第42話

陽菜が戻ってきたのだと嬉しそうに話す母親を、父は無情にも切り捨てた。

陽菜がまるで家にいるようにふるまい、息子であるはずの玲がまるで見えないように振舞う。まさか母親が見ている陽菜の幻影が、玲が女装した姿など露程も思わなかったに違いない。


外聞を何よりも気にする父は、母親である茜を金の力で療養施設へと入所させてしまった。もしかすると父親にも、僅かでも陽菜が命を落とした原因が自分にあり、陽菜の名前を聞くたびに沸く罪悪感から逃げたかったのかもしれない。

茜が家に居なければ、陽菜の名前を聞かなくて済む。

実際、母親を施設にいれてから父が彼女の元を訪れたことは一度としてなかった。

非情な話ではあるが、だがそれは玲にとってむしろ幸いだった。殆ど家に帰らなくなった父の目を盗み、陽菜の姿をして母親の元を訪れることは簡単なことだったからだ。


あの事件の後も相変らず、父親は玲の成績以外には無関心だった。

桜ヶ咲高校に合格し、学業に支障をきたさなければ、玲が何をしても父親はもはや知らぬ顔だったのだ。だからこそ、玲は母親の前で「陽菜」であり続けた。

「陽菜」でいる時はドレスを着て、姉のようにふるまうことが出来た。普段の自分とは違う、姉のように強い自分でいられる気がした。だが母親に「陽菜」と呼ばれるたびに、時折ふと恐ろしくなる。

陽菜が求められ、玲という存在が消えていく。それがただ恐ろしかった。



高校に入学し、少し経った頃のことだった。

施設からの帰り道、何処に行く当てもなく、ただ気まぐれで迷い込んでしまった歓楽街。女装もすっかり板についた自分を、声を出さなければ誰も男子高校生とは思わないのだろう。何度も執拗にくりかえされるナンパを交わし、玲は路地裏へと座り込んでしまった。一体どれだけそうしていたのか分からない。

気付けば雨が降り始めていたのか、髪の毛から大粒の雨の雫がこぼれ落ちていた。ふと目の前に感じる人の気配に顔を上げると、そこには黒いドレスを身に纏った女性……いや、男性が一人たたずんでいた。


「あら、何?捨て猫みたいにこんなところに一人で」


一見すると女性にも見えるその人が、本当は男性だということに玲はすぐに気が付いた。おそらく向こうも玲が男だということに気付いたのだろう。そっと目を細めると、女性にしては筋張った手を玲に向かって差し出してきた。


「いらっしゃい、風邪を引くわ」


纏っていたストールを玲に掛け、その人は玲をバーへと連れて行ってくれたのだ。



◇◇◇



「マスターはね、あの場所で私に名前をくれたの。『陽菜』じゃなくて『ヒナ』でいられる場所をくれた。あの場所では、あそこでだけは私は自由でいられるの」


自分や母親が求める姉の幻影ではない。

姉が着ることのなかったゴシック調の服を仕立て、そのドレスを着て「ヒナ」でいる時間は楽しい。だが、それでも時々ふと分からなくなることがある。


「ドレスを作るのも、着るのも好きなのは本当。でも時々、今の自分が本当になりたい姿なのか分からなくなる。少しずつ自分が消えていくのが、怖くなる時がある時がある」


陽菜でもヒナでもない、本当になりたい自分はなんなのだろう。そう思うことがあるのだと玲はつぶやいた。俯いてしまったその姿に、栞とマリーは声を掛けることが出来なかった。


「ごめんね、こんな話して。私そろそろ行かなきゃ、今日もバーの仕事があるから。また学校で」


この話は此処で終わり、という事なのだろう。

止める間もなく玲はカフェの外へと歩き出してしまう。その背中を今度は追いかけることは出来なかった。


「シオリ、あの子何か落としていったわ」


先ほどまで玲が座っていた席の下に、一枚の紙が落ちていることに気が付いた。おそらく鞄の中に仕舞っていたものが、何かの拍子に落ちてしまったのだろう。


「これ……」


拾い上げた紙に栞は見覚えがあった。クラスの中でまだ提出していないのは栞と玲だけだと注意を受けたそれは、間違いなく進路希望調査の紙だ。

だが、まだ何もかけていない栞の紙と違い、玲の紙は何か書かれている形跡がある。いや、何かを書いて消した……という方が正しいのだろうか。

透かすように掲げたその紙には、玲ならば間違いなく合格できるであろう難関大学の名前が書かれている。だがその下に、薄く残っていたのは服飾専門学校の名前だった。


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