第17話
こつ、こつ、こつ
開け放たれた教室の後ろ扉から、廊下を歩く軽快な音が響く。
だが可笑しい。学校指定の上靴では、廊下を歩いたところでこんな美しい音が響くわけがない。そして靴の音と共に徐々に近づいてくる、さらさらとした衣擦れの音。
昔話や童話の中でも必ず何かが起きるとき、それは美しいドレスの衣擦れの音と共にやってくると相場が決まっている。そして、それはこの現実でも同じだ。
こつ、と最後の足音が止まる。
玲は自分がいつの間にか眠ってしまい、夢でも見ているのではないかと何度も目を瞬かせたが、目の前の存在が消えることはなかった。
花やレース、リボンで飾られたプラチナブロンドの髪を高く結い上げ、歴史の教科書の中でしか見たことがないような中世のドレスをまとった少女が一人。華奢な体に見合わない決意を込めた眼差しで、教室の中を見つめていたのだ。
「ごきげんよう、皆様。お集まりで結構ですこと」
お邪魔しますわね、と一見すれば穏やかな言葉を放ち、少女はゆっくりと教室の中へと足を踏み入れた。一歩歩くたびに、まるで花畑にいるような香りが広がっていく。
少女を見つめているのはいまや玲だけではない。玲を含め生徒達全員がいまや少女に目を向けているが、誰一人として口を開くことができないのだ。
あの沙也加ですら、ぽかんと口を開いたままただ机の横を通り過ぎていくドレス姿の少女を見送ることしかできていない。
誰一人として口を開かない、無音の教室の中を一人のドレス姿の少女がゆっくりとすべるように歩いていく。
少女の目的の場所は、本来教師が立つ場所である教団だった。教室のもっとも前、クラスのすべてが見渡せる場所に立つと少女はようやく足を止めた。
「——っ、なに。あんた、一体どこから来たの?うちの生徒じゃないわよね」
明らかに学校という場に場違いな服を身にまとっているとはいえ、相手が自分達と同じ年頃の少女だということに油断したのだろう。
普段の調子を取り戻したのか、強気に言葉を浴びせる沙也加に少女は一切答えることなく、淡いピンク色に彩られた唇から発せられたとは思えないほど重く、冷たい声で静かに言い放った。
「……誰の許しを得て、わたくしの前で口を開くの?」
まるで氷ような一言に、再び教室が静まりかえる。先ほどまで必死に口を動かしていた沙也加でさえ、まるで石像のように固まったまま動かない。いや動くことができなかったのだ。
それほどにまで同じ年頃の少女の声とは思えないほど、発せられた声は威厳にあふれていた。
おかしな話だが、ただの教室の前に置かれた教壇にも関わらず、少女のたつその場所だけかの有名なヴェルサイユ宮殿にいるかのような、そんな幻すら見えてしまうほどだった。
誰であれ、目の前の少女に逆らうことは許されない。目には見えない本能的な畏れがクラス中に立ち込めていく。
「……揃って同じ髪型に同じ服装。それにまるでお人形のように同じ顔。話題は決まって誰かの悪口。本当にここはあの場所とそっくりね」
服装や見た目こそ違うが、マリーは嫌というほど同じような光景を目にしてきた。かつて嫁いだころのヴェルサイユで自分を取り巻いていた貴婦人たち。
無意味な慣習と伝統ばかりを重んじて、自分の意志で何かを変えようとすることすらせず誰もがきれいに着飾ったおそろいのお人形のようだった。
無意味な伝統を何か一つ変えようとするたびに、見えない場所で陰口をたたかれ続けたことをマリーはよく知っている。
見た目だけは綺麗なだけのお人形を詰め込んだ、窮屈な鳥かごのような世界。
「シオリの言っていた通りだわ」
その言葉に、クラス中の生徒たちが一斉にぐるりと少女からクラスの中で唯一空いた席へと視線を動かした。目の前の奇抜な格好をした少女が、今朝方自分たちが笑い囃し立てることでクラスから追い出した楡井栞の知り合いだと気が付いたからだ。
目の前の少女が異世界からやってきた不思議な存在などではなく、自分たちが異端視している落ちこぼれである少女と知り合いだということが分かった瞬間、クラスの中に張り巡らされていた緊張がわずかに緩む。
「……楡井さんの知り合い?あ、もしかして昨日写真に一緒に写ってた人?やっば、やっぱり変わり者の友達ってやばい奴ってこと」
くす、と最初に笑い声をあげたのは案の定、久城沙也加だった。
沙也加は手元の液晶に映る写真とマリーの姿を交互に見比べ、勝ち誇ったように携帯をかざして見せた。
白く光る液晶に浮かぶ写真を前に、マリーは薄く目を細める。確かにそこに映っていたのは昨日街を散策するマリーと栞の姿だった。
だが、朝霧がマリーに見せてくれたものではない。幸せな時間を閉じ込めたあの一枚に比べ、沙也加が見せるその写真は明らかに悪意を孕んだものだというのが一目で見て取れた。
こつ、と教団から降りたマリーはまっすぐに沙也加の席へと足を進める。
「貴方がシオリのことを貶めたの?」
「なんのこと、私は…」
「本来なら私が許す前に口を開くことはエチケット違反なのだけれど。今回は特別に許しましょう」
「はあ?何言ってるの、この人頭おかしいんじゃ……」
「もう一度だけ聞くわね。貴方が、私のお友達を傷つけたのかしら?」
その瞬間、教室の中でわずかに緩み始めていた空気がふたたび凍り付く。自分と殆ど変わらない年齢の少女が口をひらいただけだというのに、沙也加は言葉を紡ぐことはおろか、息をすることすらできなくなってしまった。
「……っ」
寒いわけでもないのに震える手を、沙也加はただ抑えることしかできない。
これではまるで、自分たちの嘲笑になすすべもなく震えていたあの子と…楡井栞と同じではないか。
「ねえ、教えて頂戴?シオリは貴方達を傷つけたの?何か酷いことをした?」
沙也加に問いかけるその声は、まるでマリー自身が自分に問いかけているようでもあった。
震えるだけで何も答えることの沙也加から目を放し、マリーはぐるりと教室に座る生徒たちを一望する。だが誰もが気まずげに視線をはずし、ただじっと机を見つめるだけだ。
「あの子は何も悪い事なんてしていないはずよ。ただ、自分が好きなものを誰よりも大切にしていただけ」
マリーの耳に、少しずつ近づいてくる足音が響く。やはり学校という場には不似合いな、それでいて少しでも早くここまでたどり着こうと走る足音。それが誰の足音なのか、マリーは知っていた。
「この場に居る誰も、あの子を傷つける資格なんてないわ。無意味な規則に縛られて本当の自分も、自分が大切にするべきものも分からなくなっているような貴方たちが……自分の大切なものを知っているあの子を笑って良いはずがない」
マリーは静かに息を吸うと、再びゆっくりと口を開く。それはまるで厳かな宮殿で、臣下に命を出す王妃のようだった。
「もう一度聞くわ。貴方がシオリをいじめたの?私の大切な友達を傷つけることは、私が許さない」
沙也加はただ震えながらマリーを見上げることしかできなかった。
助けを求めるように周りを見ても、先ほどまで沙也加に同調していたクラスメイト達は誰もが慌てて沙也加から目を背けてしまう。自分達は何もしていない、沙也加一人だけが栞を追い立てたのだというかのようだ。
沙也加は唇をかみしめると、乱暴な手つきで携帯に保存されていた何枚もの写真を消していく。ただ写真を消すだけ、それだけのことだが沙也加にとっては酷く屈辱だった。
目の前の少女が現れるまで、このクラスの支配者は自分だったのだ。
突然現れた少女のせいで、一瞬の間に誰もが自分の事を見捨てていった。それが悔しくてたまらなかった。
「ほら、消したわよ。これで良いんでしょ?」
沙也加が苛立ちを含んだ言葉を言い終えた瞬間、教室の扉が鈍い音を立てた。
マリーが顔を上げれば、其処には息を荒げながら扉に手をかける栞の姿があった。
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