第5話
放課後、僕は図書室で共通テストの過去問を説いていた。テスト期間に入らなければ、ここは静かなので塾までの自習にちょうどいい。たまに運動部の声が微かに聞こえるが勉強の邪魔にはならないし、校内はスマホが禁止なので家以上に集中できる。
「ふぅ……」
計測していた時間が過ぎるとシャーペンを起き、背筋を伸ばす。昨日は変に走りすぎたせいか全身が重い。この後の塾で居眠りしないように注意しないとな。
一休みがてら窓へ視線を移す。ここから見えるグラウンドでは、今日も運動部が練習に励んでいた。部活は地獄だと友人の一人から話は聞くが、中学時代にある部活の経験と傍目から見ても楽しそうである。
「……あれって……」
赤茶色のトラック上を駆ける人影。他の追随を許さず、それでいて前方にいる人たちを次々と抜き去っている。そんな走りをする人物など、一人しか浮かばなかった。
その姿を、もっと近くで見たいと思ってしまった。
急いで荷物を片付ける。廊下を走り、昇降口で靴を素早く履き終えてグラウンドへ。野球部、サッカー部などの基礎練などに目も暮れず、大きな楕円を描いたフィールドで目当ての選手を探す。
……見つけた。
トラックを走る速度が一人だけ群を抜いている女子生徒。予想通り走っていたのは
昨日の笑顔を思い出す。好きという結果は同じでも、僕の逃げのランニングとは大違いだ。
「そろそろ行くか」
この後に塾があるので長居するわけにもいかない。それにしても今日は新鮮なものを見られた。夜に走るときの
「あれ?
名指しで呼ばれ、グラウンドの方に振り返る。そこで水筒を片手に持っている
無尽蔵な彼女の体力は尽きることがあるのだろうか。スポーツ推薦を目指してる人はレベルが違う。
「わざわざ声をかけてくるなんて珍しいな。なんかいいことでもあったか?」
「あ、わかる? えへへ。実はね~」
後ろで結ばれたポニーテールが左右に揺れていて微笑ましい。天真爛漫な笑顔を浮かべる
「今日、自己ベストを更新したんだよ。もう数カ月ぶりだったから嬉しくて」
「良かったな。日頃の練習の賜物じゃないか」
「あはは。大会前に更新できてよかったよ。これを機にお父さん説得してみせる!
「おう」
軽く話して芦屋と別れる。不思議と足取りは軽い。
それにしても、やっぱり
きっと、芦屋みたいに何か一つのことを懸命に取り組める人が将来成功するんだ。数年経てば今みたいに気軽に話せるような相手ではなくなってるかもしれない。
それは何だか、凄く寂しい気がした。
***
「ここで注意したいのが……」
塾講師がホワイトボードに書き込み、ノートの上でシャーペンを走らせる。塾講師の声、ペンの色を切り替え、紙を捲り、擦れる音だけで構成される世界。ここの張り詰めた空気には未だに慣れない。
それでもこの時間を無駄に過ごすわけにはいかないので、僕も一言塾講師の言葉を一句逃さないように意識しながら授業に取り組む。
「っと、今日はここまで。ちゃんと復習やっとけよ」
時計の短針が十を指し、やっとこの空間から解放された。すぐに席から立ち上がり部屋を後にする。そこでやっと緊張の糸が途切れ、深い息を吐いた。強張った上体を伸ばしながら駅までの道のりを歩き、骨をポキポキと鳴らす。
受験生になったせいか、どんどん塾の空気が重くなっている気がした。休憩時間の話し声も聞こえなくなったし、席を立つ人も数人程度。ほぼ全員が自習をしている状態は果たして休憩時間と呼んでもいいのだろうか。そんな場所にあと半年以上も……。
まだ時間があることを喜んでいいのか、終わらない苦しみに嘆けばいいのか。考えるだけで鬱屈とした思いに悩まされる。いや、僕はまだ学力が足りないから時間があることに喜ぶべきなんだけどさ。どうにも心が付いてきてくれない。
こんな調子で本当に医学部を合格できるのだろうか。
駅の改札を潜り抜け、ちょうど来てくれた電車に乗り込む。それと同時に家族のグループチャットへ最寄り駅に着く時間を送った。両親が夜帰れる日は家族でご飯を食べる。それが数少ない長谷家のルールだった。そのせいで兄さんが高校受験で忙しい時、中学の部活で疲れた僕は腹を空かして兄さんを待ったものだ。
まぁ、おかげで忙しいながらも家族の時間を作れるのだが。父さんと話すのは……少し苦手だけど。
席に座り窓の外を眺める。ここから見える夜の街は未だに明るい。まだ会社で残業をしているのか、夜間営業のお店が多い証明か、はたまた家庭の明るさなのか。
僕も数年後、あの光の中で働いているのかもしれないな。
医療関係の仕事は忙しいと聞くし、実際父さんと母さんは忙しそうなのでこの未来予想は案外当たっているのかもしれない。……まぁ、僕が医学部受験に成功したらだけど。
最寄り駅で降り、駐輪場の自転車を回収する。今日も十一時前には帰られるだろう。風を切りながら家路を辿る。心地いい春の夜風で頬が冷え、眠気が消え失せた。
……そういえば、今は
ふと彼女のことが思い浮かぶ。流石に女の子一人は危険だから家にいるのだろうか。それとも他に男でも連れて走ってるのだろうか。
「……公園、行ってみるか」
進路を変えると強くペダルを踏み込んだ。
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