第35話
「一体どうしたの?そんなに急いで」
「沢城君に会って、確かめたいことがあるの」
息を切らして走る栞に手を引かれ、マリーも必死でその背中を追いかける。何があったのか話してくれないが、あの栞がこれほど急ぎ焦っているのだ。きっと、彼女を駆り立てるほどの、何か大変な事があったに違いない。
「いたわ、あの子よ」
マリーの声に顔を上げれば、昨日訪れたマンションのエントランスに見覚えのある姿が目に入った。黒いドレスに身を包んだその姿は、間違いなく玲の姿だ。
どうやらこちらにはまだ気が付いていないようだ。
「……っ」
だが、栞は名前を呼び掛けた口を思わず閉じる。
其処に居たのは間違いなく玲なのだが、浮かべた表情はまるで人形のように無機質なものだったからだ。昨日バーで見せてくれた、あの楽し気な姿とはまるで別人のようだ。
可愛らしい恰好をするのが好きなのだと話していたとは到底思えない、思いつめたような表情に栞は声を掛けることが出来なかった。
「ねえ、あの子どこへ向かっているのかしら?」
マリーの言葉に、玲の向かう先がバーのある方向ではないことに気が付いた。
女装をしているからてっきり昨日のようにバーに行くものだと思っていたが、どうやら向かう先は別の場所のようだ。
「あの子を追いかけるの?いいわ、気が付かれないように追いかけるなんてドキドキするわね」
まるで探偵気分とでもいうようにはしゃぐマリーと共に、二人はひたすらに玲の背中を追いかけた。
だが、突然立ち止まった玲に栞も慌てて足を止める。栞の背中にぶつかってしまったマリーから小さな不満の声があがる。
「……シオリ、いきなり止まると危ないわ」
「しっ。マリー、静かに」
立ち止まった玲の死角になる路地裏にマリーを引き込み、二人は息を潜めた。そっと顔をのぞかせれば携帯電話を耳に当てる玲の姿が見えた。どうやらどこかに電話をかけているようだ。
「……はい、そうです。三〇四号室の沢城茜に面会希望です。今日は大丈夫そうですね、では今から向かいます」
人の通話を盗み聞くことなど、到底褒められたことではない。だが、雑踏に紛れそうになる玲の声に栞は必死に耳を澄ませる。
(面会ってことは……誰かに会いにいくのかな)
だが街中のざわつきのなかで、栞の耳では一体誰に会いに行くのかまでは拾い上げることができなかった。
通話が終わったのだろう。深いため息とともに再び浮かない表情で歩き出した玲の背中を、二人は慌てて追いかけた。
追跡していることに気付かれないよう細心の注意を払いながら電車に揺られ、降りたことのない名前も知らない街を歩きようやく玲は足を止める。
(……え、ここって)
暗い表情の玲を追って辿り着いた建物を前に、栞は足を止める。まるで森の中を思わせる木々から覗く白い建物。吸い込まれるように建物の中に入る玲を、今度はすぐに追いかけることが出来なかった。
急に足を止めてしまった栞に、隣に立つマリーは怪訝そうに首を捻る。せっかくここまでたどりついたのに、このままでは玲を見失ってしまう、きっと彼女はそう言いたかったのだろう。
「ねえ、シオリ。この建物は何?」
「ここは、たぶん」
栞は続く言葉を飲み込んだ。
実際に訪れるのは初めてだが、一度栞は紙の中でこの建物をみたことがある。不登校で学校に通えなくなっていた頃、母親が集めてきた資料の中でこの建物を見たことがあった。
ストレスケア施設、一時的にとどまり傷ついてしまった心を癒すための場所だ。
母親も栞を復学させるために手あたり次第に資料を集めていたのだろう。あの頃の栞は殆ど目を通すことなく、資料の束をそのままゴミ箱へと捨ててしまっていたが、まさか今こうしてこの場所に自分の足で訪れることになるとは思わなかった。
「早く追いかけないと、見失ってしまうわ」
いつまでたっても応えない栞にしびれを切らしたのだろう。一向に動こうとしない栞の手を引き、マリーは建物の中へと足を踏み入れた。
「良かった、居たわ。追いかけましょう」
外壁と同じ、白で統一された空間で玲の黒いドレスは良く目立った。エントランスの先にある階段を上るその姿を追いかけようとした二人に、背後から制止の声がかかる。
「面会希望の方ですか、でしたらこちらで手続きを」
その言葉に、栞はぎくりと振り返る。
エントランスの受付から身を乗り出すように声をかけてきたのは、白い制服姿の女性だった。どこか怪訝そうな表情を浮かべるその姿に、栞は先ほど路地裏で聞いた玲の言葉を思い出した。
そうだ、彼があの時電話で面会の話をしていたではないか。つまり、玲がここに来た目的は施設に入院している「誰か」に会いに来たということだ。
(流石に、これ以上は追いかけられない)
本来こういった場所の面会は許可を得た家族や知り合いのみが許される場所なのだ。手続きを踏まず、勝手に入り込むことはできない場所だ。
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