第3話

「あ、長谷はせくん!」


 夜のランニングを始めて早数分。急に後ろから明るい声をかけられた。一昨日も聞いた声。聞き違えるわけもなく、疲れてないのに鼓動が早くなる。


「よ、最近よく会うな」

「そうだね。とは言っても、私がここを走り始めたからだろうけど。昨日はなんでいなかったの?」

「塾行ってる時は来ないって話さなかったか?」

「あ~、そんな話もしたような……」


 足を止めた僕の隣に芦屋あしやが立った。昨日と同じ甘い匂いが鼻腔をくすぐり、妙に緊張してしまう。先程まで走っていたのか、汗で光る頬や首元にリストバンドが当てていた。その姿がどこか艶めかしくて、つい視線が吸い寄せられる。


「えっと、何かおかしい?」

「あ、いや……いつもはどこで走ってたのかなって思って」

「どこをって決まったところはないかな。家を出て気の赴くままに走る感じ。就寝前の適度な運動兼、気分転換だよ」


 「うーん」という声を漏らして芦屋あしやが体を伸ばす。美少女というのは一挙手一投足が華やかに見えてしまうらしい。僕が普段行う動作でも、芦屋あしやがやれば可愛らしかった。


 そんな僕の視線には気付かず、芦屋あしやが周囲を見渡す。


「でもこの公園には普段から通いたくなったかな。人通りが少なくて走りやすいし」

「そっか。けど残念。少しずつ利用者が増えてるよ」

「あー確かにいたね。でもこれぐらいなら気にしないって。ほら、早く走ろ!」


 さっと前に出た芦屋あしやが走り出す。僕もそのスピードに合わせて足を動かした。次々と後ろへ流れていく景色。彼女の背中から離れないように走る……が。


「は、速すぎ……」


 流石、陸上部と感心している暇なんてなかった。まだ走り始めだから付いていけるが、このペースでずっと走り続けられる自信はない。それでもひたすらに足に力を込め続ける。


 もう何周したか覚えていなかった。鼓動が耳に響く。横腹が痛んでくると意識していた呼吸法も乱れ、腕を振るのも疲れてきた。いつもより早く思考が白く染まっていく。しかし芦屋あしやはスピードを落とさない。彼女はずっと一定のペースで走ってるはずなのに距離がどんどん離されていった。僕には小さくなり続ける芦屋の背中をただ見つめ、微力ながら走ることしかできない。


「ありゃ?」


 異変を察知したであろう芦屋あしやが立ち止まって振り返る。


 やっと、止まってくれた。


 荒い口呼吸をしながらも、よろめきながら芦屋あしやとの距離を縮める。その途中でベンチが置かれていることに気が付いた。すると吸い寄せられるように足がベンチへ近づき、欲望のままその上を仰向けに寝転がる。


「ちょちょっ⁉ 大丈夫⁉」


 返事をしたくても声が上がらない。呼吸するたびに胸が上下し、心臓が自己主張するように激しく動いていた。こんな全力で走ったのはいつぶりだろうか。体育の持久走も手を抜いていたし、思い返してみたらこんな状態になった記憶がない。


「あー、えっと、とりあえず立ち上がって! 急に止まったら体に悪いから! ほら、歩くよ!」


 右手を引っ張られてなんとか立ち上がる。そのまま手を繋いだまま足を動かした。


 あー……何やってるんだろ。


 歩き続けるうちに冷静な思考が戻ってくる。


 走って、倒れて、引っ張られながら歩いて。本当に情けない。今思うとこうやって人と手を繋いだのは小学校以来だろうか。男とは違う、小さくて柔らかい芦屋あしやの手。じんわりと優しい温もりが感じられる。


 ……手汗かいてないよな? 握る手の力ってもっと優しくしたほうがいい?


「水分もちょっとずつ飲んで。一気に飲んだらダメだよ」

「あ、あぁ……」


 言われるがまま、ウェストポーチに入れておいた水筒を左手で開ける。ボタンで開くタイプの水筒で助かった。熱い体に冷たいものが入ってくる快感を味わっていると芦屋あしやと目が合う。


「どうした?」

「器用に水筒の蓋開けるなぁって思って」

「右手がこんな状態だし」


 右手を少し動かして状況を説明する。そこでやっと気付いたのか、右手の温もりが消え去った。


「あ、これは違くて、握りたかったからとかじゃ……」


 両手を前で振りながら否定される。そこまで否定されると違う意味で胸が痛くなるが、出会って数日でそんな展開になるわけもない。


「分かってる。心配してくれたんだろ。感謝してるよ」

「そうよ! だいたいなんで倒れるの!」


 そうだよな。女の子を差し置いて先にギブアップするなんて、男としてどうかと思う。現状を理解すればするほど、自分が恰好悪くて苦笑が漏れた。


芦屋あしやが速くてな。そのスピードに付いていくのに必死だったんだ。いつもこんな感じなのか?」

「うん。だって遅い私だったらみんな嫌だろうし、最近は……」


 少しずつ声量が小さくなっていく。


 遅い芦屋あしやか。陸上部で結果を残し、遅いなんて言葉は似合わない女の子。俺はそんなこと思わないが、陸上部員や学校側が芦屋あしやに期待しているからこそ、そういうふうに考えてしまうのかもしれない。


「今は競技じゃないんだし、速く走る必要はないと思うけどな」

「そうだけど、やっぱり走るからには速くないと」

「だったら走るのが遅い僕はどうなるんだよ」


 未だに体力が回復してない僕を見せつけるように胸へ親指を立てる。どこにも疲れが見えない芦屋あしやと違い、僕の胸は呼吸するごとに上下へ動いていた。


「それと夜のランニングは気分転換なんだろ?」

「そう……だね」

芦屋あしやは部活で疲れてると思うし、夜まで頑張ると体がもたないぞ。というか俺が付いていけないから手加減してほしい」


 最後まで格好悪いなと思いつつ頬を指で掻く。そっと芦屋あしやの方を見ると目があった。一度視線を逸らされるが再び見合うと口が開かれる。


「うん。じゃあその……また一緒に走ってくれる?」


 こうやって人を誘うのは初めてなのか、緊張しているのがひしひしと伝わってくる。そんな姿が幼く見えて、つい口元が緩んだ。


「もう! なんで笑うのよ」

「悪い悪い。芦屋あしやが可愛くてつい」

「か、可愛いなんて……」


 あれ? もしかして照れてる?


 外見のよい芦屋あしやのことだから言われ慣れてると思っていた。しかし耳まで赤くする彼女からはその様子が見られない。そんなに動揺されたら反応に困ってしまう。


「と、とりあえず走るか?」

「うん」

「さっきみたいに本気で走るないでくれよ」

「分かってるって。ちゃんとペース合わせるから」


 再びいつもと同じルートを走る。先程とは違う無理のない速度。静かな夜道だからか、芦屋あしやの息遣いや足音が鮮明に聞こえた。


「ねぇ、長谷はせくんはなんで走ってるの?」

「単に息抜きだよ。運動はストレス解消にちょうどいいし」

「へぇ。じゃあ他のスポーツをしてたかもしれないんだ」

「そうだな。夢中になれるものならなんでも」


 どうせ家にいても勉強しかしない。しかし根を詰めるのは効率が悪いし、そもそも僕はこういうところで気分転換しないと受験勉強には耐えられなかった。僕にとってランニングは現実逃避、今ある将来への不安を忘れるための手段だ。当然、話すことができる今のペースだと思考が白く染まることはないだろう。


 それでも……。


長谷はせくんは……」


 芦屋あしやから質問され、答え、話を広げる。


 こういうのも悪くない。本当に楽しそうな笑顔の芦屋あしやを横目に今日のランニングを満喫した。

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