第26話

「お、おお、邪魔します」

「シオリ、声が震えてるわ!でもわかるわ、だってこんな高い所に人が住むだなんて……信じられない!見てあんなに人が小さいわ。この塔は崩れてしまったりしないわよね?」

「ははっ、マリーさんって面白いね」


家に迎え入れてくれた玲の前で栞とマリーは、それぞれ別の理由で完全に固まってしまっていた。

マリーは地上数十階という高さを経験したことないのだろう。十八世紀といえば、飛行機などはまだ遠い夢の話。せいぜい熱の力で飛ぶ気球が発明されたばかりの頃だ。マリーにとって空という場所は栞が想像している以上に手の届かない遠い場所だったのだろう。

思い返してみれば、栞も初めて両親にスカイツリーに連れて行ってもらった時はあまりの高さに足がすくんでしまったものだ。

だが、栞が固まってしまった理由はほかにある。

マンションのエントランスからある程度予想は付いていたのだが、栞たちが迎え入れられたその部屋は想像をはるかに超えていたのだ。


(……これ、マンションじゃないよね?絶対に億ションだよね?)


都内でも有名な私立の進学校である桜ヶ咲高校には成績優秀な生徒が集まるが、それ以上に裕福な子供たちが多い事でも有名だ。大学病院の医者や、弁護士、有名企業の社長などを親に持ち、栞にとって雲の上の暮らしをしている子供たちが数えきれないほどいる。

栞にとっては別の世界の話だったが、それでもこうしてその世界の伊一端を見せられると固まってしまうのも仕方がない事だろう。


「あ、あの……これ。つまらないもの、なんだけど。家にお邪魔するから」


栞は小遣いで買った菓子の箱を玲へと手渡した。

栞の家の近くにある、昔ながらの小さな和菓子屋の菓子折りだ。栞はここの和菓子が大好きなのだが、流石にこの高級マンションを訪れる手土産としては場違いにもほどがある。

だが玲は笑って栞からそれを受け取った。


「気にしなくて良いのに、この家……基本的に俺しかいないから」


その言葉にマリーと栞は思わず顔を見合わせた。


「父親は仕事で殆ど返ってこないし、母さんは、ちょっと理由があって家を空けてるんだ。だから俺一人」


何でもない、当たり前のことだというように玲は話すが、こんな広い家に一人きりというのはあまりにも寂しいのではないだろうか。

だが、それよりも重大な事実に栞は気が付いてしまった。

両親が不在というのは家庭の事情もあるのだろう。これ以上詮索してはいけないと分かっているが、それはつまり年頃の男性が一人で暮らしている家に足を踏み入れてしまった事になる。それは流石にまずいのではないか。


「……あの、やっぱり私達」


マリーを連れて家に帰ろう、そう言おうとした栞の言葉はマリーによって遮られてしまった。


「ねえ、貴方が本当に昨日の……あの黒いドレスを着たお嬢さんなの?私いまだに信じられないわ!」


どうやら栞と違い、マリーは帰るつもりは一切ないようだ。それどころか目の前の青年が本当に昨日の女性と同一人物か確かめたくて仕方ない、という興味津々の目をしている。こうなってしまったマリーを宥めて家に連れ帰るのは不可能だろう。


「まあ、実際に見てもらった方が早いかなと思って。秘密を教えてあげるって言ったのは俺だし。ところで、楡井さんたちって今日は帰りは遅くなっても大丈夫?」

「えっと……何で?」


思わず不審げな視線を送ってしまっていたのだろう。玲は少しばかり慌てたように手を振った。


「いや、変な理由じゃないから安心して。この後二人を連れていきたい場所があって……絶対に危ない場所じゃない、約束する」


栞は改めて目の前に立つ青年へと目を向ける。あの牢獄のような教室の中で、異彩を放っていた男の子。いまだに信じられないが、方向性は違えど彼の事を知ることが出来るというのなら、ついていっても良いのかもしれない。


(……でも)


母親は今日は夜勤で朝まで家に帰らない日のため、遅くなること自体は問題ないが、彼が自分をだましていないという確証はないのだ。

そんな栞の不安を溶かすように、隣に立つマリーが声を掛けてきた。


「大丈夫よ、シオリ。私がついているわ」


その声に栞は顔を上げ、ゆっくりと頷いた。


「マリーも一緒なら」

「もちろん、二人に来てほしかったから。でも……そうだな。その服だとちょっと。まさか制服で来るとは思わなかったから」


玲はマリーと栞を交互に見比べ、少しばかり困ったように肩を竦めて見せた。話しぶりからすると制服で訪れてはいけない場所なのだろうか。


「二人ともついてきて。俺も着替えるけど、二人にも服を貸してあげるから」

「え、待って……沢城君」 


ついてこい、と手招きれマリーは無邪気に彼の背中を追いかけていく。


(いやいやいや、流石にまずいでしょ!)


家に上げてもらうことは想定していたが、彼が向かっているのはきっと自室のはずだ。ほぼ一人暮らしの家に上がってしまったのは不可抗力だったとしても、流石に同じ年頃の男子高校生の自室に足を踏み入れる勇気は栞にはまだない。そもそも男子学生の部屋というのが一体どんなものなのか、まったく想像がつかないのだ。

だが、先を歩くマリーの口から漏れたのは、栞が全く想像していないものだった。

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