第4話
夕暮れ時。
セラは屋敷の廊下を歩きながら、昼間のメルティの様子を思い返す。
グリーナに対する強い思い入れ、さらにはセラに向けて敵意に似た感情が言動に乗っていたことも気になる。
「恨みを買うような事をした覚えはありませんが……」
そうして考える内に、エントランスへたどり着いた。
当てもなく歩いていたので、別に用があったわけではない。
「ハンスさんのお勧め通り、ケチャップでも作りましょうか」
そう思って食堂の方へ踵を向けると、遠目に人影が見えた。メルティだ。
咄嗟に物陰に隠れてその姿をやり過ごす。食堂から出てきたようだ。手には燭台と一人分の食事がのった膳が握られている。
「夕食にはまだ早いですが……」
それにゴードンのため用意したにしては量が少ない。
あの大食漢が一人前程度の食事で満足するはずがないのだ。
気になったセラは、メルティに気づかれないよう後をつける。
するとメルティはエントランスの階段の方へ歩いていき、その陰に入って行った。
「あれは……」
セラは驚きに目を見張る。
階段の陰に入って行ったメルティは、周囲に誰もいないか念入りに辺りを見回した後、手すりの装飾に隠されていたレバーを引く。すると、階段の側面に隠し扉が出現した。
メルティは早足にその扉をくぐると、扉は自動で閉まり、ぱっと見何もない壁に戻った。
「こんな仕掛けがあったなんて」
念のため数呼吸おいてから階段へ近寄ったセラが、感嘆の域息を漏らす。
隙間なく閉じられた壁は風の流入を許さず、セラの能力をもってしても看破できなかったのも無理はない。
セラは見様見真似でレバーを引き、隠し扉の奥へと足を踏み入れる。中は薄暗く、下りの階段になっていた。
等間隔で壁掛けの燭台があり、火が灯っているので足元くらいは見える。恐らく先行したメルティが点けたのだろう。
一本道を下っていくと明かりが強くなった。
部屋がある。中からは人の気配がした。
「では失礼致します」
メルティの声と共に、人の気配がこちらへ近寄ってくる。
セラは懐から先端に返しのついた鋼糸を取り出し、石造りの天井の溝に引っ掛け、それをよじ登って天井にぶら下がった。
幸いにして天井は高く、セラ一人宙に浮いていても戻ってきたメルティとぶつかる事はない。
しばらくそうして浮いていると、階段上から隠し扉の作動音が聞こえて来て、風が断たれた事でメルティの気配を完全に感じなくなってから、ようやくセラは地面に降りる。
メルティがいなくなってからも、前方の部屋からは人の気配がしていた。
部屋に扉はなく、中から燭台の光が漏れている。
セラは気配を殺してそっと入口から中を盗み見た。
ゆったりとしたスペースの広い空間が中に広がっている。
ベッドやテーブル、基本の調度品から備え付けの棚にはワインや果実水のラベルが張られたビンが所狭しと並んでいた。清掃の行き届いた空間は、まるで貴族の私室のように高い水準で維持されているのがひと目でわかる。
「ふむ、これもいいな。今度はこちらをこうして描いてみようか」
そして、部屋の中央付近に設えられた上等な椅子に腰かける人物が、楽し気に声を漏らしている。室内にいる人影はその男一人だが、延々と独り言を呟いていた。
こちらに背を向けて座る男は、対面に大きな画板の乗った三脚を置き、その表面に絵の具のついた筆を走らせている。どうやら絵を描いている様だ。
セラは見覚えのあるその背中に鼓動が速くなるのを感じながら、察知される危険を無視して顔を確認するべく静かに室内へ侵入する。
「どなたかな? すでに夕食は運んでいただいたはずだが」
「っ‼」
完全に気配を消していたにもかかわらず、背を向けた男は前を向いたまま声を発した。
明らかにセラの存在を認知した様子で発せられた言葉である。
「ふむ? メルティ殿ではなさそうだな。かといって全く知らぬ相手でもなさそうな気がするが……おや、これはこれは―――久しいなエクセラ。息災か?」
言いながら振り返った短い漆黒髪の男は、セラの顔を見て愉快そうに笑った。
とても気楽に、しかしどこか厳かに、軽そうでいて気品を感じさせる雰囲気をまとっている。
こんな地下の秘密部屋で、呑気にニコニコと笑顔を向けてくる男に、セラは盛大な溜息をついて応じた。
「こんなところにおられたのですか―――アレス殿下。探しましたよ。ええ、とっっっても」
グリーナが王都を起って数か月後、エクセラは主の下へ呼び出されていた。クローデン王国第二王子―――ガヴィロンドの執務室である。
「殿下、第三位エクセラ。参上致しました」
「うむ、待っていたぞ」
「火急の要件と聞きましたが、継承権絡みで何かご用命でしょうか?」
辺りをつけていたエクセラが言うと、ガヴィロンドは「いや、それとは別件だ」と言って続ける。
「これは密命である。今からする話は他言無用と心得よ」
「っ‼ はっ、我が騎士道にかけて」
「そう、かしこまらなくてもよい。グリーナなどは
「あ、あれはグリーナがおかしいのです」
慌てた様子でセラが言うと、ガヴィロンドはかっかっか、と笑いながら「確かにな」と頷いた。
「まっこと規格外の大人物である。ああいう人間こそが史に名を残すのだろうな」
「はぁ……」
よくわからないと首を傾げると、ガヴィロンドは唐突に切り出した。
「お前を呼び出したのは、まさにそのグリーナについてだ」
「っ、グリーナが何か……?」
「死んだ、と報告が来たのだ」
―――は?
「ぇ……今、なんと……」
「……順を追って説明しよう」
あえてなのか、取り乱すエクセラを置き去りにするようにして、ガヴィロンドは事務的に話す。
「数カ月前、グリーナには密命を授けた。我が弟である第四王子アレスを他の兄弟たちや、その勢力下にある者共の目から遠ざけ、来るべき時が来るまで隠匿するように、とな」
「アレス殿下、を?」
表向き、第四王子アレスは数カ月前に急病で亡くなった事になっていた。思い返せば、グリーナが引退したのもそのすぐ後である。
ガヴィロンドは他の兄弟たちとはそりが合わず敬遠していたが、唯一末っ子のアレスとはうまが合い、とても仲が良かった。だがアレスは性格こそ明るいが、国政や軍事、武術などにも全く興味を示さず、昼行灯と揶揄されるような男だったのだ。ガヴィロンドはそんな弟をいつも気にかけていた。そんな時、父王が鬼籍に入り、継承権争いが勃発した。突発的なことで跡目を正確に定めていなかったことから、この争いは激化すると読んだガヴィロンドは、アレスを他の兄弟たちから護るため、死んだ事にして腹心のグリーナを護衛に着け、秘密裏に王都から遠ざけたのだ。
グリーナは自身の故郷で、東の辺境にあるリトリヒト領へ向かい、伝手のある現地領主の協力を得てアレスの隠匿に成功した。定期的に報告も届いており、ガヴィロンドも安心して継承権争いに臨むことができる。そう思っていた矢先に、グリーナの協力者を名乗る人物から彼女が死亡した可能性があると密書が届いたのだ。ガヴィロンドもまさかと思ったが、それまで定期的に来ていたグリーナからの報告がしばらく途絶えていた事から、何か異変が起きていることは間違いないと考えた。
「グリーナは……本当に、死んだのですか?」
「わからん。詳しく調べたいが、手勢を送り込むにはリトリヒトは少々遠い。大っぴらに動いては兄弟たちにアレスの存在を感づかれる恐れもある……そも、グリーナに異変が起きたとあっては、あれも無事でいるのかどうか……」
「っ‼」
そう言ってわずかに憂いの色を見せたガヴィロンドの表情を見て、エクセラは自分を大いに恥じた。この方も溺愛する弟の安否がわからず不安なのだ。それにもかかわらず、配下であるエクセラを気づかうように話してくれた。
「申し訳ありません殿下。私としたことが、少し自失に陥っておりました」
「謝る事などない。グリーナを親のように慕っていたお前の気持ちは察するに余る」
話を戻そう、とガヴィロンドは表情を引き締める。
彼も三十代半ばと若いはずだが、早くから国政に携わってきた経験からか、眼光は鋭く落ち着き払った雰囲気はまさに国家の重鎮に恥じない風格だった。ただ、やはり心労も絶えないのか、早くも漆黒の髪に白銀の毛髪が混ざり始めているのは少々気の毒だ。
「エクセラ。そなたにはグリーナ、及び第四王子アレスの捜索と安否の確認を命じる」
「はっ」
「グリーナに関しても生存を期待するが、アレスについては行方不明と言っていい程に情報がない。臨機応変な対応が求められる故、そなたにはこの件に関する全権を委ねる。場合によっては、グリーナの任務はそなたが引き継げ―――そして」
表情を消したガヴィロンドは、エクセラの目をまっすぐ見て告げた。
「万が一グリーナが死亡しており、彼女を弑逆した者が判明したその時は―――お前の手で始末しろ」
「殿下……」
「勘違いするな、これは感情任せの判断ではない……この件は表沙汰にできぬ。下手人に法の下での公平な処罰を与える事はできぬだろうという理由に加え、あのグリーナが後れを取るほどの相手など、お前以外に討ち取れる者が思い浮かばなかったというのもある」
そう言いつつも、ガヴィロンドの言葉に確かな気づかいを感じ、エクセラは胸が熱くなった。
「心得ております。主命、確かに拝命いたしました。すぐにリトリヒト領へ起ちます」
「うむ。お前はしばらく
「承知いたしました」
「希望を捨てるでないぞ、エクセラ。幸運を祈る」
力強い言葉に送り出され、エクセラは執務室を後にした。
その日の夜、帰宅したゴードンを出迎えていくつかの騒動をどうにか無事に切り抜けたセラは、いつものメイドドレスの上に外套と目立たないよう地味な色合いの帽子をかぶって秘密裏に屋敷を出た。
一応同室のマイカに部屋で寝ているよう偽装を頼んで出てきたが、誤魔化しの類が苦手な彼女ではやはり心配なので急ぎ足で目的地へ向かう。
「二段街……クルミ亭の二階」
シュタットの街並みは領主屋敷のある上の階層を『一段街』とし、下に向かうに連れて数字が上がっていく俗称がある。二段街とは、屋敷のある区画のすぐ隣、比較的上流の住民が暮らしている地域だ。
目当ての店はすぐに見つかった。
クルミの背景に酒とパンの絵が描かれた看板の店に入る。昼は料理屋、夜は酒場になっている店だ。
入店後、店主のいらっしゃい、という言葉を置き去りにして二階へと続く階段を上る。店主は特に追いかけて来ない。この店の二階はそういう使い方をするところだからだ。
二階には複数の個部屋があり、どれも静まり返っている。
問題はどの部屋がセラの会いに来た人物の部屋かというところだが、セラは迷わず一番奥の部屋にノックした。
『至上の花は?』
「釣り鐘の青」
中から聞こえた問いかけに合言葉を返すと、扉の施錠が解かれた。
素早く入り込み、後ろ手に扉を閉めると再び鍵をかける。
闇に包まれた室内に窓はなく、椅子が二脚とテーブルが一つだけ置かれていた。それらが視認できたのはテーブルの上に立つロウソクの明かりがぼんやりと周辺を照らしていたからだ。そしてその明かりは、二つある椅子の片方に腰かけた人物の顔をも浮き彫りにする。
ウォルターだ。
「よう、遅かったな。セラ嬢ちゃん―――いや、今はエクセラ卿、かな?」
「この街にいる間はただのセラです」
「そうかい。しかし、ちゃんと来てくれて安心したぜ。王都と違ってここらに時計なんて高価なもんはそうそう転がってねーもんだから、時刻を数字で言われてもピンと来なくてなー」
帽子を取ったセラは、ウォルターの対面に腰かけて言った。
「ようやく探し物が見つかりました」
「お、そりゃ良かったな。深くは聞かないが、これで一安心だな」
「ええ……そちらの首尾は?」
セラが聞くとウォルターは懐から何かを取り出す動作をして、掴んだ物をテーブルの上に乗せる。それを見てセラは息が詰まった。
「こいつが遺留品だ。捜査担当の騎士に遺族へ返すって無理言ってどうにか預かってきた」
それはこの時代ではまだ珍しい、懐中時計だった。
普段文字盤を覆い隠す蓋の表面には、釣り鐘状の花弁を持った花を象った絵が彫られている。
「エンブレムクロック……」
「そういう名前の品なのかい?」
呟いたセラにウォルターが尋ねると、セラは徐に懐から取り出した物をそれの隣に並べるようにして置いた。
「っ、そうか。こいつは間違いなさそうだな……」
まったく同じ意匠の懐中時計が二つ並ぶのを見て、ウォルターは天を仰ぎ、深くため息を吐く。
「
「確認はしましたが、損傷が激しくて判別できませんでした」
そうかい、とウォルターが言うと、場を沈黙が支配した。
やがて、耐えかねたウォルターが口を開く。
「俺が言うことじゃねぇかもしれんが、悔やみを……ただの協力者って立場だったが、グリーナさんは亡くすには惜しい人だった」
「……お礼は言っておきます」
思い切り悲しみに浸りたいのは山々だが、セラには任務がある。
最低限の気持ちの整理をつけ、セラはウォルターに言った。
「それで、犯人の特定は」
「面目ねーが難航してる。死因は胸を刺された後川に落とされて溺死ってことらしいが、凶器も見つかってないし、捜査に当たってる騎士隊も録に犯人像が見えて来ないらしいしな……ただ」
「なんです?」
「いやな。俺もそれなりに長い間この街で人死にやら何やらの事件を起こしたり隠蔽したりしてきたわけだが、その経験から言うとこれだけでけー街でまったく痕跡を残さず人を殺すってほとんど不可能に近いんだわ」
何が言いたいのかわからず先を促すと、ウォルターは続ける。
「つまりやったのは証拠が見つかってももみ消せる人物。あるいはそういうことができるヤツがバックについてやがる人物なんじゃねぇかってな」
「なるほど、つまりは権力者―――ですか」
確証はねーが、と言いつつ、ウォルターはかなり本気の様子だ。
「この街で権力者と言やぁゴードン辺境伯だが……」
「それはありません。グリーナが自分を害する可能性のある男の下に探し物を隠すはずがありませんし、ゴードンの言動からもグリーナには一定の敬意が感じられます」
「ゴードンの旦那が余計に荒れ始めたのも、グリーナさんが亡くなった後からだったしなー」
「……そうでしたか」
セラから見てゴードンは人間として全く信用できない人物に見えたが、どうやら今の傍若無人な振る舞いはグリーナの死が関連していたらしい。それならアレス様が引き続き匿われていたことも納得できる。もっとも、グリーナが来る前からゴードンが自分勝手な人間だったことは屋敷のメイドたちから聞いているが。
「となると残りは必然的に……」
「やはり怪しいのは嫡男のアルフレット卿ですか」
セラの瞳に暗い色が宿る。
予期していたかのようなセリフに、ウォルターは軽く驚いた。
「やはりって、何かそれらしい話でも聞いたのかい?」
「いえ、私もそれを裏付ける証拠のようなものはありません。しかし、あの目……」
「目?」
「アルフレット卿の評判は優しく民にとって理解のある名君といったところですが、私はあの男が心から笑ったところを見た事がありません」
思い出すのは昼間にマイカと二人で屋敷に戻った時に一瞬目にしたアルフレットの微笑み。表情こそ笑っていたが、瞳の奥は氷の如く冷め切っていた。
他にもマイカがゴードンに襲われていた時も、その後ゴードンを止めに入った時も、アルフレットの目つきはひどく凍えきっていたように思う。
「セラ嬢ちゃんが言うなら確かだろうな」
リトリヒト領に来てから多くの人間と関わり、情報を集めてきたが、アルフレットの評判は良すぎて逆に引っかかるものだった。あんな冷たい目をした男が、後ろ暗いことを一切せずに人気を獲得できるだろうか。民もそんなに愚かではない。
「同業の存在を感じます」
「あん?」
「情報の操作や、隠蔽。ひいては殺人など。所謂『凶手』がアルフレット卿の配下にいるのかもしれません」
「なるほど……そういった噂は確かに耳にした事がある。裏街で似たようなことをやってる俺が与太話だと思う程度のもんだったが……」
考え込むウォルターに、セラは言った。
「逆に言えば、同業に存在を知覚されない程の腕前の者がいると考えられませんか」
「考えたくねぇな。そんな恐ろしい事」
ウォルターはお道化て見せたが、若干表情が青ざめている気がした。
「あくまで推測の域を出ませんが、もしそんな存在がいて、アルフレットがグリーナの抹殺を命じていたのなら、彼にとってグリーナが大きな障害になっていたという事になります」
「殺ったなら当然動機があるはずだもんな」
「私が見つけるまで探し物が無事だった事から、グリーナの目的には関係がないのかもしれません。となると、現状では判断しかねますね……」
セラはテーブルに並んだ二つのエンブレムクロックを大切に懐へしまい、席を立った。
「どうすんだい?」
「アルフレットに直接確かめてみます」
正気かよ、と驚く気配が伝わってくるが、セラは至極本気だ。
「探し物の無事が判明した以上、この件には早く決着をつけなくてはなりませんから」
「……セラ嬢ちゃんもそういう強引なところ、グリーナさんによく似てんなぁ」
「誉め言葉として受け取っておきますよ」
ようやくセラの表情が少しやわらぐ。
そして歩き出したセラの背中に、ウォルターが言った。
「アルフレットは裏街の綱紀粛正に肯定的だ。もし排除してくれるってんなら好都合。またなんかあったらいつでも言いな」
「感謝します」
短く礼を言って、セラは密談部屋を後にした。
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