第41話

この家の空気が良くある過程ドラマのように「暖かで穏やか」だったことなど、玲の記憶の中では一度もない。


いつも父の顔色をうかがう母親と、他者を顧みない父親。

そして母親と同じで父の敷いた道を歩き続ける自分。

その中で姉の陽菜だけが、その名前と同じ陽だまりのような場所だったのに。

最後の陽だまりさえ失ってしまった家の中は、まるで冷たい棺のようだった。それこそ数日前に姉を送り出した、あの沢山の花を詰めた冷たい棺のようだ。


陽菜の葬儀が住んでから父は殆ど家に帰らず、姉の最後を見届けた母親は部屋にこもり出てこない。

皮肉にも誰にも見られていないからこそ、父の目を気にすることなく玲は姉の、陽菜の部屋に入ることが出来てしまった。


「……入るよ、姉さん」


返事がないのは分かっている。

だが、いつもの返事代わりのミシンの音が部屋の中から響いてこないかと期待してしまう。当然そんな音は聞こえず、玲はそっと扉を開けた。


薄暗い部屋に灯りをともせば、部屋の中は陽菜がいた頃のまま、何も変わらない姿が残っていた。まるで今にも後ろの扉から陽菜が「勝手に入ったな」と言いながら現れるような気がしてしまう。


(……?)


だふと目に留まったのは陽菜の寝台の上に置かれた一冊の本だ。

ベルサイユから見るフランス服飾史。玲がこの部屋にいる時、必ず手にしていた本だ。

普段本棚に戻している本が、何故不自然にこんな場所に置かれているのだろう。そう思い玲が本を手にすると、頁の隙間からするりと何かが落ちてくる。

丸みを帯びた文字で書かれた、数行だけの手紙。それを書いたのが誰かを察するのは余りにも簡単だった。


「クローゼットのドレス、全部玲にあげる」


姉の、陽菜の文字だ。

きっと彼女は父親にあの話をした時から、自分の夢を叶えるために近いうちに家を出ることは決めていたのだろう。あんな最悪な結果になるなど、陽菜自身もきっと想像していなかったに違いない。

陽菜はずっと知っていたのだ。玲が本当はレナエルのドレスも、陽菜の作るドレスも好きだったことを。

幼い頃にドレスを貸してくれた陽菜だけは、知っていてくれた。


(……でも姉さん)


クローゼットを開けると、今はもういない姉の気配を感じてしまう。

姉が大好きだったドレス。

色とりどりの布で作られたそのドレスは、まるで春風のようだった陽菜に良く似合っていた。


(姉さんは知らなかっただろうけど)


姉が大好きで良く着ていたレナエルのドレスを玲はクローゼットから取り出した。

確かこれは中学生だった彼女が小遣いをためて買ったドレスだ。折角買ったドレスを父親に捨てられそうになり、大ゲンカしていたのも良く覚えている。


そっと腕を通せば、まだ成長途中の自分でもなんとか着られる大きさだ。

ワンピースにパニエを合わせ、姉が出かける時に着けていたウィッグを合わせてみる。悪戦苦闘しながらもなんとか着ることのできたドレスで鏡の前に立ち、玲は鏡の中に映る「その人」へと声を掛けた。


鏡に映る自分の姿は酷い有様だ。気慣れていないドレスはぐちゃぐちゃで、ウィッグも乱れてしまっている。それでも姉の面影を見つけてしまうのは、やはり姉弟だからなのだろうか。


「……ドレスも好きだったけど、姉さんに憧れてたんだよ」


確かに玲はドレスが好きだった。

だが何よりも、この家の中で絶対に自分が「好き」なものに対して諦めない彼女に憧れていたのだ。

この冷たい家の中で、陽菜だけはいつだって玲の味方だった。この部屋でミシンを踏む姉の背中を見ながら「本当はあんな風になりたい」と何度思った事だろうか。

ため息交じりにドレスを脱ごうとした瞬間、玲の耳に姉の名前を呼ぶ声が届く。


「……陽菜?」


誰もいないはずの陽菜の部屋から物音がしたので、母親が様子を見に来てしまったのだろう。


「か、母さん……これは」


父親と違いドレス姿を見ても母親は突然叱ることはないだろう。

だが、亡き姉の部屋に勝手に入りロリータ服を着ていたことには何か言い訳をしなければいけない。だが、何といえば納得してもらえるだろうか。

だが、玲が口を開く前に母親の腕に抱き留められてしまったのだ。


一体いつから食事をしていないのか、元々細かった母の体は今にも消えそうな程華奢な体になってしまっていた。


「陽菜、陽菜。帰ってきてくれたのね、良かった……」

「母さん、違う。俺は玲だよ」


くぐもった声でそう伝えても、自分の声は母親には届かない。確かめるように何度も自分の顔を覗き込み「陽菜」と名前を呼ぶその眼が、自分を、玲を写していないことに気が付いてしまった。


(ああ、この人は壊れてしまったんだ)


父親の言う事に逆らえず、陽菜の味方をすることも一度もなかった。

最後には目の前で我が子を失ってしまった母親の罪悪感はどれほどだったのだろう。自分勝手なことだ、と薄情な自分が感じる一方で陽菜を失ってしまった悲しみはよく分かる。

目の前に失ったはずの娘が現れれば、陽菜が戻ってきたと信じたくなる気持ちも理解できる。だからこそ、失意の底にある母親をもう一度深い絶望の中に叩き落すことはどうしてもできなかった。


「そうだよ、母さん。陽菜だよ」


玲にできたのは偽物の笑顔で、陽菜のふりをすることだけだった。

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