第36話
「面会希望でしたら、この紙に入院している方の部屋番号、お名前を記入してください」
「あ、あの。私たち……」
女性から掛けられた言葉に栞は口籠ってしまう。
さて、なんと言い訳をしたらいいのだろうか。部屋番号どころか、誰がこの施設にいるのかも何もしらないのだ。
青ざめる栞の隣で、マリーが静かに口を開く。
「私たち、三〇四号室のサワシロアカネさんに会いに来たんです。こちらにいらっしゃるでしょう。待ち合わせに遅れてしまって」
迷いなく言い放つマリーに、栞は目を見開いた。茫然する栞に気付いたのか、マリーは悪戯じみた笑みを浮かべると栞の耳元でささやいた。
「私、人の名前を覚えるのはとっても得意なの」
かつて宮廷で毎日のように繰り返されていた退屈な貴族の挨拶。
ベルサイユ宮殿を訪れる貴族たちに、退屈な挨拶を返すだけの王妃の努め。数多の貴族達の名前と顔を覚えるだけの、退屈な日々。だが、そうした貴族たちを覚えることが王妃としての務めでもあった。
マリーは玲が電話で話していたあの一瞬で、マリーは聞こえてきた名前も部屋番号も覚えていたというのだ。
一切迷いなく答えられた事が功をなしたのだろう。先ほどまでどこか訝し気な視線を浮かべていた女性も、どうやら栞とマリーを正式な面会者として認識したらしい。栞へと目を向け、ようやく身にまとっている制服が桜ヶ咲高校のものだと気づいたのだろう。
訝し気だった表情を崩し、にこやかに微笑んだ。
「ああ、玲君のお友達だったのね、さっき着いたばかりだから部屋にいるはずよ。今日は茜さんの調子も良いから」
そう言って笑う女性は、栞たちを見て何処か安堵しているようにも見えた。まるで玲が自分たちをここに連れてきたことを喜んでいるようにもみえる。
「あ、ありがとうございます」
栞は女性に向かって慌てて頭を下げる。
女性が指差した方向は、確かに先ほど玲が上がっていった階段だ。
(でも、良いのかな……)
上手くいった、といえば聞こえはいいが罪悪感が栞の胸の奥に滲んでくる。ここまで勝手に後をつけ、盗み聞いた話で面会用のパスも手に入れてしまった。本当は許されることではないのはわかっている。
だが、どうしても昨日玲が見せたあの寂しげな表情を忘れることが出来なかった。
(きっと私たちに、まだ言いたいことがあるはずなんだ)
繁華街で別れる時、玲は何を自分たちに何かを伝えたかったのだろう。だが言えなかった。彼自身が、最後の一歩を踏み出すことが出来なかったのだ。
(私の一歩はマリーが手を引いてくれた)
マリーと出会わなければきっと自分は今もあの狭い四畳半の部屋の中で一人蹲り、泣いているだけだったかもしれない。マリーが手を引いてくれたからこそ、今の自分が在る。
学校へ向かう前、自分はマリーに酷いことを言ったのだ。
嫌われても見放されてもおかしくないことを言ったのに、マリーは自分を信じてくれた。大切だと言ってくれた。自分で踏み出せない一歩も、誰かが手を引いてくれれば歩き出せることをマリーは教えてくれたのだ。
「シオリ、大丈夫?」
「大丈夫、行こう」
一向に歩き出さない栞を心配していたのだろう。顔を覗き込んできたマリーに微笑み、栞は歩き出した。
◇◇◇
(綺麗な場所、まるで森の中にいるみたい)
白で統一された廊下を歩きながら、栞は窓から差し込んでくる日の光に目を細める。資料の中で施設の事を読んだ時は、勝手に牢獄のような冷たい場所を想像していたが、今歩くこの場所はかつて想像した場所とは真逆の場所だ。
「三〇四号室、あそこだわ」
たどり着いた部屋には、確かに先ほど聞いた名前と同じ「沢城茜」という名札がかかっていた。既に玲は中にいるのか、廊下に彼の姿はない。だが、病室からは僅かに誰かと会話する声が聞こえてくる。
聞こえてくる片方の声はふたりが知っている玲のものだ。
無言のままマリーと顔を見合わせ、二人は僅かな扉の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
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