっと弟が帰って来たよ」

「おかえり、今日はちょっと遅かったわね」

「……おかえり」


 机にはすでにご飯が用意されていた。今日の夕食は生姜焼きらしい。兄さんはソファーでだらけており、母さんはちょうど冷蔵庫からお茶を取り出している。父さんはいつも通り椅子に座って何やらノートPCを忙しそうに打鍵音をならしていた。


 僕が手を洗うとすぐに食事が始まる。しかし、わざわざ家族を集めても話すことの方が少ない。両親共に家で仕事の話はしたくないだろうし、兄さんも毎日が大変だと愚痴をこぼしていた。俺も受験勉強で毎日同じような日々を送ってる――芦屋あしやとの話はあるが、恥ずかしいから言えない――し、どうしても会話より沈黙の方が多い。


 今日もどちらかと言えば静かで、流れてるテレビを見て何か話題を見つけては話をする。兄さんと母さんは反応してくれるが、父さんは黙々と食べ続けて一向に話そうとしない。仕事で疲れてるのは分かるけど、こういう態度だから父さんは苦手なのだ。


 ただ、テレビでの会話にも限界がある。もう何度目かの沈黙の時に父さんが口を開いた。


健斗けんとの勉強は上手くいってるのか?」


 またいつものが始まってしまった。この先の展開は予想できるが平静を装い、何事もなかったかのようにお茶を飲む。


「普通だよ。塾はちゃんと行ってるし、自習もやってる。医学部に受かるかはわかんないけど」

「そうか。まぁ厳しい世界だからな」

「兄さんは受かったけどね」

「え、そこで俺を出すか」


 まさか話題に出されると思ってなかったのか、兄さんが反応に困った表情を見せる。


「俺の場合はなんつーか、色々とテストの運が良かったからな。得意な問題ばっか出てきたし」

「それでも受かったんだから兄さんの実力だよ。模試は最後A判定だったんでしょ?」

「そう言われたら何も言えねーけどさ。つうか健斗けんとも医学部行きたいんだな」

「……僕の頭じゃ無理って言いたいの?」


 兄さんを睨むと誤解だと手を横に振られる。


「違う違う。なんていうか、健斗けんとは俺と違って全然医療系の漫画やドラマとか見ないからさ。興味ないと思ってたよ」

「そりゃあ確かに見ないけど、この家にいたら目指すべきでしょ」


 そのために子供の頃から塾に通わされていたんだし、今だって勉強に必死なのだ。


「ふん。そんな中途半端な気持ちで医者になれるわけなかろう」


 食事の終えた父さんの言葉が耳に届く。しかし怒りは湧いてこない。


 事実だから。今の僕じゃ医学部に受からない。それを父さんは容赦なく伝えてくる。そういうところが苦手なのだ。


 父さんが一足先にリビングを出る。明日の仕事のために早く休みたいのだろう。


「まったく、父さんは健人けんとに厳しすぎるよ。あんまり気にすんなよ」


 兄さんが僕に一言かけ、重くなった空気から逃げるように席を立つ。僕の記憶が正しかったら、父さんは兄さんにあんな言葉をかけてない。やっぱりそれほど僕に医学部は厳しいのだろう。残っているお茶を全て飲み、立ち上がる。


「ねぇ、健人けんとは本当に医学部に行きたいの?」


 そこで母さんが僕を見て言った。今日は母さんも僕に説教か。たまには子供の心に寄り添ってほしい。


「もちろん。ずっと目指してたんだし」

「それが本当に健人けんとのしたいことなの?」

「何さ、いきなり」


 珍しく話を続ける母さんに違和感を覚えた。いつもは「勉強も程々に」なんて耳にタコが出来るほど同じような言葉しか言わないのに。


「じゃあ言い方を変えるけど、他の学部には興味ないの?」

「それは……」


 考えたことはあった。商学部や経済学部について話す友達は楽しそうだったし、芦屋あしやが話す学部も食事やトレーニングなどアスリートを目指す者、支える者が知っておくべきことを学ぶようで、興味が湧いたのは事実だ。


「お母さんは健斗けんとが心から行きたい大学に行ってほしいの。国立でもいいし、私学でもいい。もっと言うなら医療関係に携わらなくてもいいのよ。お父さんだって不器用なだけで、それを望んでる」

「なんだよ、それ」


 違うだろ、それは。父さんがそんなこと思うはずがない。子供の頃から俺と兄さんに医者になってほしいからと塾に通わせて、他の夢を諦めさせて。


「嘘だよ」

「嘘じゃない。私だって……」

「――だったら今までの言葉は何だったんだよっ!」


 机に右手の拳を叩きつけ、食器が揺れる。そこで自分がやった行いに気付いた。


「ごめんなさい……」


 そっとリビングを出て自分の部屋に向かう。そのまま倒れるようにベッドへ体を預け、拳を布団に突き立てた。


「いってぇ……」


 さっきから右手が鈍く痛む。右手が熱い。


 まさか怒りに身を任せるとは思いもしなかった。高校生にもなって、自分はまだまだ子供だ。恥ずかしいし、明日から顔が合わせづらい。


 こんなんだから自分が嫌になる。

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