第43話


「……これって」


何度も消しては書き直してを繰り返したのだろう。黒く皺が寄ってしまった進路希望調査の紙を手にしたまま、栞はただ立ち尽くすことしかできなった。


(……結局、何の力にもなれなかった)


玲が勇気を振り絞り自らの過去を語ってくれたというのに、自分が出来たのはただ彼の話に耳を傾けることだけだった。

あの狭い部屋の中で泣くことしかできなかった自分をマリーが外の世界に連れ出してくれたように、彼の背中を押してあげたかったのに。結局自分は去っていく背中を追いかけることもできなかった。


進路調査の紙を握りしめたまま立ち尽す栞の耳に、聞き覚えのあるメロディが響く。振り返れば、着信音を響かせる携帯を手に狼狽えるマリーの姿があった。

携帯の通話機能を一度しか使ったことがないマリーにとって、今は音が鳴り響くだけのそれをどう対処したら良いかわからなかったのだろう。


「シオリ、これはどうやったら音が止まるのかしら!」


栞の携帯電話の番号を知っている人間は限られる。その上、連絡をしてくる相手となれば基本的に家族、母親しかいないはずだ。

母親は仕事で帰りが深夜になるはずだが、まさか急に帰宅が早まり不在がばれてしまったのだろうか。慌てて携帯に手を伸ばせば、液晶に映る名前は栞が予想していない人物だった。


「……朝霧さん?」


栞や陽菜の部屋にあるロリータ服のブランド、『Lénaëlle (レナエル)』。

そのドレスをデザインするデザイナーである朝霧純の名前が、携帯の液晶に映っていたのだ。



◇◇◇



「朝霧さん、急にお店に来てほしいって……一体何の用事だろう」


昨晩、突然栞の携帯にかかってきた朝霧からの電話。

一度成り行きでモデルの代役を頼まれ、学校での一件でも助けてもらいはしたが、栞にとって朝霧はある意味で雲の上の人物だ。何せ憧れのブランド、レナエルのデザイナーなのだから。

マリーがつないだ縁はあるが、もうこれ以上直接会うこともない……そう思っていたのだが。

いったい何の要件かと問えば、返された一言は店に是非マリーと二人で来てほしいという内容だった。いったい何を企んでいるのか、楽しそうに笑うだけで本来の要件を電話越しで伝えるつもりはないようだ。

だからこそ、訝しみつつもこうして学校帰りにマリーを連れてレナエル本店へと向かっているのだが。


(……沢城君、やっぱり元気なかったな)


ふと、栞は学校で会った玲の姿を思い出す。今日は学校には来ていたが、どうしても直接声をかけることが出来なかった。玲も栞の様子に気付いていたのだろう。隣の席に座っているというのに、殆ど顔を見ることもないまま一日が過ぎてしまったのだ。

暗い気持ちのまま帰宅した栞に「今からレナエルに行こう」と声をかけてきたのはマリーだ。


「ねえ、シオリ。暗い気持ちのまま落ち込んでいても何も変わらないわ。こういう時はね、素敵なドレスに囲まれると気分が晴れるものよ」


昔の私もそうだったもの、とマリーは栞の手をとって微笑んだ。

確かに史実のマリーは歴史に残る服飾好きだ。ことあるごとに専属のデザイナーであるローズベルダンを宮殿に招き、数えきれないほどのドレスを作らせ流行させたことはよく知られている。


「……そう、だね」


確かにマリーの言う通り、部屋に閉じこもっていても何も変わらない。それに、レナエルに行けば何か玲の背中を押す糸口が拾えるかもしれない。そう思い、栞はマリーと共にレナエルに向かうことにしたのだが。


「なにかしら、すごい人だわ!」

「え、これって全部レナエルのお客さん?」


入り口の扉からは店の中に入りきらない客が道にあふれてしまっているのだ。マリーと共に正面扉から店内を覗き込めば、華やかなドレスが並ぶ店内は同じように色とりどりの服を着た女性たちでいっぱいだ。


「良かった、予約できた…!」

「こんなに並んでるから、もうだめかと思った……」


店から出てくる客たちは皆嬉しそうな笑みを浮かべ、まるで今にも踊りだしてしまいそうなほど軽やかな足取りで帰っていくのだ。


「これって……」


一体何が起きているのか、店の前で立ち尽くす栞とマリーに気付いたのか、店から出てきたばかりの一人の少女が声を上げた。


「ねえ、あそこにいる二人って」

「今回の新作ドレスのモデルしてた二人じゃない?」

「え、ほんとだ……!」


ざわざわと広がる声の波と、自分に向けられる視線に栞は息を飲む。

あの時、沙也加の笑い声と共に向けられた視線を思い出してしまうが、向けられた視線の熱が違うことにすぐに気が付いた。


(……これって)


きらきらとした、羨望の眼差しが自分とマリーに向けられていたのだ。その場から動けずにいる栞に、店の裏口からそっと声がかかる。


「二人とも、今表口からは入れないからこっちから回って」


店の裏口からそっと顔を出して手招きしていたのは、自分たちを招いた朝霧純その人だった。

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