インク沼の令嬢

清見ヶ原遊市

インク沼の令嬢の物語


 レイラは露店に並んだ安物の石から、鮮やかな緑色の孔雀石を手に取った。


「あら、御店主、いい色の石ね」


 石を手の中で何度も転がし、色をじっくりと確認していると、若い露天商は客と見込んだのか、にまにまと笑って身を乗り出してくる。


「お嬢さん、お目が高い! その孔雀石は……」

「ああ、口上は結構よ。このイギル王国でこれだけの大きさの孔雀石が採れるのは、西のマルグ鉱山くらいでしょう。違うかしら?」

「あ、ああ……その通りで……」

「それよりも、これと同じ品質の石はもうないの? 同じくらいの質のものなら、全部買いたいのだけれど」

「は、はい!」

「お嬢様、またそのような無駄遣いを……!」


 レイラの後ろで見守るように控えていた若い男が口を挟んでくる。

 だが、レイラはさっと振り向くと、眼鏡をくっと上げながら


「何か文句でも」


と冷めた声を叩き付けた。


「も……文句ではございません、が、一昨日も同じような石を買われたばかりではありませんか……」

「おかしいわね、妹達はこれの何百倍もするような値段の石を買っていたと思うのだけど。それに比べたら、小遣い程度の額だと思わない?」

「妹様方は、宝飾品として……」

「私だって必要だから買うのよ?」

「用途が! 違うではありませんか!」

「うるさい」


 ぴしゃりとはねつけると、レイラはくるりと露天商に向き直る。

 そして、意識して笑顔を作り、


「御店主。同じ物を、あるだけ」


としっかりと言い聞かせるように注文を繰り返した。

 露天商にとっては、優先すべきは金を出してくれる人である。

 すぐにレイラの両手で余るほどの、美しい緑色の孔雀石が並んでいった。


「これで全部ですが」

「ありがとう。おいくら?」

「ええと……そうですね、全部お買い上げいただくことですし、ちょっとばかし勉強させてもらいましょう。金貨五枚、いかがです?」

「安いわね。いただきましょう」

 

 レイラはすぐに金貨五枚を渡し、持っていた麻袋に孔雀石をざらざらと突っ込んでいく。


「貴方、ここにはいつから?」


 麻袋に石を突っ込む片手間に尋ねられた露天商は、つい


「え、ああ、一昨日からですが」


と正直に答えていた。


「そう。いい伝手をお持ちなのね。また来るわ」


 レイラは麻袋の口を締めると、足早に露店の前から立ち去る。

 結局はレイラの買い物を見守っているしかなかった男も、その後を追いかけていった。


「……何だったんだ、あのお嬢さんは」


 露天商が呆然と後ろ姿を見送っていると、隣りで果物を売っていた恰幅の良い女が


「あの子はこの辺の名物だよ」


と話しかけてくる。


「名物?」

「ああ、よくこの辺りを歩き回っては、石ばかり買っていくのさ。それも、色はついてるけど、宝石と言えるか言えないか微妙な石ばかりをねぇ。あたしらは、あの子はきっと画家の卵辺りで、石は絵の具にしてるんだと見てるよ」


 ちょうどいい話相手ができたとばかりに、女はぺらぺらと喋っている。

 その声は、レイラにも届いていた。


「ふふ、惜しいわね」

「笑っている場合ではありませんよ! 顔を覚えられているじゃありませんか!」

「ヒューゴは本当に心配性ね。大丈夫よ」


 レイラは辻馬車を止めると、ヒューゴと共に乗り込む。

 そして、露店の並ぶ地区から高級な仕立て屋やレストランの並ぶ地区に入ったところで馬車を降りた。

 目的は次の買い物、ではなく、路地を突っ切ることである。

 高級な物を扱う地区に集まる人間は、社会的身分もそれなりに高い。

 だから、護衛付きの女性が路地に入ってもゴロツキに絡まれるなどということもなく、レイラは迷いなくすたすたと歩き続ける。

 歩きながら、自分の髪を掴む。

 すると、ずるりと茶色の髪が落ち、中から黒髪が現れた。

 レイラは更に顔の印象を変える眼鏡も外し、ケースに仕舞う。

 だが、恰好は町娘のシンプルな装いのままで、茶髪のカツラと眼鏡を取った後の顔とはどこかちぐはぐだった。


 二人は路地を抜けると、そこに停めてあった馬車に乗り込む。

 見た目は辻馬車よりは高級だが飾り気のない、しかし座席はふんわりと身体を受け止めるように作られた馬車は、レイラの


「出して」


の一言でゆっくりと走り出した。

 やがて、イギル国王の宮殿の周辺、いわゆる貴族達のタウンハウスが並ぶ地区に入っていく。

 どの邸宅にも、身分や資産によって大小はあるものの、庭が隣接している。

 この国で最も地価の高い場所に庭付きの邸宅を代々所有しているのは、貴族達の一種のステイタスとなっていた。

 馬車は、その中でもひときわ広い庭を持つ侯爵家、アスキス家のタウンハウスの門を潜っていく。

 そして馬車寄せで止まると、すぐに邸宅の中からメイドの少女が走り出てきた。

少女は馬車の扉を開ける。


「おかえりなさいませ、レイラお嬢様」

「ただいま、シャーロット」

「あの、旦那様が……」

「お父様が、どうかしたの?」

「レイラお嬢様がお戻りになられたら、書斎に来るように伝えよと……」

「ああ、そう」


 レイラは、わざと大きなため息をつく。


「お嬢様、その態度はまずいですって」

「いいのよヒューゴ、どうせいつものあれだから」

「いつもの、じゃなくて……少しは旦那様の気持ちを……」

「ヒューゴ。貴方、誰の護衛なの?」

「そ、それは……お嬢様ですが……」

「だったら、お父様の肩を持つことはやめるのね。お父様付きの護衛に戻してもらっても構わなくてよ」


 レイラはシャーロットの手を借りて馬車を降りると、まっすぐにアスキス侯爵の書斎に向かおうとする。

 シャーロットは慌てて


「お嬢様、お着替えを!」


と追いすがってきた。

 だが、レイラは


「いいわよ、この格好で言っても叱られる、遅くても叱られるのだから。それなら、さっさと終わらせた方が賢明でしょ」


と足を止めようとしない。

 書斎に向かう道すがら、使用人達が自分を見てひそひそと話しているのには気付いている。

 だが、そんなものにいちいち気を散らしていられない。

 レイラは書斎の扉の前で、出歩いたために少し乱れた髪を手櫛で整えてから、軽くノックをした。


「入れ」

「……失礼いたします」


 しなやかな身のこなしで、レイラは書斎に入る。

 そして、背筋を美しく伸ばして扉の前で立っていると、大きな机を挟んで、レイラの父、アスキス侯爵が鋭い視線を投げかけてきた。

 まるで、ではなく確実に品定めをしている眼差しに、内心うんざりする。

 アスキス侯爵の青い瞳で見据えられて泣かない子供はいない、と言われるほど、レイラの父は迫力がある。

 痩せた体躯に見合わないほどの威圧感は、子供どころか大臣や、ときには国王さえ圧倒すると聞いているが、幼い頃からその視線に相対してきたレイラには、怖いものではない。

 レイラも同じくらい迫力がある、などとシャーロットは言うが、目の青いのが遺伝しているだけだろうとレイラは思っていた。

 さて、この品定めはいつまで続くのかと思っていると、アスキス侯爵の指がかつんと机を叩いた。


「また、そのような格好で街に出たのか」

「ええ」

「アスキス侯爵の、継承権第一位、将来のアスキス女侯爵であるお前が、町娘のような格好で」

「いかにも貴族の家の者です、なんて格好で街に出かける方が危ないと思いますけれど」


 レイラが言い返した瞬間、パチ、パチ、とアスキス侯爵の身体から電流のような青白い光が弾け始める。

 怒りで魔力のコントロールがきかなくなっているのだ。

 だが、それを止めたくても、レイラは、父に、いや、家族の誰にも、魔法で勝つことができない。

 だからアスキス侯爵自身が心を落ち着けるのを待つばかりだった。


「……分かっていて話を逸らすのは、いい趣味とは言えんな、レイラ」

「仰りたいことを誤魔化すのも、同じくらい悪趣味ではありませんか、お父様」


 放電しているような魔力の光が更に強くなる。

 だが、レイラは何も起きていないかのようににっこりと笑う。すると、レイラの目の前を光が落ちていき、床に錐を立てたような穴が空いた。


「ならば、お前の望むように話をしてやろう。いつまで、そのくだらん趣味を続けるつもりだ」

「くだらない趣味、とはインク作りのことを仰ってますの?」

「それ以外に何がある! どうせその袋の中も、クズ石が入っているのだろう!」

「私にとっては宝の山ですよ」

「何が宝の山だ! お前はもう二十歳だぞ! 次期侯爵として、すべきことがあるのは分かっているはずだ!」

「婿を取れ、というお話でしたら、私とてぼんやりしているわけではございませんわ。夜会にもきちんと顔を出しているのは、ご存知のはずです。お父様が文句を言うべきなのは、アイヴィとパトリシア……いえ、違いますわね、彼女達を教育できなかった家庭教師達、ひいてはそんな方を連れてきたお父様自身です」

「お前はまたそのような御託を……!」

「だって、私は、外ではインクの話など一切しておりませんもの。わざわざ言い触らして、アスキス家の長女はおかしい、なんて敬遠されるようにしているのは、アイヴィとパトリシアです。私のインク作りが恥だと仰るのでしたら、そんな恥を言い触らさないような慎みを持たせられなかったことも同じく恥でしょう」


 レイラの顔から、作り物の笑みが消える。

 そうすると、父娘の顔ははっきりと血のつながりが感じられた。

 しばらく二人は黙りこくって睨み合っていたが、先に動いたのはアスキス侯爵だった。


「……レイラ。私は、お前の気の強さも買っている。だが、そんなに我が強く、アスキス侯爵に逆らって、廃嫡されるとは思わんのか」

「インク作りが趣味、というだけで?」


 ふっ、とレイラは笑う。


「今からあの子達にアスキス家の歴史を叩き込むおつもりでしたら、止めませんわ」


 さほど質の良くない生地でできた長いスカートをつまみ、完璧な礼をして書斎を後にする。

 閉めた扉の向こうで、バン、と何か爆発したような音がしたが、気にすることなく自室に戻る。

 自室の中にある、もう一つの扉を開けると、そこはレイラの小さなインク工房だった。

 様々な色の鉱物や植物、貝殻に虫といった色の原料や、色を取り出すための鉄、インクとして溶かすための精製水、保存用の瓶、などなど、様々な物が大きな棚に収められ、顔料や染料を作り、調合するための大きなテーブルが部屋の真ん中に鎮座している。

 レイラは棚からエプロン、薄い布の手袋、口元を覆うスカーフを用意し、まずエプロンだけを着けた。

 そして瓶詰にして密封していた精製水を取り出し、盥にどばどばと注いでいく。

 それから盥に麻袋の中身、孔雀石を入れて、水を軽くかき混ぜた。

 汚れや一緒にくっついてきた砂などが落ちるまでしばらくこのままにしようと、盥を床に置く。

 今日買った孔雀石は、緑色のインクを作る原料になるが、洗って乾かすため、今日は使わない。


「さて、今日は、これと……これと……」


 レイラは手袋をすると、棚からそれぞれ濃さの違う赤い石を数種類、そして薪を何本か取り出す。

 まずは薪を炭にするため、レイラが抱えるのに苦労するほどの大きさの缶に全て放り込む。

 缶の蓋を閉め、火にかけようと運んでいると、荒っぽい音を立てて工房の扉が開いた。


「お姉様!」


 またうるさいのが来た、とレイラは溜息をつく。

 工房に似合わない、日常着と言うにも華やかな装いの妹は、腰に手を当てて、いかにも蔑んだ顔でレイラを見ている。


「……アイヴィ、行儀がなっていないわよ」

「そんな小汚い格好のお姉様に行儀を言われたくないわ。それよりも、またお父様に叱られたんでしょ?」

「わざわざそんなことを言いに来たのなら、出ていってくれない? 今、忙しいのよ」

「まあ、インク作りと妹と、どっちが大事なの?」

「この瞬間はインク作りよ。作業中なの、見て分からない?」


 木の入った缶を揺らして、わざと音を立てる。

 アイヴィは更に憎々しげにレイラを睨むと


「そんなにインク作りがしたいのなら、次期アスキス侯爵なんてやめて、この家を出たらいかがかしら」


と言い放つ。


「そして、アイヴィが次期侯爵になる、とでも? 無理よ、アイヴィでは。パトリシアでもね」

「お姉様にできることが、私達にできないわけないでしょ!」


 ひゅっ、とレイラの顔のすぐ横を、金色の光が駆け抜ける。

 それはレイラの髪の一房を焦がし、工房の壁に穴を開けた。

 レイラは壁の穴をちらりと見てまた溜息をつく。


「魔力の強さを貴族の証としているような有様で、侯爵が務まると?」

「自分がろくな魔法を使えないからって、負け惜しみはよしたら?」


 お前は自分の父親が魔法だけで務めを果たしているように見えるのか、と言いたいのを、ぐっと堪える。

 ここで更に怒らせて魔力を暴走させられでもしたら、大切に集めてきたインクの材料がめちゃくちゃになってしまう。


「結婚の申し込みもない、魔力も弱い、インク作りなんて平民のようなことを喜んで、生まれ順だけで後継とされているのを恥じればよろしいのに」

「……それ、一昨日も聞いたわ」


 堪えよう、と思った次の瞬間につい突っ込んでしまう。

 しまった要らないことを言ったと後悔しても遅く、アイヴィは


「誰が言わせていると……!」



とずかずかと部屋に入り込み、テーブルを回り込んでこようとする。


「あ……」


 レイラが止める間もなく、アイヴィは床に置いてある盥に足を突っ込んだ。


「きゃああっ!」

「あ、暴れたら……」


 ぐっしょりと濡れた足をばたつかせて、踵が盥の縁を引っ掛ける。

 盥はひっくり返り、水がアイヴィのドレスのスカート部分を濡らし、孔雀石ががらがらと床に転がっていく。

 アイヴィは一瞬、呆然としていたが、拳を握ってぶるぶると震え出した。


「お姉様……!」


 バリバリと雷のような音を立てて、アイヴィの魔力が彼女を中心に暴れている。

 結局こうなるのかと思えば、気を遣って口を閉ざす気も失せる。

 レイラは扉の向こうを見ると、


「ヒューゴ、早く入りなさい」


と声を掛けた。


「ちょっと、そこで呼びます……?」

「ここで呼ばないでいつ呼ぶのよ。お前は私の護衛でしょう。アイヴィを、お部屋までお送りして」

「お姉様、まだお話はっ」

「そんなに足元を濡らしたままでは、風邪を引くわよ。話は後で聞くから、さっさと着替えなさい」


 さあさあアイヴィお嬢様、とヒューゴはアイヴィを緩やかに拘束して退室を促す。


「ちょっと、護衛騎士風情が……!」

「俺はアスキス侯爵に雇われていて、レイラお嬢様の護衛ですからねぇ。レイラお嬢様の命令が最優先、でして」


 まだ何か喚いているアイヴィと宥めているヒューゴの声が、段々と遠ざかっていく。

 レイラは工房の扉を閉ざすと、まずは水を拭いて孔雀石を洗うところからやり直さなくてはと動き始めた。



2


「ふっ……く……、くっ、ふ、ふふ……!」


 レイラの話を聞いていた女性が、鮮やかな赤い髪を揺らして俯く。

 堪え切れていない笑い声が聞こえて、レイラは


「スカーレット王女、笑うのならもう思いっきり笑ってくださいませ」


と諦めを混ぜて告げた。


「ならば遠慮なく……ふっ、ははははは! お主の家は相変わらず笑えるのう!」


 あまりにも豪快に、朗らかに、レイラの前で笑っているのは、この国の第一王女、スカーレットである。

 スカーレットの名が示す通り、彼女は髪だけではなく瞳も赤かった。

 この国の王族は、大抵紅の目を持つが、髪までも真紅と言ってよいほどに赤いのは彼女くらいだ。

 黒々として重い印象ばかり与える自分の髪に比べて、その炎のような鮮やかさにレイラは昔から憧れている。

 そんな王女と、レイラは今、宮殿の中庭でお茶を楽しんで、いや、一方的に家庭事情を喋らされ、大笑いされていた。


「はあ……はあ、笑った笑った」


 く、く、とまだ収まりきらない笑いを漏らしつつ、スカーレットは紅茶の入ったカップを優雅な手付きで口元に運ぶ。

 大口を開けて笑うような豪快さと高度な教育を受けた振る舞いが同居する違和感はそのままスカーレットの魅力だった。色々と喋らされたというのに、レイラもつい笑ってしまう。

 だが、スカーレットはカップをソーサーに置くと、今度は悩まし気にレイラを見る。


「アスキス侯爵が耄碌するのは、まだ早いと思うのだがな。自分の娘が産業を作ろうとしておるのに、怒鳴りつける馬鹿がどこにいる」

「まあ……産業を作るというよりは、まるきり私自身の趣味ですから」

「そうなのか?」

「えぇ。スカーレット王女の二十歳のお誕生日に、インクを差し上げたいのです」

「わたくしに?」

「……王女は、覚えてらっしゃらないかもしれませんが」


 この国は、貴族階級までは長子相続が認められているが、王族は男子の相続と定められている。

 そのため、スカーレットは長子だが、皇太子は弟のオリヴァーとなっている。

 皇太子には専用の紋章があり、国内、国外で皇太子名で出される文書にはそれを使う決まりがあった。

 幼いスカーレットは、オリヴァーが紋章を与えられるのを見て祝福する一方で、レイラに、レイラだけには、少し不服そうな顔をして。


「自分だけの紋章が羨ましい、と仰っておられましたから」

「だからインクを……?」

「最初は、我が家の古い本を見て、インクがどうしてこんな色になっているのかと不思議に思っただけだったのですけれど。自分で作るようになってすぐに、これなら、王女のために世界で一つの物が作れるかもしれないと気付いて、研究に熱が入ったのは確かですね」


 レイラはそう言いながら、すっと右手を挙げる。

 レイラの後ろに控えていたシャーロットは、持っていた箱をテーブルの上に置いた。

 箱の中には、香水瓶のような丸みのある小さな瓶と、ペン、そして何種類かの紙が入っている。


「まだ完成品ではございませんが、お試しくださいませ」

「ふむ」


 スカーレットは、箱から出された瓶を手に取る。


「ただの黒いインクに見えるが?」

「ええ、一見ただの黒いインクです。でも、使えばお分かりになりますよ」


 どうぞ、とレイラは紙を置き、ペンを差し出す。

 スカーレットはそれを受け取ると、瓶の蓋を開けて、ペン先をインクに浸した。

 そして、すうっと紙に線を引く。


「……やはり、ただの黒ではないか」

「では、今度はこちらを。王室の発行する公式文書に使うのと同じ紙です」

「ほう? 何かあるのだな?」


 レイラが新しい紙を差し出すと、スカーレットは興味深いという顔をする。

 インクを浸け直し、新しい紙にもまた線を引く。

 だが、今度は


「ん? これは……」


と自分の引いた線をじっと見つめ始めた。


「黒の中に……別の色が混じっておらぬか? 紫? いや、これは……赤? それに、何だ、線が輝いている?」


 スカーレットは、突然ソーサーからカップを下ろすと、ソーサーにインクを注ぐ。

 更に紅茶を淹れるのに使った、もう冷めてしまった湯の余りをそこに数滴たらして、ペンでぐるぐると掻き混ぜた。

 それから紙をそこに浸す。

 すると、黒いインクの中に、赤い滲みと光沢のある粒子が混じっているのがはっきりと見えた。

 スカーレットの目が、驚きで見開かれる。

 その反応に、レイラはにんまりと唇の端が上がるのを抑えきれなかった。


「なるほど、お前が作りたいのは、こういうインクなのか……面白い!」

「そうでしょう? 少し太めのペンで書けば、紙の種類や見るときの角度で、最初とは別の色が見えるのです」

「赤なのは、私のためか」

「スカーレット王女に最初の完成品を捧げるのですから、当然でしょう。その御名を示す色をどうしても入れたかったのです。王室の紋章の金……を混ぜて三色にするのは難しいので、その代わりにガラス質の光沢を出すようにしました。……ただ、問題がございまして、それを解決しないことには完成とはとても」

「どのような問題があるのだ」

「材料です」

「何が足りないと?」

「足りないわけではないのですが……このインク、別々の材料を混ぜて作っておりますが、中で何かの成分が固まってくるのか、インクとしては一ヶ月ほどしかもたないのです」

「解決策はあるのだろうな?」

「ええ、候補は三つほど」


 ぴん、と指を三本立てれば、スカーレットは


「申してみよ」


と促す。


「まず……」


とレイラが話し始めようとするが、そこに少し焦った様子のメイドが現れた。


「スカーレット王女、御歓談中失礼いたします」

「何事だ?」

「オリヴァー皇太子が、レイラ様にご挨拶をなさりたいと……」

「お、オリヴァー殿下が……!」


 レイラは、ぱっ、ぱっ、と髪の乱れを直し、黒髪を彩っている小さな花の髪飾りの位置を確かめる。

 それを愉快そうに見ていたスカーレットだったが、メイドには


「幼馴染の語らいを邪魔しようとは、無粋だとは思わんのか、あの愚弟は」


と零してみせた。


「その、ご挨拶はお茶会後にレイラ様から伺うようにお声がけしますと、殿下には申し上げたのですが……スカーレット王女とも久しぶりに気楽な場で同席なさりたいと」

「ふっ、愚弟、は撤回してやろう。わたくしの機嫌の取り方をよく知っておる。……レイラ、構わんな?」

「はい、私は異存ございません。ご挨拶させていただきたく」


 レイラが頷くと、メイドはすぐに立ち去った。

 そして、しばらくすると、彼女は一人の背が高く若い男性と、武装した護衛の男を伴って戻ってくる。

 橙色に近い茶色の髪に、スカーレットと同じ赤い瞳の彼が、この国の皇太子、オリヴァーであった。

 レイラはすっと席を立つと、軽やかに一礼する。


「ああ、気楽にしてください、レイラ姉様。お久しぶりですね」

「はい、お目にかかれて光栄でございます、オリヴァー殿下」

「またそんな畏まった話し方を……昔みたいにしてくださいよ。ここには僕達と、口の堅いメイド達しかおりませんから」

「いけません。殿下こそ、レイラ姉様も、その丁寧なお言葉もおやめください。私は未来の臣下でございます」

「……レイラ姉様の頑固者」

「その御言葉、殿下にお返しいたします」


 ぴり、と二人が睨み合う。

 それを止めたのは、


「オリヴァー。いつまでも突っ立っていないで、座ったらどうだ。レイラが座れぬではないか」


というスカーレットの鶴の一声だった。


「ああ、そうですね、姉上」


 オリヴァーが椅子に腰を下ろしたのを見て、レイラも元の通りに座る。

 オリヴァーは紅茶が供されるのも待たず、スカーレットの前に置かれたままの紙とインクに興味を示した。


「レイラ姉……いえ、レイラ嬢。これは、貴方の作ったインクですか?」

「え、どうして私だと……」

「夜会でアイヴィ嬢とパトリシア嬢が長女の変わった趣味を触れ回っているのは、めぐりめぐって僕まで届いてるんですよ」

「それは……お耳汚しを……」


 レイラは深々と頭を下げる。

 何というか、情けないの一言である。

 

「ああ、違いますからね、苦情を言いに来たわけではありません。僕は、レイラ嬢のインク作りの話を聞きたいんです」

「そういえば、話の途中であったな、レイラ。このインクを長く持たせるために、どんな手を考えているのだ」


 姉弟に促されて、レイラは、はい、と話に戻る。


「光沢の成分は、これ以上のものがないと断言できます。中身は秘密ですが、他のものではここまで輝きが出ませんから。そうなると、調整するべきなのは、黒のインクか、赤のインク、もしくはその両方です」


 改めて三本の指を出して、レイラの説明が続く。


「まず、赤のインクを変えること。でも、これは却下です。この色はスカーレット王女に最も相応しい色をと私が材料から選び抜いた色ですから。ですから、次の案にいきます。黒のインクを変えること。これは幾つか候補を見繕っておりますので、後は集めるだけです。それから、溶剤を変えること」

「溶剤とは何です?」

「インクの色を作る材料は、元から液体となっているわけではございません。岩石を粉末にしたり、植物や貝を乾かして粉末にして、それを特殊な液体に溶かすとインクとして使えるようになります。その液体を、溶剤と呼ぶのです」

「普通の水ではいけないのか」

「ええ、普通の水ですと、材料を入れても沈んでしまったりするだけでインクとして使うことはできません。でも、溶剤に入れるとそういったことは起こらないのです。ただ、今使っている溶剤に含まれている成分のうちの何かが、黒のインクと赤のインクを強く結び付けて、固めてしまうようで……」


 ふう、と吐息を漏らしながら、レイラは散々失敗した実験のことを思い出した。

 様々な溶剤を試し、何とか一ヶ月は持つようになったが、スカーレット王女に献上するにはその程度の長さではいけない。

 少なくとも一年程度は、机の上に置きっ放しにされていたとしても使えるようでなくては。


「他にも一つ、奥の手はございますが、これは使えませんし……」

「何故だ?」

「私に何かあったら、レシピとして残せない方法だからです。スカーレット王女にずっと献上し続けたいのに、レシピにできないのは意味がございませんよ」

「ふむ……その奥の手には見当がついたが、ではどうするのだ? わたくしの誕生日は再来週だ。贈り物の献上も、その祝宴の日に行なわれる。間に合うのか?」


 スカーレットに問いかけられて、レイラは目元に力を入れるような心持ちで、スカーレットを見た。


「間に合います。……いいえ、間に合わせます。必ず」


 そう断言すれば、スカーレットはにま、と貴人らしくない、どこかあくどさのある笑みを見せた。


「ならば励めよ。完成品を出さねば、わたくしの御用達になるかどうか、という舞台にも上がれぬぞ」

「い、いえ、スカーレット王女の御用達だなんて……!」

「よい、よい。別に御用達を目指しているからと言って、お前の友情が薄いものだとは思ってはおらん。むしろ、私を祝い、趣味を突き詰め、アスキス家で独占できる産業を作る、一石三鳥を狙うお前が好ましいぞ」

「……王女のご寛容に感謝いたします」

「そんな些事に感謝などいらぬわ。次期侯爵として、それくらいの立ち回りができなくてどうする。感謝する暇があれば、再来週までに完成させる方法を考えよ」

「は、畏まりました」


 ふふ、と今度は花のほころぶように笑うスカーレットに、レイラは深く頭を下げる。

 するとそこに、


「姉上ばかりずるいですよ」


とオリヴァーが割り込んできた。


「お前には皇太子印があろうが」

「それとこれとは別ですよ! 僕だってレイラ姉様の作ったインクがほしいです!」

「レイラはわたくしの幼馴染で、親友だからのう」

「でも、将来は僕の……」

「お前の? 何だ?」


 にやにやとスカーレットが煽っているのを止めなくてはと、レイラは


「スカーレット王女のインクができたら、オリヴァー殿下にも捧げたいインクがございまして!」


と声を上げた。


「僕にも? 本当ですか?」

「は、はい、オリヴァー殿下に相応しい、深い緑色に、オレンジ色の混色をしたインクを考えております……まだ最初のインクさえ完成に至っていないため、いつ、とは申し上げられないのですが」

「オレンジ色は、オリヴァーの髪色に近いから分かるが、緑は何だ?」

「だって、オリヴァー殿下は、草木を愛でるのがお好きでしょう?」


 レイラが答えると、オリヴァーの顔にさっと朱が散り、スカーレットがほう、と感心したように頷いた。


「ど、どうして、気付かれたんですか……」

「私はスカーレット王女にお招きいただいて時々庭園に参っておりますが、年々、一部の区画が華やかになっている、と思っておりまして。あの場所は、オリヴァー殿下の執務室からよく見える場所でしょう? それに、先ほどいらしたとき、花の香りがオリヴァー殿下から香りました。執務室の机の上に、花を飾られているのでは?」

「その通りですよ……」

「ですから、緑は好ましく思われるのではないかと、緑のインクを。美しい孔雀石を使って、オリヴァー殿下の目を楽しませるようなものを作りたいのです」


 オリヴァーは、少し困ったような、嬉しそうな、不思議な色を浮かべて笑った。

 スカーレットとはあまり似ていない、優しげな容貌が、幼い頃のような気の抜けた笑顔になるのに、レイラの胸が弾んだ。

 レイラはスカーレットの幼馴染で、即ちオリヴァーの小さかった頃も知っている。だが、青年になり、皇太子として品位のある笑みばかり見るようになっていたし、レイラ自身も未来の臣下としての礼を取るようにしている。

 それでも、彼本来の表情を垣間見ると、そわそわしてしまうのだった。


「オリヴァー、レイラはやらんぞ」

「えっ……姉上!」

「やらんぞと申されましても、私は将来、殿下にお仕えする身ですが……」

「レイラ姉……レイラ嬢も、姉上の冗談をまともに聞かなくていいですから」


 妙に慌てているオリヴァーに、ええ、とレイラは軽く頷く。

 そして、


「スカーレット王女、そろそろ、研究に戻りたいのですが、退席をお許しいただけますか」


とこの茶会の主宰であるスカーレットに申し出た。


「うむ、許そう。……レイラ」

「はい」

「楽しみにしておるぞ」

「はい。レイラ・アスキスは、王女との友情に賭けて、ご期待を裏切らないと約束いたします」


 レイラは立ち上がり、優雅に一礼する。

 そしてシャーロットと共に、スカーレット専属のメイドに連れられて辞去しようとした。

 だが、


「レイラ、少し待て」


と呼びかけられれば足が止まる。


「何でしょう?」

「庭園を出るまでオリヴァーに送らせよう。……オリヴァー、ついてやれ」

「はい」

「そんな、殿下に見送っていただくなんて恐れ多いこと……!」

「気にしないでください、僕がそうしたいのですから。さあ、行きましょう、レイラ嬢」


 まるでダンスに誘うように手を差し出され、レイラは応じるように手を取る。

 あちこちに花の植えられた庭園を横切りながら、二人は和やかに話をする。

 最初のうちは恐縮していたレイラだったが、気付けば自然に笑っていた。

 穏やかな性格の未来の主君は、皇太子になった頃は人見知りしがちで、国王夫妻とスカーレット、そしてレイラ以外とは上手く話すことができない少年だったが、今は自分からレイラの趣味の話や城下の噂など、様々な話題を振ってくる。

 更には、シャーロットやヒューゴに労いの言葉をかける気遣いまで見せた。

 その成長が嬉しくて、少し寂しいような。

レイラがひっそりと感傷に浸っているうちに、庭園の出口に到着していた。


「こちらで結構です、オリヴァー殿下。すぐに馬車も参ります」

「次にお会いできるのは……姉上の誕生祝いの宴ですね」

「ええ、私がインクを完成させられれば、ですが」

「完成しなかったら来てくれないのですか?」

「恥ずかしくて、顔を出せるはずがありません」

「では、レイラ嬢にはがんばっていただかなくてはいけませんね。次に、僕の分を作ってもらうためにも」

「ふふ、全力を尽くします」


 車止めに馬車が到着し、レイラはオリヴァーの手を離す。

 そしてドレスを摘まむと、正しく一礼した。


「失礼いたします、オリヴァー殿下」

「ええ、お気を付けて、レイラ嬢」


 レイラはシャーロット、ヒューゴと共に馬車に乗り込むと、カーテンを開ける。

 すると、まだオリヴァーはすぐ傍にいて、馬車を見送ろうとしていた。

 窓越しに目礼すると、オリヴァーも頷き返す。

 間もなく馬車が動き出し、シャーロットがカーテンを閉めた。


「ああ……緊張したわ」

「そうですか? お嬢様、とても楽しそうでしたわ」

「それは、楽しかったけれど。でも、いくら子供の頃からの仲と言っても、あの方は皇太子殿下よ。臣下としての礼を欠いてはならないし、それに……」

「それに?」

「誰が見ても、妙な勘繰りをされてはいけないもの」


 レイラは、静かに目を閉じる。

 皇太子殿下は、いつか外国の王族か、有力貴族の娘と婚姻を結ぶ。

 レイラも、早く婿を取り、女侯爵として立つ準備を進めなくてはならない。

 だから、互いにその将来に傷がつくような隙を見せてはならないのだ。

 そっと、レースで飾られた胸元に手を置いて、深く息を吐いた。

 そのままじっと目を閉じていると、レイラ自身も気付かないうちに少し寝入っていたのか、かたん、と馬車が揺れてハッと意識が浮上する。


「お嬢様、到着いたしました」


 ヒューゴが最初に馬車を降り、シャーロット、そしてヒューゴに守られながらレイラが続く。

 屋敷に入ると、邸内はどこか浮き立ったような雰囲気だった。


「お客様がいらしているようね」

「私、確認してまいります」


 シャーロットは他の使用人達の元に行き、一言、二言話をしてからすぐに戻ってきた。

 だが、その表情は浮かない。


「どなたなの?」

「その、ブレンドン・ヘイル様です……」

「ああ……」


 レイラの妹の一人、三女のパトリシアの恋人であり、恐らくは間もなく婚約するであろうと思われる、ヘイル伯爵家の長男の名前が出て、レイラは小さく溜め息が出た。

 ヘイル家は、伯爵ながらも王都周辺に土地を持ち、立地の良い土地を大きな商家に貸したり、農場を経営させたり、鉄道に貸したりと堅実に富を増やしている家である。

 爵位こそアスキス家の下だが、血の古さは劣らず、その資産もアスキス家の娘を迎えるのに不自由することのない規模で、結婚相手として何の不満も出ないだろう。

 更に、夜会でパトリシアを見初め、アスキス侯爵を通じて交際を申し込んできたとなれば、アスキス侯爵夫妻、つまりレイラの両親からもかわいがられ、時折アスキス家でもてなしていた。

 ただ、レイラは苦手なのだが。


「……まあ、この格好なら、失礼にもならないわね。ご挨拶だけしていきましょう」

「お供いたします」

「では私は先触れをしてまいります」

「ええ、よろしく」


 レイラは先に客間に向かったシャーロットを見送り、軽く髪を手櫛で整え、ドレスに汚れがないか見える範囲でチェックする。


「ヒューゴ、どう?」

「問題はございません」

「それなら行くわよ」


 ヒューゴを先に歩かせ、客間に向かう。

 途中で戻ってきたシャーロットも合流して、重くなる足を叱咤して動かす。

 分かりやすく突っかかってくるアイヴィも面倒だが、パトリシアも輪をかけて面倒なのだ。ブレンドンと一緒だと、更に。

 だが、食堂にはすぐに到着し、シャーロットが


「レイラお嬢様がお見えです」


と中に声をかけて、自分で挨拶をすると言ったレイラだが、いよいよ逃げられないという気分になった。


「失礼いたします」


 客間に入ると、大きなチェアにアスキス侯爵夫人、つまりレイラ達の母とアイヴィが並んで座り、向かい側にパトリシア、そしてブレンドンが座っている。

 レイラがアスキス侯爵の特徴を継いだ黒髪と紫色の瞳を持つのに対して、アスキス侯爵夫人、アイヴィ、パトリシアはよく似た金に近い茶色の髪と青い瞳をしていて、一緒にいるとまるで揃えて作った人形のようだった。

 そして、似ているからこそ、アイヴィは気の強そうな顔立ち、パトリシアはおっとりとした印象で、侯爵夫人は娘達の特徴を混ぜたようだという違いが際立つ。

 彼等はテーブルの上にこれでもかと菓子を並べ、茶会を催していた。


「ブレンドン様、所用で不在にしており、ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「ああ、レイラ嬢!」


 ブレンドンは、大げさな動きで立ち上がると、胸に手を当ててレイラに礼をした。


「パトリシア嬢にお招きいただき、お邪魔しております。レイラ嬢は、所用だったとのことですが、やはり魔法の修業を? 侯爵家ともなれば、覚えることも多いのでしょうね」


 ブレンドンの言葉に、笑い声を上げたのはレイラではなかった。

 パトリシアは豊かな髪を揺らし、垂れ目がちな目に笑みを乗せて、ブレンドンの手をかわいらしくつついた。


「ブレンドン様、違いますわ。レイラお姉様に、教わって魔法が使えるほどの力はありませんの。ですから、魔法の修業などずっと前からしておりませんわ。ねえ、レイラお姉様?」


 レイラがパトリシアと、ブレンドンを面倒だと思う理由がこれだった。

 初めて顔を合わせたときからこの調子で、正直なところ、パトリシアがもう一人増えた、と思ったものである。

 本人達は似たもの同士で気が合うのだろうが、矛先を向けられているレイラはたまったものではない。

 そして、侯爵夫人は我関せずといった顔で、アイヴィはにやにやとしているのを隠し切れていなかったし、どちらもレイラを庇うつもりのない態度だった。


「私なら、こんなこともできますけれど……」


 パトリシアは、すいっと人差し指を上から下に滑らせる。

 すると、光の弾丸のようなものが駆け抜け、レイラの髪を一房落とした。


「パトリシア、お止めなさい。使用人の仕事を無駄に増やすことになるわ」

「はあい、お母様」


 レイラは落ちた髪を一瞥してから、お茶会の席に視線を戻す。


「そうね、私に魔法の修業はないわ。今日は、スカーレット王女とのお茶会に招かれておりました」

「王女のご様子はいかがだったの」


 ようやくレイラに話しかけてきた母に、レイラは向き直る。


「大層お元気でいらっしゃいました。再来週の、誕生祝いの宴の話などもしてまいりました」

「ええ、我が家からも様々な贈り物を用意しているわ。……ところで、お前からの贈り物のリストが来ていないのだけれど?」

「ええ、今年はまだ、用意が終わっておりませんので」


 レイラが答えると、侯爵夫人はレイラに視線を向けた。


「用意が終わっていないとはどういうこと? お前は、年が同じで家格も相応しいというだけの理由で選ばれたとは言え、王女と共に淑女教育を受けた幼馴染でしょう。そんな無礼は許されない、分かっているわね?」

「分かっております。ですから、特別な贈り物を」

「どうせお姉様の贈り物なんて、『アレ』でしょ?」


 くす、と笑いながら口を挟むアイヴィに、レイラは、この子にこそもっと厳しい、それこそ王室並みの淑女教育が必要だったのではないか、と考える。

 残念ながら、もう十七歳では改善は難しそうだが。


「ああ、レイラお姉様の『アレ』ですか。王女殿下も、そんなものを貰ってもお困りでしょうに、おかわいそう」

「パトリシア嬢、そこまで正直に言ってはいけませんよ」

「ブレンドン様は優しいのですね。でも、正直に言ってあげた方が、親切というものでしょう? ねえ、レイラお姉様、他のものを考えたらいかがでしょう?」


 レイラは、ここで流石に溜め息はまずいと、ぐっと飲み込む。


「忠告には感謝するわ、パトリシア。ブレンドン様、そろそろ私は部屋に戻りますので、妹達をよろしくお願いいたします」

「ええ、お任せください」

「では、失礼いたします」


 再びドレスの裾を摘まんで礼をする。

 そして客間を出ると、レイラは自室、ではなく、図書室に向かっていった。


「お嬢様、今から図書室ですか?」

「ええ、無駄にした時間を取り戻さなくちゃ。しばらく籠もるから、夕食まで声を掛けないでちょうだい」

「畏まりました」

「俺は図書室の前に待機していますから、力仕事が入用でしたらお声がけください」

「ありがとう、ヒューゴ」


 レイラは一人で図書室に入ると、深く息を吐き出す。

 やっと、息ができるような気がする。

 広々とした空間にレイラの身長よりも高い本棚、そしてぎっしりと詰め込まれた書籍の数々。

 ここを日常的に使うのはレイラ、そしてアスキス侯爵くらいで、使用人達が掃除は欠かしていないというのに、どこか埃の匂いがする。

 だが、レイラはそれが苦手ではなかった。

 本棚の間を歩き回り、近頃は誰も手に取った形跡のない、古い本を何冊か引っ張り出す。

 そして、本を読むために部屋の中央に置かれているテーブルに、遠慮なく積み上げた。


「さて、と。まずは科学の本辺りから攻めようかしら」


 スカーレット王女には、黒のインク部分と溶剤の変更について話したが、レイラの本命は溶剤の方だった。

 インクになる『黒』は、植物の炭、煤、鉛や鉄を焼いたものなどを既に試しているが、動物の骨からできた炭はまだ試していないため、それを試すことは決めていた。

 動物の骨の炭は黴が生えやすいが、高価な絵の具などにも使われていることは調べて知っている。つまり、着色する力が強い。

 だから黴が生えないように処理した上で、動物の骨の炭に黒のインクを変える。

 だが、それでは赤と黒と光沢の成分と結合が起こるかどうか、までは読めない。

 同じ炭ということで、植物の炭と似た反応になる可能性もある。

 むしろ、大きく変更するべきなのは、インクの材料を液体状に保つのに不可欠な溶剤の方だと睨んでいた。


「燃える水から作った燃料を……これは前に使ったわね。ガスと水蒸気と硫酸……これはいつも使ってる物だし……」


 ぶつぶつと呟きながら、溶剤になるものを探していく。

 どれもこれも、以前試したものばかりで、目新しい情報は出てこない。

 一冊、また一冊と、レイラの右側に積まれた本は、左側に移動していく。

 ふと、辺りが暗くなっているのに気付いて、一度図書室を出た。


「ヒューゴ」

「はい、どうしました?」

「灯りを入れてちょうだい」

「ああ……失礼いたしました」


 すぐにランプに灯りが点され、図書室が明るくなる。


「ありがとう」

「そろそろ夕食のお時間ですから、片付けに入りましょうか?」

「いえ、もう少し調べるわ」

「ですが、そろそろ外出着から着替えられるべきかと……」


 レイラは、それもそうかと髪飾りだけは外す。


「シャーロットに、片付けておくように渡して」

「お嬢様、そういうことではなく……」

「言ったでしょう、無駄な時間を取り戻したいの。それに、王女に完成させるとお約束したのだから、一秒でも惜しまなきゃ」


 ヒューゴの返事を待たず、レイラは図書室の扉を閉める。

 本に目を落とすときの、頭が軽い。

 これならまだ集中できそうだと、次々にページをめくっていく。

 時折、インクの掠れたページが出てくると、くすっと笑って撫でる。

 

「……これも駄目ね」


 レイラはやはり覚えのある情報しか得られなかった本を、左側に積んだ。


「黒いインクと……赤いインクと……光沢の成分と……全ての成分に反応しない溶剤なんてあるわけがない、のよね……」


 ずっと遠くの未来ではそんなものも発明されるかもしれないが、今はない。

 だから、最も量の多くなる黒のインクに合わせた溶剤を使っているのだが。

 レイラは、とんとん、と掌で軽く頭を叩く。


「黒いインク用の溶剤と……赤井インク用の溶剤……いえ、そこまで厳密にしなくてもいい。別の方法で作られた、別の性質の溶剤を混ぜたら、新しい物ができないかしら……」


 溶剤を混ぜることは、多分まだ誰もやっていないはずだ。

 この国で使われているインクは全て単色で、わざと滲みに別の色が出るようにする、なんて手のかかることをやりたがるのはレイラくらいだから。

 単色のインクには、決まった溶剤を使えばいい。

 わざわざ混ぜる必要もない。

 つまり、色の混ざったインクを作りたいのだから、溶剤を混ぜてみるのも無意味ではない、かもしれない。


「……燃える水は、確か今も、うちの土地から少し出るわね。それに、動物の骨……」


 レイラは席を立つと、また本棚に向かう。

 今度はアスキス家に各地から送られてくる、税としての品物の数々を記した冊子を引っ張り出した。

 昨年の税を確認すれば、ジーアスという土地から納められた品物の中に、燃える水から作った燃料が出てきた。

 これにしよう、と決める。

 燃える水から作った燃料で溶剤を作ったときは、単色だがかなりよく書けるインクができた。

 問題は、その燃料は量が少なく高価なことで、それを理由に別の溶剤に変えた。だが、王女一人に渡す一瓶を作るだけなら問題はない。

 レイラが作る最高の一瓶は、最初の一瓶に過ぎないのだから。

 燃える水から新しい溶剤を作り、今使っているものを混ぜる。

 そう方針を立てて、レイラは肩の力を抜く。

 そこに、扉を叩く音が響いた。


「はい」

「お嬢様、夕食のお時間です」

「すぐに行くわ」


 レイラは本を片付けると、図書室を出る。


「お嬢様、片付けくらい俺がしますと……」

「どこに何があったか、ヒューゴは分からないでしょう。適当に戻されても困るわ」

「う……はい」


 レイラが食堂に着くと、既に他の家族は揃っていた。

 レイラは


「遅くなりました」


と一言詫びて自分の席に座る。


「あら、お姉様、まだそんな格好なの! 部屋に行ってから今まで何をしてらしたの?」

「少し、本を読んでいたのよ」

「シャーロットもかわいそうですわ、着替えをずっと待たされて」

「シャーロットはこんなことには慣れているわよ」

「まあ!」


 更に何か言おうとした妹達だったが、それより先に咳払いが響く。


「食事中に、くだらん言い合いは聞きたくないものだが」


 アスキス侯爵の一言で、三人の娘は沈黙する。

 それを見計らったように前菜が運ばれてきて、食事が始まった。

 食事の間は侯爵夫人とアイヴィ、パトリシアが主に話し、時折話し掛けられた侯爵が言葉少なに答えるのが常だった。

 だが、最後のデザートに小さなケーキと紅茶が出てきたところで、


「アスキス侯爵」


と珍しくレイラが声を発し、使用人までもがレイラを見た。


「どうした、レイラ」

「後でお話したいことがございますの。お時間をいただけませんか」

「む? 今ではいかんのか」

「ええ、落ち着いて話したいことですので」

「レイラ。私達の前では落ち着かないと?」

「その通りです、お母様。私がお父様をアスキス侯爵とお呼びした意味が分かりませんか。私は次期侯爵として話をしたいのです。お母様やアイヴィに入ってこられては困りますわ」


 レイラは、アスキス侯爵から目を逸らさない。

 アスキス侯爵はしばらく黙っていたが、やがて


「食事が終わったら、執務室に行くとしよう」


とレイラに告げた。


「はい、畏まりました」


 これで第一関門は突破、とレイラは安堵する。

 後は何とか侯爵を説得する必要があるが、今はそれに備えてしっかり食べておかなくてはと、ケーキを口に入れる。

 母や妹達の、今度は何をする気だと言わんばかりの視線を物ともせず、紅茶もしっかり飲み終えて食事を終えた。

 一同が席を立ち、各々自室に戻る中、レイラとアスキス侯爵は執務室に逸れていく。

 部屋に入り、席に着いた侯爵は、静かに立っているレイラに


「それで、話とは」


と切り出した。


「漁ってから四日ほど、ジーアスに行きたいのです」

「ジーアス? あそこは観光をするようなものはないだろう。それに、再来週は王女殿下の誕生祝いがある。悠長に遊んでいる場合ではない」

「もちろん、遊びに行くのではありませんわ」

「ふむ、次期侯爵として、こんな時期に、何をしに行くというのだ」

「ジーアスで採れる、燃える水がインク作りに必要なのです」


 レイラが答えると、アスキス侯爵は怒りで顔を歪める。


「次期侯爵として、と言うから時間を取ったのに、お前という娘は……!」

「落ち着いてください、アスキス侯爵。遊びに行くのではないと申し上げたはずです。いくらインク作りが趣味でも、こんな時期に家を空けるようでは後継者失格だと分かっております」

「では何だと言うのだ!」

「私は、スカーレット王女の誕生祝いの贈り物に、特別なインクを準備しているのです。そして、インクで王女の御用達を狙っています」

「……何?」

「王家の使う物は、ハンカチーフ一枚、フォークの一本までも決まった商家、職人が納めております。その中に割り込めるかもしれない、貴重な機会が、誕生祝いの献上品ですわ。しかも、今年は王女が二十歳のお祝いとなります。成年王族の御用達となれば、スカーレット王女自身が、選ばれた献上品の保護に動きます」

「ああ……その通りだ」

「我が家は、不動産経営を中心にしていますが、鉱山を含んだ土地も所有しております。でも、貴族層で価値の高い鉱石はほとんど出ることはなく、絵の具の材料となる石を安く市井に卸しておりますわね」

「うむ、よく調べている」

「私の作るインクは、基本的に、絵の具の材料となる石と同じ物を使っております。流石に王女にお贈りする物は、材料も最高級の物を求めますが……王女の御用達となれば、産業として育てるに充分な援助が王家の予算から出るでしょう。それを利用し、価値の低い鉱石から様々な色のインクを作るレシピを作り上げ、我が家の産業として定着させたいのです」

「産業だと?」

「ええ。原料よりも加工品の方が価値が高いのは自明のことでしょう。更に王女の御用達というブランドがあれば、一般市民だけではなく貴族層に向けても販売ができます。特に、王女に献上するものは、インクを作る原料だけではなく溶剤もアスキス家の領地で採れるガスや燃える水から作れます。完全にレシピを秘匿し、独占することもできるかと」

「……お前の言いたいことは分かった。だが、何故インクに拘る。趣味だけで産業にすることはできんぞ」

「だって、文字がある限り、不要にはなりませんでしょう? 書類、書籍、紋章、手紙、ちょっとした覚書をするのにだって使うはずです。それが、全て完全に不要になる日など来ないと、私は考えております。魔法を使えようが使えまいが、老人でも若者でも、王でも市民でも、聖職者でさえ文字を必要とします。そうでしょう、アスキス侯爵?」


 レイラの長い話が終わると、アスキス侯爵はじっと考え込む。

 ややあって、不意に顔を上げると


「四日だけだ」


と言った。


「四日で必ず帰って来なさい。王女殿下の誕生祝いの宴の用意は、他にもある。当家で用意すること、宮殿で貴族として用意することを、お前は私について学ばなくてはならないのだ。約束できるか?」

「はい、必ず戻ります」

「それと、護衛を。ヒューゴだけでは足りん。クライヴも連れて行くように」

「クライヴを? お父様の、一の護衛ではございませんか」

「だからだ。奴が嫌なら、護衛を十人はつける」

「そんなに大人数では困ります」

「では、素直に連れて行くことだ」

「畏まりました」


 父の気遣いを感じ、レイラは一礼する。

 そして、


「これからすぐ準備に取り掛かりますので、失礼いたします」


と部屋を出ようとする。


「レイラ」

「はい」

「……お前は、ろくに魔力がない」

「今更、どうなさいました? それを分かっていて、後継に指名したのはお父様ですよ?」

「ああ、その通りだ。魔力は足りないが、それを措いてもお前を後継とするのが安泰だろうと思うほど、お前は熱心に教育を受けた。ただ、いつからかインク作りなどと妙な趣味を始めたから、どうしたものかと思っていたが」

「どうなさるおつもりです?」

「……どうもせん。産業として考えているというのなら、もっと早く言え」

「だって、これは私の趣味ですよ。家のお金を使われたら、今まで自由に研究できませんでしたから。今年、スカーレット王女の二十歳の祝いの日を狙っているのも、王女であれば、私の研究がどうなろうとも笑ってくださるからです」

「やっぱりお前が楽しんでいるな?」


 半分呆れた声で言うアスキス侯爵に、レイラはくすくすと笑う。

 それを見た侯爵は、驚きに目を見開いた。

 だが、何故そんな顔をされるのか分からず、そして理由を知るつもりもないレイラは、一歩下がる。


「楽しくなければ続きませんよ。それではお休みなさいませ、アスキス侯爵」


 そう挨拶をすると執務室を出て、自室に戻る。

 そしてすぐにシャーロットに手伝わせて部屋着に着替えた。


「シャーロット、手紙を書くから用意をして」

「え、今からですか? ご入浴を……」

「急ぎなの。早く。インクはこの間作った、藍色にしてちょうだい」

「は、はいっ」


 シャーロットは言われた通りに手紙を書く道具を出してくる。

 手紙を書く支度ができると、レイラはすぐにペンを取った。

 急いで、しかし礼を失しない文章を、便箋にするすると書きつけていく。

 それから三枚の封筒に宛名を書くと、そこにそれぞれ手紙を入れ、封蝋で閉じた。


「シャーロット、これを朝一番に、ジーアスの町長といつもの宝飾品店に届けるように手配して」

「畏まりました」


 シャーロットが手紙を持って出ていくのを見送って、レイラは工房の方に入る。

 ジーアスに持っていく物をあれこれと選んでいると、


「あーっ!」


とシャーロットの声がした。


「……な、何?」

「何? ではありませんよ! 入浴! です!」

「少し待って、これだけ……」

「お嬢様」


 シャーロットの声が、すっと凪ぐ。

 それを無視してはいけないと、レイラの手が止まった。


「明日から、お忙しいのでしょう。それなら、今日くらいはゆっくり休まれるべきです。どうかお聞き入れください」


 真剣な声で、表情で懇願され、レイラは頷く。

 そして、テーブルに並べた様々な道具はそのままに、工房を出た。


「そうね……そうしましょう。支度をして」

「はい!」

「……ああ、シャーロット」

「はい?」

「私の留守中、工房のことは頼んだわよ」


 ええ、と頷いて、シャーロットは、今度は入浴の支度のために部屋を出る。

 彼女が戻るのを待っている間、レイラの頭の中は明日からのことでいっぱいだった。



3


 二日後、レイラはヒューゴと、ヒューゴよりも年上の護衛、クライヴを供にして、密かにジーアスの町を訪れていた。

 最初に町長の家を尋ねると、先に話を通していたのもあり、すぐに町長本人が出てきた。


「ようこそいらっしゃいました、レイラお嬢様」

「急なお願いをして悪かったわね。用意はできているかしら」

「ええ、もちろんですとも。どうぞ、こちらに。ああ、道が狭いので、馬車はこちらに置いて行ってください」

「ええ」


 町長は、レイラ達を町の外れに案内する。

 そこには、いかにも物置小屋といった、木造の小屋が一軒ぽつんと建っていた。


「もっと壊れそうな小屋でも良かったのに、随分と立派な場所を用意してくれたのね」

「流石に壊れそうな小屋にはお嬢様をご案内できませんよ」


 町長が鍵を取り出し、小屋の扉を開ける。

 中には、大きなテーブルと椅子、調理台、棚があった。


「頼んでいた、燃える水から作った燃料は?」

「ああ、それはこちらに」


 町長は棚を開けると、瓶を二本取り出した。


「燃える水の採取は危険な作業でして、元々多くはないのですが……」

「いえ、これだけあれば充分よ。感謝するわ」

「そう言っていただけると、こちらもありがたいですな。……ところでレイラお嬢様、こんなものを、一体何にお使いになるんです?」

「インクを作るのよ」

「……はい?」


 町長は、よく聞こえなかったという顔をする。

 だからレイラはもう一度


「インク作り、よ」


と告げた。


「はあ……」

「今から取り掛かるから、ここに誰も近付けないようにしておいて。大丈夫だとは思うけれど、燃料を扱うのだから」

「は、はい」


 町長が出ていったのを確認して、レイラはヒューゴに


「馬車を停め直して、それから道具を全てここに運び込んでちょうだい」


と指示を出す。


「畏まりました!」


 ヒューゴも小屋を出れば、残ったのはレイラと、普段は父の護衛をしているクレイヴだけであった。

 レイラは帽子や装飾品を外していくと、


「クレイヴ、鞄を」


とクレイヴに声を掛ける。


「どうぞ」

「ありがとう」


 鞄を開け、口元を覆う布や髪を縛るリボン、エプロンなどを取り出して身支度をしていると、ヒューゴが木箱を抱えて戻って来た。


「お嬢様、持ってきましたよ」

「ええ、テーブルの上に置いておいて」


 レイラは口元を布で覆うと、自分で自分の手を撫でた。

 それも、右、左、と何度も。


「……お嬢様、何を?」


 レイラがインク作りをする姿を初めて見るクレイヴが、思わず尋ねる。


「私の魔力が少ないことは、家中が知っていると思うけれど。それでも、自分の手を魔力で覆って保護する、くらいはできるのよ」

「そうでしたか……」


 全ての準備を整えたレイラは


「さて」


とヒューゴとクレイヴを見た。


「二人は適当にしていて。でも、小屋の外に出ていて。多分、食事の時間を忘れると思うから、ヒューゴ、よろしく」

「ええ、もちろんです」

「……お待ちください。お嬢様一人で、ここに?」

「ええ、町長にも言ったけど、燃料を扱うのよ。危ないから出ていて」

「危ないなら、猶更お嬢様を一人には……」

「何を言っているのよ。中にいても、クレイヴにやってもらうことはないわ。むしろ、気が散るの。私の手元が狂って燃料に引火するのが見たいんじゃないなら、外で待機して」

「あの、クレイヴさん、お嬢様はこうなったら絶対に引きませんから、行きましょう」

「だが……」

「お嬢様、手が必要になったら呼んでくださいね」

「ええ、ヒューゴも、食事の件は頼んだわよ」

「はい」


 ヒューゴがクレイヴを引っ張っていき、小屋の扉が閉まる。

 レイラはまず、燃料を引火しないように処理するために、木箱から様々な薬剤と、手軽に高温の熱処理ができるように自作した小型の釜を取り出す。

 ここからしばらくは、緊張の時間が続くのを覚悟して、レイラは自らの頬をぱん、と叩いたのだった。



※※※※



 それから三日、レイラは小屋の中で溶剤作りに没頭した。

 燃える水の燃料から溶剤を作る方法は数年前に会得していたが、久しぶりの作業に、最初のうちは非常に慎重になっていた。

 だが、一日目で無事に溶剤を完成させるに至り、出来上がったものを小瓶に少しずつ分けた。

二日目と三日目は、溶剤同士の混ぜ合わせと、顔料との混ぜ合わせの相性を地道に確認していく作業に終始した。

新しい溶剤を、今度は普段使う硫酸を使った溶剤や、工業用のアルコールと混ぜて、何種類かの溶剤を作る。

更に、黒の顔料と混ぜて、筆記し、インクの伸び具合や乾きの早さを測る。

 そんなことをひたすら繰り返して、どの組み合わせがインクとして最良かを見極めていく。

 食事も睡眠も忘れそうになるのは、頼んだ通りにヒューゴが止めてくれた。

 町長が用意してくれた宿に行くのさえ面倒がって、小屋で寝ようとしたのを運んでくれたのはクレイヴだった。

 最初は、噂に聞くアスキス家長女のインク作りに傾ける情熱に怪訝な顔をしていたが、途中からはヒューゴと一緒になって、護衛というよりは世話係のように手を貸してくれた。

 そうして、四日目の朝。

 宿に帰らず、小屋で灯りを点けて作業を続けていたレイラは、辺りが明るくなってくる頃に、机に突っ伏した。


「お嬢様?」

 

 ことん、という音を聞きつけたのか、ヒューゴが小屋に入ってくる。


「あら……起きてたの、ヒューゴ」

「当たり前でしょう。交代で、この小屋を護衛していましたよ。ところで、どうしました? 何かありましたか」

「いえ……いや、違うわね。あったわ。溶剤、完成したのよ」

「本当ですか!」

「本当……良かった、昼にここを発てば、夕方には家に戻れるわよね……?」

「ええ、お疲れ様でした、お嬢様」

「ありがと……」


 レイラは、ふう、と深く息を吐き出す。

 燃料を扱うから、都度テーブルの上は整理していたが、それでも様々な器具が出されたままで雑然としている。

 目的は達したのだから、片付けをして帰る支度を、と立ち上がりかけるレイラを、ヒューゴは制した。


「お嬢様、朝食の時間まで、少し寝ていてください」

「でも……」

「昼にここを発てば夕方には帰れると、ご自分で仰ったではありませんか。お願いですから、休んでください」

「そう……そう、ね……朝食には、起こして」

「ええ、もちろんですとも」


 レイラは瞼を閉じる。

 その瞬間に、ことんと寝入っていて。

 夢を見ることもなく、目が覚めるとすっかり日は高くなっていた。

 テーブルに顔を伏せたまま寝たせいで身体は少し痛むが、頭はすっきりした。

 ぐっと身体を伸ばすと、毛布が滑り落ちる。

 ああ、ヒューゴがかけてくれたのか、と思いながら拾い上げると、小屋の扉が開いた。


「……お嬢様、お目覚めでしたか」


 今度入って来たのはクレイヴで、彼はレイラの横に立つと、顔色を確認するように覗き込んでくる。

 初日は、レイラの許しがあるまで小屋に入るのは、と躊躇っていたが、ノックして、中から入るように声がかかるのを待って、などという手順を踏んでいては永久に食事も睡眠もさせられないとヒューゴに言われ、そして実際にその通りなのを目の当たりにして、ヒューゴと同じように行動するようになっていた。


「ええ、たった今、ね。どうしたの、朝食の時間?」

「はい。町長の奥方が、最後だからと張り切ってらっしゃいました」

「それは楽しみね」


 レイラはエプロンや、髪を結んでいたリボンを外していく。

 昨日、一応風呂には入ったが、それから一晩中作業をしていたせいで何となくべたついている気がする。

 だが、まずは張り切って作ってくれたという朝食を食べて、帰る支度をしなくてはならない。

 睡眠不足でぼんやりとしているのを、クレイヴの手を借りながら町長の家まで行く。

 そして小さな食堂に入ると、恰幅の良い町長の妻がテーブルに皿を並べているところだった。


「おはようございます、レイラお嬢様」

「おはよう。今日も美味しそうね」

「今日が最後ですから、うちの名産を召し上がっていただこうと思いまして。……ところで、昨日は宿に戻られなかったみたいですね。いけませんよぉ、年頃のお嬢様が、徹夜でお仕事なんて」

「奥さん、もっと言ってくださいよ。お嬢様ときたら、インク作りとなるとすぐに徹夜して……」

「ヒューゴ、余計なことを言わないの」


 町長と妻、レイラの三人が、先に食事をする。

 本来であればレイラはいっしょに食事をするような身分ではないが、密かに街に出ることが多く、大衆食堂に入ることもあるため、特に気にすることもなかった。

 この土地の名産品の野菜がたっぷり入った素朴な味わいのスープや、焼きたてのパン、茹で卵を有り難く食べて、


「ご馳走様、美味しかったわ。今日まで、ありがとう」


と礼を言って席を立つ。


「本当はもっとゆっくり話をしたいのだけれど、帰り支度をしなくてはいけないから、もう出るわ。町長達には本当に世話になったわね。本当に感謝しています」

「いえ、インク作りなんてどういうことかと思いましたが……レイラお嬢様にとっては、大切なことがあるのでしょう。どうか、首都までお気を付けて」

「ええ、ありがとう」


 レイラは、ヒューゴに


「小屋に戻るわ、悪いけど食事の前に送って行ってちょうだい」


と命じる。


「ええ、分かりました」

「クレイヴは先に食事にしていて。食べ終わったら、片付けの手伝いに来てもらうわ」

「畏まりました」


 ヒューゴに送られて、レイラは小屋に戻る。

そして、溶剤を宝石箱のような箱に入れて鍵を掛けると、使った道具を布で拭き、木箱の中に戻していった。

 リボンやエプロンは鞄の方に、溶剤の入った箱も鞄に。

 ついでに、小屋の中を軽く掃除しようと箒を探し出したところで、クレイヴが来た。


「ああ、いいところに来たわね。掃除をするから、貴方は床を掃いて」

「そ、掃除ですか? お嬢様が?」

「インクの工房は、人に触らせたくないから全部自分で掃除しているのよ。だから、簡単な掃除くらいできるわ。心配しないで」

「心配ではなく、身分を考えてくださいと……」

「分かっているわ。だから、秘密ね」


 唇の前で指を立てると、クレイヴは眉間に皺を寄せた。

 だが、レイラが差し出した箒を大人しく受け取り、掃き掃除に入る。


「護衛騎士なのに掃き掃除をしたことについては、運が悪かったと思って諦めてちょうだい。私の同行の特別手当を出すように、お父様に言っておくから」

「いえ、この程度で特別手当などいただけませんよ」


 クレイヴが掃き掃除をしているうちに、レイラはテーブルや椅子などを拭いていく。

 そして小屋の掃除が終わった頃、ヒューゴも合流した。


「ああ、すみません、もう全部終わってますね……」

「いいのよ。さ、これを馬車に運んで。家に帰りましょ」


 ヒューゴは木箱を持ち、クレイヴが鞄を持つ。

 そして、町長の家の近くの馬車に運び込んでいる間、レイラはもう一度町長に挨拶をした。

 それでやるべきことは終わり、レイラは馬車に乗り込む。

 ヒューゴが御者席に座り、クレイヴが馬車の中に入ると、ゆっくりと動き出した。


「お嬢様、お屋敷に着くまで、眠られては?」

「でも……」

「お屋敷で、すぐにインクを完成させたいのでは?」

「……クレイヴ、貴方、ヒューゴのようなことを言うのね?」

「この短い時間でも、お嬢様についてはよく分かりましたよ。面白いお嬢様だ。それに……侯爵に似ているのは、やはりお嬢様ですね」

「黒髪と目つきの悪さはね」


 そう言いながらも、レイラは目を閉じる。

 がたがたと馬車が揺れて、座り心地の良い椅子の感触と相俟ってまるでゆりかごの中のようだった。


※※※※


 目を閉じて休むだけのつもりが、やはり眠っていたらしい。

 ふと頭ががくんと落ちた感覚に目を開けて、クレイヴが締めてくれたらしいカーテンの隙間から外を伺うと、もう貴族の住宅地の中を走っていたのだから。


「よく眠れたようですね」

「ええ、ありがとう。馬車で居眠りしていたことも、お父様には秘密でお願い」


 はしたない、と散々怒られるとは説明しなくても通じたようで、クレイヴは頷いた。

 それからさほど時間をかけず、馬車はアスキス家の屋敷に到着する。


「お嬢様、先に中にお入りください。荷物は俺達が運びますから」

「お願いね」


 レイラは先に馬車を降りると、邸内に入る。

 すると、シャーロットが小走りで駆け寄って来た。


「……お前はいつも慌ただしいわね」

「だって、お嬢様……ああ、その、急いでお部屋に!」


 困っているような焦っているような、それでいて怒っているような奇妙な顔をしたシャーロットにつれられて、レイラは部屋に戻る。

 急いで、と言った割りには部屋はいつも通りで、レイラは首を傾げた。


「シャーロット、何もないわよ?」

「そちらではなく、工房です」


 シャーロットにそう言われ、レイラは嫌な予感がした。

 すぐに扉を開ければ、中はひどい有様だった。

 調合に使うテーブルには岩でも貫通したかのような大穴があり、棚はガラスが全部割れて落ちている上に、棚そのものが真っ二つに割れていた。器具のいくらかはジーアスに行くのに持って行ったが、残していった空の瓶も割れているし、計量用の道具は壊れている。

 こんな無茶苦茶な壊し方ができるのは、魔法以外有り得なかった。


「……アイヴィ? パトリシア?」

「……恐らく、お二人とも、です。夜に見回りをしていたら、お二人が出てくるのを見ましたので……」

「そう……」


 鍵はどうしたのだ、と思ったが、勝手に持ち出したのだろう。

 あと十日もないというのに困った、とレイラはめちゃくちゃになった工房を見渡す。

 すると、思っていたより被害が小さいのに気付いた。


「ねえ、シャーロット、私の集めた石や植物はどうしたの? あの子達が持ち出した?」


 レイラが尋ねると、シャーロットはにこりと笑った。

 そして、ここにはレイラとシャーロットしかいないにも関わらず、声を潜めて


「お嬢様が出発されてすぐに、私の部屋に隠しました」


と報告する。


「……へえ、やるわね」

「お嬢様に、工房を任されましたから。……アイヴィ様とパトリシア様が何かしてくると、お嬢様は気付いてらしたのでしょう?」

「気付いてた、というよりも、ただの予想よ。ここまで派手にされるとは思ってなかったけれど」

「ええ……本当に。道具類は、持ち出せないものもありましたが、お嬢様の集めた材料は無事です。新しく注文なさったものも。お二人も、使用人の部屋までは見に来ませんし」

「いい方法だわ」

「えへへ、ありがとうございます」


 レイラとシャーロットは、すぐに工房を片付けるのは諦めて部屋を出る。すると、アイヴィとパトリシアがレイラの部屋のすぐそばにいた。


「……あら、いたの」

「いたの、ではありませんわ、レイラお姉様。帰ってきたのでしたら、一言くらい言ってくださいな」

「そうね、ただいま戻ったわ」

「ところで、どうして入ったばかりの部屋から出てきたのかしら? お姉様、着替えはなさらないの?」

「後でするわよ。二人こそ、どうしてここに?」

「もちろん、レイラお姉様にご挨拶するためですわ」


 くすくす、と笑う妹達を見れば、そんな殊勝なものではないと分かる。

 レイラが、工房を壊されてショックを受けている様を見に来たのだと。

 だが、レイラはにっこりと笑うと


「そう。見ての通り、無事に戻ったわ。心配してくれてありがとう」


と言って、アイヴィ、パトリシアの順に視線を向けた。

 思うような反応ではなかったことに、アイヴィもパトリシアも趣味の悪い笑みを消す。

 だが、挨拶をしに来た、と言った手前、レイラに何も返事をしないわけにもいかず。


「どういたしまして。今日はゆっくり休んでね、お姉様」

「お疲れ様でした」


 そう言って、去って行った。


「本当に……あの子達ときたら」

「旦那様に、報告なさいますか?」

「しなくていいわ。どうせ、これを機にインク作りなんてやめろ、と言われるだけだもの。それより、材料を確認させて」

「ええ、使用人の部屋で申し訳ございませんが……こちらに」


 レイラは、シャーロットの私室に案内される。

 ベッドに小さな机、小さなクローゼットのある部屋の真ん中に、野菜でも入れるような大きな木箱が置かれていた。

 蓋を開けると、中が板で区切られ、それぞれにレイラが集めた材料が入っている。


「……ありがとう。全部、無事みたいね」

「どのように保管するのか分からなくて、種類で分けただけなのですが……」

「充分よ。流石はシャーロットね」


 レイラが素直に褒めると、シャーロットは嬉しそうに笑う。

 

「でも、これを工房に戻しても、あそこでは作業できないわね……ねえ、使用人部屋のどこか、空いてない?」

「え、まさか、そこで作業なさるおつもりですか……?」

「ええ、そうよ。私が今までと変わりなくインク作りしているなんて気付かれたら、今度は宮殿に行っている隙にでもまためちゃくちゃにされそうだもの。それなら、こちらに通って調合するわよ」

「そんな時間、あります?」

「まあ、夜中になるわね」

「……絶対に、ご無理はなさらないでくださいよ」

「気を付けるわ」


 多分、信用されないだろうと思いながらも、レイラはシャーロットの言葉に頷く。

 やはり信用されなかったらしく、シャーロットは小さく溜め息を吐いたが、


「隣りが空いておりますから、メイド長に話を通しておきます」


と請け負った。


「何から何まで、悪いわね」

「いえ……お嬢様のメイドですからね」

「有能なメイドで助かるわ」

「光栄です。さ、材料の無事も確認できましたし、部屋に戻りましょう。着替えをしなくては」

「はいはい」


 レイラが先に部屋を出ると、シャーロットはわざわざ鍵を掛ける。

 部屋に戻れば、ヒューゴとクレイヴが困ったように立っていた。


「あら、どうしたの、二人とも」

「どうしたのではありませんよ、お嬢様! どちらに行ってらしたんですか!」

「ああ……ごめんなさいね。ちょっと」


 レイラは、ヒューゴ達に少し屈むように手を上下に振る。

 そして、内緒話をするくらいの声で


「あの子達に、工房を壊されたのよ。シャーロットが、材料を隠しておいてくれたから、それは無事だったのだけど……それで、材料を確認しに行っていたの」


と告げた。


「なん……ってことを……」

「お嬢様、アスキス侯爵に報告を」

「ふふ、クレイヴはシャーロットと同じことを言うのね。でも、黙っておいて。お父様だって、私のインク作りを良く思っていないもの。今回は口実があったから、四日もジーアスに行かせてくれたけど、壊れたならもうやめてしまえと言うわ、絶対にね」


 レイラはふっと笑って、姿勢を正す。

 シャーロットが扉を開け、レイラ、ヒューゴ、クレイヴと続いた。

 工房に持ち帰った荷物を置こうとしたヒューゴは、荒らされたままの工房を見て


「うわ……」


と呆れたと言わんばかりの声を出す。


「クレイヴ、鞄はこちらの部屋でいいわ」

「畏まりました」

「短い間だったけど、助かった。本当にありがとうね」

「いえ……また何かございましたら、お声がけください」


 クレイヴは、直角に頭を下げ、部屋を出ていく。


「お嬢様、着替えましょう」

「ええ」

「じゃあ、俺は出ますね」


 シャーロットの手を借りて、汚れても構わないような安物の服から令嬢らしいものに服装を変えていく。

 着替えながら、侯爵と侯爵夫人に帰宅の挨拶に出向いて、溶剤を仕舞って、今夜から調合を始めて、と頭の中で予定を立てる。

 明日からアスキス侯爵と共に宮殿にも行かなくてはならない。

 工房の掃除はシャーロットに頼むしかないし、いつになったら再開できるか分からない、というのが目下の悩みだった。



4


「つ、かれた……」


 スカーレット王女の誕生祝いの宴の準備のため、次期侯爵としてアスキス侯爵と共に宮殿に通い、夜はインクの調合のために使用人の部屋に通い。

 寝不足、覚えることも多い、とレイラは休まらない日々を送っていた。

 今も、宮殿から屋敷に戻り、束の間の休憩時間を取ることはできたが、すぐに着替えて食事と入浴、その後はインク調合だった。


「お疲れ様です、お嬢様」


 シャーロットはレイラの髪から髪飾りを外し、アクセサリーも取っていく。それからドレスを脱がせ、少しでも楽になればと、今日は少しゆったりとしたデザインの部屋着に着替えさせた。


「宴は明後日ですけれど、インクの方はいかがです?」

「順調よ……とても、順調。やっぱり、新しい溶剤がいいわ。後は、どれくらい赤を深くするかとか、光沢の量とか……」

「ああ、安心しました」

「でも……足りないのよねぇ」

「足りない?」

「ただ、インクを差し上げるだけでは、足りない気がするのよ。王女のお祝いとしても、御用達を狙うにしても」

「そういうものですか……」

「ええ。どうしようかしら……」

「いらした皆様に、お嬢様のインクがどれほど面白いのかお見せすればよろしいのでは?」

「紙にちょこちょこ文字を書いてみせる、なんて、全員に見せるなんてどれくらい時間がかかると思うの」

「それは……そうですね」


 レイラは黒髪をばさばさと揺らしながら、どうすべきか、と考える。

 だが、思考に没入する前に、シャーロットが


「お嬢様、明後日の宴で着ける装飾品が届きましたので、お食事の前にご確認を」


と現実に引き戻してきた。


「……随分と、ぎりぎりだったわね?」

「ああ、パトリシア様が、デザインを変えたいと言い出されたそうで……その煽りで、全員分が遅れたそうです」

「そう……まあ、いいけれど」


 レイラは、髪飾り、イヤリング、ネックレス、ブレスレットと確認していく。

 スカーレット王女に色が被ってしまわないよう、そしてレイラの黒髪を引き立てるように白を基調にと注文したが、見事にそれに応える物が届いていた。


「この髪飾りはいいわね」

「ふふ、お嬢様、小さい花を集めたような髪飾りがお好きですね」

「そうね……地味でもちゃんと咲いているような……」


 乳白色の石とレースで出来た小さな花の集まりを見ていたレイラは、不意に髪飾りをテーブルに置く。

 そして、そのまま固まってしまった。


「……お嬢様?」


 シャーロットが呼びかけても、動かない。

 そのまま数秒じっとしていたレイラだったが、突然顔を上げると


「シャーロット、手紙を書く準備をして」


と言い出した。


「え、もうすぐ食事ですよ?」

「大した長さじゃないから、すぐに書いてすぐに配達させるわ。急いで。インクは黒で」

「はい!」


 シャーロットが準備をすると、レイラはさらさらと短い手紙を書き、すぐに封筒に入れる。

 封蝋で綴じるところまで手早く終わらせると、


「いつもの画材屋に」


とシャーロットに渡した。


「はあ……」

「今日中に、でお願いね」

「お嬢様、一体何を思いつかれたのです?」

「それは……今は秘密よ」


 はあ、と頷いて、シャーロットは出ていく。

 シャーロットが戻るまで、宴でインクを渡すときの流れを煮詰めておこうとレイラはもう一度ペンを手に取った。



※※※※


 食事を終え、入浴も終えたレイラは、今夜も予定通り使用人部屋に籠っていた。

 今夜で必ず完成させる、と気合を入れ、新しい材料、象牙を炭にしたものをゴリゴリと乳鉢で念入りに潰し、溶剤と混ぜてインクにする。

 そこに更に赤のインクを注いで、混合のインクを作るのである。

 スカーレット王女に見せたときよりも赤のインクを増やして、王女の強い赤を印象付けるつもりだったが、同時に筆記したときに読みやすいものである必要もあるため、バランスが重要だった。

 赤を一滴入れては紙に試し書きをし、また増やしては試し、と地道に調合していく。


「……あ、これ、いいわね」


 書いた瞬間は黒いが、すぐに赤を感じられるところまで調合したレイラは、そこで一度手を止めた。

 できたばかりの赤と黒の混合のインクを、更に四つの瓶に分ける。

 そこに、光沢成分を量を変えて注ぎ、よく混ぜていった。

 光沢が出るはずのインクを、一つ一つ筆記してまた確認する。

 やがて、レイラは一本のインクを選び出し、蓋をして「完成」と書いた紙の上に置く。

 そして、今までの分量を細かく記していた紙にも、「完成レシピ」と書き込んだ。


「間に、合った……」


 椅子の上でぐったりと脱力していると、こんこん、と部屋の扉がノックされる。


「はい?」

「お嬢様、俺です。夜食をお持ちしました」

「入って」


 レイラが声を掛けると、ヒューゴが盆を持って入ってきた。


「お疲れ様です。どうですか?」

「たった今、完成したわ」

「おお! それは、おめでとうございます」

「ありがとう。画材屋に頼んだ物も、明日届くし……何とかなりそうね」

「画材屋? 何をなさるんです?」

「スカーレット王女のための準備なんだから、誰にも言わないわよ」

「あ、はは……失礼しました。どうぞ、夜食です」


 とん、と置かれた盆には、温かい紅茶とパン粥にチーズをかけた物が乗っていた。


「ありがとう」


 パン粥を一口食べ、紅茶を飲んで、ふう、と息を吐く。

 緊張で硬くなっていた身体が、温かい夜食でほぐれていった。


「明日は、今日までの比じゃなく忙しくなりそうね」

「明後日がいよいよ宴ですからね」

「流石に今日はもう片付けたら寝るわ……」

「手伝いますよ」

「ええ、ありがとう」


 レイラはゆっくりと夜食を味わう。

 やがて程良く腹が満ちて、ご馳走様、とスプーンを置くと、席を立った。


「さ、やるわよ」

「はい」


 レイラは完成したインクを、溶剤を運んだときと同じく宝石箱のような装飾のされた箱に入れ、レシピを今まで作ったインクのレシピと一緒に綴じる。

 そしてヒューゴに手伝ってもらいながら、道具の汚れを拭き取り、材料を仕舞い、薬品類も片付けた。

 全てが終わると、レイラは宝石箱だけを持ち、ヒューゴに送られて自室に帰る。


「おやすみなさい、ヒューゴ」

「おやすみなさいませ、お嬢様」


 ぱたん、と扉が閉まる。

 レイラは、インクをどこに隠そうかと部屋を見回して。

 装飾品の入っている棚の中に紛れ込ませることにした。

 そして、やっとベットに横たわる。

 スカーレット王女は喜んでくれるだろうか。御用達に認定してくれるだろうか。豪快な彼女は、親友だからと言って基準を甘くしたりはしない。

 だから、当日は必ず成功させなくてはならない。

 そんなことを考えているうちに、レイラは眠りに落ちていった。



※※※※


 スカーレット王女の誕生日、当日。

 レイラは夜明けとともに目を覚ました。


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、シャーロット」


 シャーロットは、レイラの顔をまじまじと見て、にこっと笑った。


「昨日はゆっくりお眠りになったようですね」

「インクは一昨日完成したもの。さ、支度を始めて」

「はい。まずは、スープを召し上がってからですよ」


 今日は、レイラは一日中忙しくなる。だから、朝食も部屋で簡単に済ませる予定だった。

 シャーロットが運んできた干し肉と野菜のスープを朝食にして、一番時間のかかる身支度が始まる。

 髪を整え、宴に相応しい格式のある衣装に着替え、装飾品をつけたり化粧をしたりと、それだけで大仕事だった。

 レイラは、深い青の生地のドレスと、白を印象付ける装飾品を付ける。

 成人貴族として落ち着いた青いドレスはレイラに似合っているが、それだけでは地味にも見えてしまう。それを、白い石や真珠、レースを使った装飾品で爽やかに、また軽やかな雰囲気に変えていた。


「どうかしら」

「とてもよくお似合いですよ」

「スカーレット王女の前に出ても恥ずかしくないくらい?」

「もちろんですとも」


 話をしながらも、シャーロットは手早くレイラの髪をまとめていく。

 化粧をするのもシャーロットで、レイラの、やりすぎるときつくなる顔立ちを凛々しいと言えるものに落ち着かせてくれた。

 最後に髪飾りを付ければ、インク作りでぼろぼろになっていた女性と同一とは思えない、立派な貴婦人が出来上がる。


「……本当に、シャーロットはすごいわね」

「えへへ、ありがとうございます」


 レイラは鏡に映った自分を確認して、深呼吸を一つする。

 それから鏡台の前から立つと、


「ヒューゴ」


と部屋の外に呼びかけた。


「はい」

「出発の準備を」

「はい!」


 ヒューゴは、宝石箱と、くるくると巻いた紙を持つ。

 レイラは


「慎重にね」


とだけ告げると、部屋を出た。

 玄関ホールには既にアスキス侯爵以外の集まっている。


「お待たせいたしました」


 侯爵夫人は落ち着いた、髪の色より少し薄い茶色のドレス、アイヴィは薄いオレンジのドレス、パトリシアはピンクのドレスと、祝宴らしい華やかな装いをしていた。


「お姉様、随分と落ち着いた格好なのねぇ」

「主役はスカーレット王女だもの。王女の前に出る者が、派手にしては失礼でしょう」

「あら、王女殿下より目を引く自信がおありですの?」

「心がけの問題よ。妙なことを言わないで」


 こんな日にも嫌味を言わないと気が済まないのか、と思っていると、アスキス侯爵も到着し、三姉妹は静かになった。


「うむ、全員揃っているな。では、行くぞ」


 一家は、アスキス侯爵とレイラ、夫人と二人の妹に分かれ、更に贈り物を積んだ馬車の三台で出発する。

 街はお祭り騒ぎで、花火が打ち上がり、屋台が並び、どこかから紙吹雪まで飛んでくるような有様だった。

 見ているだけで楽しい賑わいに、レイラは混じることができないながらも微笑みを浮かべる。

 だが、その賑わいは、宮殿に続く門を潜ると全く遠いものになった。


「どうだ」

「……どうだ、とは?」

「インクとやらだ。上手くいったのか」

「最善は、尽くしましたわ」

「そうか」


 アスキス侯爵は、頷いてみせる。

 何故そんな質問をしたのか、レイラは尋ね返そうとしたが、それよりも早く馬車が止まった。


「さあ、次期侯爵として、しっかり勤めなさい」

「はい、アスキス侯爵」


 アスキス侯爵とレイラは馬車を降り、宮殿に入る。

 城に仕える女官が、アスキス家を宮殿のダンスホールに通した。

 まだ宴は始まっていないが、高位の貴族は既に集まっており、あちらこちらで談笑している。

 レイラも、アスキス侯爵と共に挨拶をして回ったり、同年代の若い貴族達と軽い会話と楽しんだ。

 そうしているうちに、ホールはどんどん人が増えてくる。

 そろそろだろう、と思っていると、ホールに音楽が流れてきた。

 王家が抱える楽団が、明るい音楽を奏でる。

 曲が終わると、


「国王陛下、王妃殿下、オリヴァー殿下、そして本日、二十歳のお誕生日を迎えられ、成人王族となられましたスカーレット王女殿下のご入場です」


と声がホールに響き、それに合わせて王家の四人がホールに入り、玉座の前に立った。

 スカーレットを残して、三人はすぐに着席する。

 スカーレットは、今日も炎のような髪をなびかせ、その髪に負けないような金色の髪飾りに、赤、オレンジ、黒とあまりにも鮮やかな色遣いのドレスを纏って、堂々と立っていた。


「皆の者。今日は、わたくしの二十歳を祝う日である。本日、これよりわたくしは成人王族である。その責の重さを忘れず、務めを果たしていく所存である。ひとまず今日は、にぎやかに、楽しんでもらいたい」


 いつもと同じ、柔らかさのない、しかし朗々と響く言葉に、レイラは一生懸命拍手を送る。

 そうして拍手が落ち着くと、今度は各家からの贈り物を渡す段取りだった。

 大公家、公爵家は、王族の親族であるため、血縁であるスカーレットに渡す贈り物にも熱が入っている。

 大きな宝石を使った宝飾品や珍しい生地を使った衣類、靴、家具など、様々な物が出てくる。

 そのあまりの豪華さに、レイラは息を呑んだ。

 だが、ここで尻ごみはできない。


「アスキス侯爵家」


 宰相に家名を呼ばれ、レイラが前に出る。


「アスキス侯爵家より、スカーレット王女殿下に贈り物をさせていただきます」


 レイラは、目録を一つずつ読み上げていく。

 それに合わせて、護衛騎士達が運び込んだ贈り物を並べる。

 やはりアスキス家も、宝飾品や食器、仕立てる前の布などが中心だった。

 だが、それで終わりではない。


「最後に、レイラ・アスキスより、インク」


 ヒューゴがレイラにインク瓶を差し出す。

 それをレイラが受け取ると、今度はヒューゴとクレイヴが、レイラの横で大きな紙を広げていった。

 レイラが寝転んでもまだ余るほど大きな紙は、ぼんやりと青白く光っている。

 光っているのは、宴の前日にレイラが魔力を少しずつ注いだせいだった。


「スカーレット王女に最も相応しいインクを、贈らせていただきます」


 レイラは瓶の蓋を開けると、紙に向かってインクを流していく。

 びちゃ、と落ちて、そのまま黒いしみとなっていくはずのインクは、しかし、するすると蛇のように動いて、黒いバラの線画を描いていった。


「あれが、スカーレット王女に相応しい……?」


 どこかから、疑問を投げかける声が聞こえる。

 だが、インクが全てバラの絵になり、ゆっくりと乾いていくと、疑問はざわめきに変わっていった。


「黒いインクだと思ったが、縁が赤くなっているぞ?」

「それだけではない、ここから見ると、きらきらと宝石のように光って……」

「何だ、あのインクは? あんなインクがあるのか?」


 ざわめきの中、レイラはスカーレット王女を見上げ、ドレスを摘まんで礼をする。


「以上、アスキス家より、本日の素晴らしき日を祝う品を贈らせていただきます」


 その姿勢のまま、下がるように言われるのを待つ。

 だが、聞こえてきたのは


「レイラ・アスキス」


とレイラを呼ぶスカーレットの声だった。


「顔を上げよ」

「はい」


 レイラは言われた通り、姿勢を正してスカーレットを見上げる。

 スカーレットは、笑っていた。


「これが、お前の見る私か」

「はい。私の知る、最も美しい貴方様です」

「ふ……ふふ。相分かった。面白い贈り物、感謝しよう。下がれ」


 レイラはもう一度礼をして、目録を大臣に渡し、贈り物を残して騎士達と共に下がる。

 やれるだけはやった。

 それで、満足だった。



 その後、宴がどうだったか、レイラは全く覚えていない。



5


 スカーレットの誕生祝いの宴から数日後、レイラはスカーレットに王城に呼び出された。

 恐らく、御用達になりたいと言った手前、直接結果を伝えてくれるのだろうと思い、すぐに行くと返事をして外出の支度をし、屋敷を出た。

 スカーレットが会談場所に指定したのは、庭園だった。


「おお、来たか、レイラ」

「スカーレット王女、お招きいただきありがとうございます」

「うむ。先日のお前のインク、あれの件だ」

「やはり、そうでしたか」

「ああ。回りくどいのは嫌いだ、率直に言う。お前のインクは、わたくしの御用達だ」

「……え?」

「狙っていたのだろう。喜べ」

「……え、ほ、本当、ですか?」

「冗談に聞こえるか?」


 レイラは首を横に振る。

 スカーレットはレイラの様子を見て笑うと、メイドに合図をした。


「御用達の、認定証でございます」

「あ、ありがとう、ございます……」


 受け取った認定証の最後、スカーレットの署名には、レイラが贈ったインクが使われていた。


「あのときは、他の者の手前、お前のインクだけを喜ぶことはできなかったが……最も嬉しい贈り物だった。あんなに美しく、わたくしを作ってくれたお前の友情に、心から感謝している」

「スカーレット王女……」

「これからも励めよ」

「はい!」

「それから、オリヴァーが私にやきもちを焼いてな。最も美しい、と言われたこと、羨んでいる。弟の分も、早めに頼む」

「ええ、至急、調合を進めます」


 スカーレットは、レイラの黒髪を一房指に絡めた。


「お前は、そのままでいるがいい」

「……仰せのままに、スカーレット王女」


 レイラは深く礼をする。

 そして顔を上げたとき、スカーレットの後ろに、鮮やかな庭園の緑を見て。

 この色をインクにしたいと、目に焼き付けたのだった。

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インク沼の令嬢 清見ヶ原遊市 @kiyomigahara

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