第40話


「……お前は何を言っているんだ」


リビングに響く冷たい声と共に響いた音に、叩かれたのが自分ではないと分かりつつも玲は縮こまってしまう。

おそらく玲の隣にいる母親も同じなのだろう。

娘が父親に手を挙げられたというのに、制止の声一つ上げることができないのだ。父親の言葉に逆らうことが出来ない、その点で玲と母親は全く同じだった。


「だから、大学受験はしないって言ってるの。私行きたい学校があるから」


だが頬を腫らした当の本人だけは、そんなこと全く気にしていないとでもいうように父親の前で凛と胸を張っている。彼女が掲げているのは入学案内。それも大学ではない、いわゆる服飾専門学校と呼ばれるものだ。


「私デザイナーになりたいの、そのための勉強をしたい」

「そんなこと、許されると思ってるのか?何のために桜ヶ咲高校に通わせたと思ってるんだ」

「別に私が入りたかったわけじゃない!何回話しても聞く耳も持たなかったのはそっちじゃない。もう決めたから」


その言葉を聞く限り、姉が父親に話しをしたのはこれが初めての事ではないはずだ。おそらく玲が知らなかっただけで何度も訴えて、無視を貫かれてしまったに違いない。だからこそ、これが彼女にとっての最後の抵抗だっただろう。


「今まで父さんの言う通りにしてきたじゃない。中学も、高校も……いわれるようにやってきて。私は自分の好きな事を仕事にしてみたい。好きな事を勉強して、自分の力で夢を叶えてみたいだけなの」

「……なら、出ていけ。今すぐこの家から出ていけ!」


その言葉は、自分の敷いたレールに従わない娘など家族の一人として認めない。そう言っているのと同じだった。


玲の前では決して涙を見せることがなかった陽菜の顔が歪む。娘とは認めない、父親からそう言われるのは陽菜にとってもつらい言葉なのは当然のことだ。

大粒の涙を零し、入学案内を掴んだまま玄関へ向かって走り去る足音が響く。扉が乱暴に締まりまるで嵐が去ったような静けさの中、父親の冷たい声が響く。


「玲、お前は陽菜のようになるなよ」


それは何度も言われて続けてきた言葉だ。

だが、その言葉を聞いた瞬間、玲は駆け出していた。

今まで一度も父親に逆らったことはなかった。だが、何故か今だけは、姉を追いかけなければいけないと思ってしまったのだ。

姉の姿を追いかけ廊下に飛び出るがもう彼女の姿はない。

一階に向かうエレベーターを追いかけ必死に階段を駆け下り、マンションを飛び出した。マンションの少し先の大通り。其処の横断歩道を俯きながらわたる陽菜の姿を見つけ、玲は慌てて追いかける。


「姉さ……」


叫んだその声が陽菜に届くことはなかった。

点滅する青信号を渡る陽菜の体が、まるで玩具のように宙へと浮いたのだ。


耳を割くような車のブレーキ音と、人々の悲鳴。耳をふさぎたくなるような音であふれているはずなのに、玲の耳には何も聞こえなかった。まるでモノクロの無音映画を見ているように、突然信号に侵入してきたトラックに跳ねられた細い身体が地面に叩きつけられる姿だけが切り取られて視界に入る。


何も聞こえていないはずなのに、不思議と姉の口がゆっくりと動くのだけは分かった。


『ごめんね、玲』


音もなく陽菜の体が地面へと叩きつけられる。

呆然としたままその場から動けない玲の横を、一人の女性が走っていくのが分かった。


「ひな、陽菜!」


姉を呼ぶ母の声だ。

きっと一瞬で何が起きたのかを察したのだろう。

その声と共にようやく玲の耳に音が戻ってくる。何があったのかと集まってくる人々のざわめき、救急車を呼べと叫ぶ誰かの声。

路上から聞こえるクラクションの音。

遠くから聞こえてくるサイレンの音を聞きながら、玲はその場からまだ動くことが出来なかった。


(……もう、間に合わない)


人ごみをかき分けて姉の顔を見たわけではない。だが、あのモノクロの景色の中でゆっくりとこちらを見た陽菜の顔を見て分かってしまった。


あの時、陽菜がこちらに伝えた声なき声が最後の言葉だったのだと。

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