第17話――しきたり


 その日の出来事が、健吾の頭の中でよみがえってきた――


 健吾は、に呼び出された。

 SNSで、


『君の秘密ひみつを知っている。 陛下より』


 というメッセージだ。


(……陛下へいか……?)


 うわさで少しだけ耳にしたことはあった。


 暴力団や半グレなどの反社会組織と政府とのパイプ役になり、裏で暗躍あんやくする

 誰もその正体しょうたいを知る者はいないという。


 健吾けんごはそのメッセージを見た瞬間、警察のわなだと思いそのまま放置しようとした。

 しかし、自分の正体を知っているからには、やはり見過ごすわけには行かず、変装しマスクで顔を隠して、そのへと向かった。


 足を踏み入れた途端、彼の脳裏に思い出したくない過去かこが浮かび上がってきた。


 所々にブルーシートのテントが張られているばかりでなく、前回の入浴にゅうよくをいつしたかわからないような男性がベンチに寝そべっている。


 健吾は遠くから様子をうかがおうと、指定された場所とはに腰を掛けた。

 時計を見る。

 約束の時間をちょうど過ぎたばかりだ。

 丸い広間を挟んだ向かいのベンチにも、薄汚れたキャップを被った男性が無気力そうにはとえさを与えているのが見えた。


 健吾は斜め向かいにあるすべだい近くのベンチに目をった。

 『陛下』と名乗る人物が指定した場所だ。


 誰も座っていない。


 すると、何かに吃驚びっくりするようにえさにたかっていた眼前の鳩が一斉に飛び立った。

 顔を上げると、その向こうからその場の雰囲気には似つかわしくない小綺麗でタイトな灰色の上下スーツ姿で眼鏡をかけた細身の男性が近づいてくるのが見えた。


 座っていた健吾は反射的に身構え、ズボンの背後に隠していたスタンガンに手を添えた。

 黒の革靴で砂を踏みしめる音が徐々に近づいてくる。


 健吾は表情を変えまいと、必死に平静を装った。


 すると、その男性は自分のそばで止まるかと思いきや、自身の眼鏡のブリッジに手を添えながら健吾の顔を一瞥いちべつすると、目の前を素通りしていった。


「振り返るな。向かいのベンチから、


 その声がから聞こえ、健吾の動きが瞬間的に止まった。


 思わず視線を前に遣ると、向かいのベンチで鳩に餌を与えているキャップ姿の男性が目に映った。

 よく見ると、その左手に持ったスナック菓子で隠すように、右手に構えている。


「また同じ過ちを繰り返すところだったな。相手を判断するな」


 低く鋭さを感じさせる声が、健吾の背中に突き刺さる。


(……においが……ない?)


 ようやく健吾は、背後のベンチで寝そべっている男性が自分を呼び出しただと気づいた。

 その声は淀みない口調で尚も言った。


「君のうわさは聞いている。ここ数件の強盗事件は、いずれも逮捕者はゼロ。被害額は数千万単位。まだとは思えないくらい優秀な統率力とうそつりょくだ」


 バタバタと頭上をはとが舞う音が聞こえ、健吾は思わず反射的に身構えた。


「そこで、一つ質問なんだが――」


 すると、背後から健吾の真横まよこに、丁寧に折り畳まれたが置かれた。


「これまで君に指示を与えてきたのは、実はだと知ってたか?」


 その言葉に健吾の両目が思わず見開く。


「中を見ろ」


 我に返るように目をしばたたかせると、健吾は唾を呑み込みながら、そのタオルに恐る恐る手を伸ばした。

 四つ折りにされたを訳も分からず開いた瞬間、健吾の表情が途端に凍りついた。


 これは……


 だ。


 切断された付近にこびり付いている血痕は凝固し、開いた瞬間、なんとも言えぬ悪臭が健吾の嗅覚に突き刺さった。長細いそれは、中指なのか薬指なのか、今の健吾に区別する心の余裕などあるはずがなかった。


「君は既に。この世界にはというものがあってね」


 思わず喉を鳴らす健吾に対し、冷静なままの声が語り続ける。


「勝手にシマを荒らされちゃ困る。最近はSNSの発達により、気軽にでも参入できるようになってきた。ただ、は守らないと」


 日常的にあまり使われないそのに、目に見えない威圧感を感じる。


「スポーツは見るか?」


 唐突な問いに、健吾けんごが何も返せないままでいると、


「野球でもボクシングでも、まず重要なのはだ。一流選手はみんなから自分の流れを作って行く。打つだけの攻撃に夢中になってるうちは、まだだ」


 背後の人物は深く溜息をつくと、少し哀愁漂う雰囲気で言った。


「多くの民衆は皆、目先の利益にすぐに飛びつき、その後のが全く目に入らなくなる」


 健吾かれは息を震わせながら、その続きを聞いた。


「小学生でもわかる計算ができてないんだよ。利益から


 健吾けんごの反応を背後からじっくり観察しているのか、ゆっくりとを置くとその人物はまた口を開き始めた。


「住所も家族構成もばれて、結局はだ。せっかくの努力も全て水の泡となる。たぐいも」


 感情味のないその賞賛しょうさんに、健吾は全身の毛穴から冷や汗が噴き出てくるのを、はっきりと感じた。


 すると、背後からスーッとベンチをこする音を立てながら真横にがスライドされてきた。

 健吾はいぶかし気に、その大き目で地味なチェック柄のバッグをマジマジと眺めた。

 見た目では、路上生活者のにしか見えない。


「そこに入ってる」


 さらっと言いのけた言葉に、思わず健吾の両目が見開いた。


「君のだ。受け取れ」


(……報酬?)


 彼は訳が分からず、目が点になったままだ。


「使い道は自由だ。好きな車を買おうが高い服を着おうが、十分過ぎるほどのがくる」


 すると、背後のその人物は、何かを示唆しさするようにゆっくりと言い添えた。


「ただ、を果たさずに持ち逃げし、今まで多くの若者が


 淡々と語られるが、健吾の心を尚も翻弄ほんろうする。


「何でも、で手に入るものはこの世にはない。というものが絶対につきまとう。それを知らない若者が多すぎる」


 向かいのベンチに座っている男性が再びポップコーンをばらまくと、飛び立っていたはとが再び広場に舞い戻って来た。

 それらの羽音で健吾は目が覚めるように我に返るが、何も言葉ははっせないままだ。


「今この場所で断れば、。君は就活しゅうかつをしていないからわからないかもしれないが、採用前に『できません』と断るのは大いに


 さりげなく自分のを知っていることをちらつかせる言葉に、健吾は完全にその場から動けなくなった。


「一番、タブーなのが『できます』と言って、。それは一般企業でも同じこと」


 一体何の話をしているのか?

 相手の意図がまだ掴めない恐怖に為す術がなく、健吾の視線はただ宙を泳ぐばかりだった。

 すると、その人物はようやく核心に迫るように言った。


は、君が指示したことではないから見逃す。ただ、約束しろ。二度と強盗ごうとうはしないと。


 意表をついたその言葉に、健吾の頭の中はまたたに真っ白になった。

 畳み掛けるように、冷徹れいてつな声は尚も続く。


「ある家に強盗に入ってもらいたい。バッグの中は、そのだ」


 息を呑みながら、その赤と黒が交差するチェック柄のビニールバッグに目を遣った。

 ジッパーが閉まっていて、その中身を知ることはできない。

 すると、健吾の頭の中をまるで読んでいるがごとく、その声はうながした。


中身なかみを確認しろ。内容を確かめずに見切り発車するようなやからに仕事は任せられない。逆に辞めるなら、このまま置いて静かに立ち去れ。


 気づけば全身びっしょりに汗をかきながらも、今まさにこの瞬間、を迫られていることに健吾けんごはようやく気づく。

 懸命けんめいに気を持ち直すように、またゆっくりとつばを呑み込んだ。


(……このまま立ち去る? だと?)


 必死に呼吸を整えながら、彼は思った。


(ここで辞めて……俺にるってんだ?)


 すると、


「私は君の能力ちからを信じている。殿


 背後から、自身を後押しするような声が聞こえてきた。


(……殿下でんか?)


「今日から、君は私の同然だ」


 その予想だにしていなかった呼び名に、まるでしびれが取れていくように自身の中の警戒心が徐々に薄れていくのを、健吾けんごははっきりと感じた。


 気づけばを周りもはばからず開いていた。


 ややもすればさげすまれるような身窄みすぼらしい外見とは裏腹に、その中には、帯封された一万円の札束がまるで今刷り下ろしたばかりのごとく、歪みなく整然と収まっていた。


 その光景に完全に圧倒され、しばらく健吾は放心状態だったが、ようやく我を取り戻すと、引きった顔で笑みを浮かべた。


「気に入ってもらえたようだな。君の活躍かつやくに期待してる」


 ふと前方を見ると、はとえさを与えていた男性が立ち上がり向こうへと歩き出すと、それに反応するように眼前がんぜんの鳩がまた一斉に飛び立った。


 ハッと気づき、健吾は背後を振り返った。


 そのベンチにはもう誰も横たわっておらず、空席くうせきだった。

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