第16話

「あー……この時間の自習とか、だる」


昼すぎの、どこか気だるげな空気が流れる教室に一人の少女の声が響き渡る。クラスの優等生、いや教師や大人がいる前では優等生といった方が良いだろう。久城沙也加の声だ。

本来数学の授業が割り当てられていた五限目の授業だが、高齢の男性教員が急遽体調を崩したために自習となってしまったのだ。


「ちょっと、沙也加。携帯ばっかり見てるけど課題終わったの?」

「とっくに終わったに決まってるじゃん、こんな簡単なの」


写していいよ~という沙也加の声に、周りにいた数名の生徒達から黄色い声が上がる。秀才である沙也加の答えならば間違いがないからだ。厳しい進学校とはいえ。教師という大人の目がなければ内情はこんなものだ。

なんの変哲もない平和な午後の教室。

どこにでもあるような、当たり前の光景。


(……ぞっとする)


だからこそ、この何の変哲もない光景をおぞましいとすら感じてしまう。教室の一番後ろの座席で上体を机に伏せたまま、沢城玲は腕の隙間から教室の中を覗き見た。

教室の中央で笑っているのは女子生徒たちのカーストの中でも上位に位置する久城沙也加だ。その周りには彼女の取り巻き達が話を盛り上げるように時折相槌をうっては笑い声をあげている。

自習中というには少しばかり騒がしいが、それでも教師が不在の教室で年頃の学生たちが集められればこの程度の煩さは当たり前の光景だ。

平和で楽し気、上澄みだけは仲の良いクラス。

とても今日の朝、クラスメイトの一人である少女を嘲笑で追い立てたクラスとは思えない。


(……楡井、楡井紫)


玲は視線を自分の隣へと向け、ぽっかりと空いた空の机を前に誰にも気づかれないよう小さな溜息を洩らした。他の机に比べ明らかに傷や汚れがないことが、その机の持ち主が殆どその机を使っていない証だった。


(手を……離さなければよかった)


部活動に参加していない玲が普段学校に来るのは予鈴がなるギリギリの時間だ。本来学生なら、時折遅刻しつつも授業までの自由時間に学友たちの親交を深めるのが健全な学校生活なのだろう。

だが、玲はこのひどく息苦しい学校が嫌いだった。人の顔をみればにやにやと品定めするような笑いや、明らかに蔑むような眼を向けてくる存在と仲を深められるはずがない。


(……でも、楡井が来てるってわかってれば)


だが、後悔してももう遅い。自分が来た時には全て後の祭りだった。

すでに傷つけられボロボロの彼女を自分には引き止める術がなかったのだ。

いつか返せる日が来るかもしれないと、鞄の中にせっかく忍ばせてきたものがあるというのに。

玲はちらりと机にかけられた鞄に目を向け、落胆の溜息をついた。


「はあ……」

「あれ、どうしたの?大きい溜息なんてついて。もしかして天才の沢城君にもわからない問題があったとか……それとも、楡井さんの席なんて見てもしかして、心配してるの?」


どうやら机に伏せていたせいで、いつの間にか沙也加の視線がこちらに向いていたことに気付かなかったようだ。


「沢城君と楡井さん、変わり者同士お似合いなんじゃない。付き合っちゃえばいいじゃん」


顔を上げれば、携帯を手にしたままにやにやと性格の悪い笑みを浮かべこちらを見る沙也加と目が合った。沙也加は何かと自分の事を目の敵にすることが多い。

別に、玲自身が彼女に何かをした、という覚えはない。

あえていうならば、全国模試で常に全国上位である彼女の名前の上に必ず自分の名前があることが理由だろうか。

もし自分が表面上だけでも久城沙也加のような大人しく、教師や学校に対して従順な優等生であれば彼女の態度も違ったのだろう。


日本有数の進学校であり、他に類を見ないほど厳しい校則の学校の中で沢城玲という存在は明らかに異質な存在だった。

黒で統一された頭髪の中で、明らかに浮くほどに明るく染められた髪。当然地毛ではなく、人工的に染められた髪を目が隠れる程度まで長く伸ばしている。そのうえ学校指定の制服の中にパーカーを仕込み、校則など完全無視の格好だ。

制服を着て居なければ、玲を見てかの有名な桜ヶ咲高校の生徒だとは思わないだろう。

明らかに校則を逸脱した格好をしているにも関わらず、教師達が玲に強く出ることができない理由を玲自身が一番良く知っていた。

見た目こそ不良とまではいかないが、明らかにこの学校の中では落ちこぼれ……言い方を変えれば異端児にもかかわらず、彼の成績自体は目を見張るものがあった。どの教科も全国模試を受ければ上位に名前が並び、まだ受験には時間があるものの最難関の国立大学ですら入学確実と噂がたっている。

だからこそ、教師達も態度も悪く校則をいくつも破っている玲に強く出ることが出来ず、せいぜい明らかな皮肉を孕んだ嫌味を投げることが関の山なのだ。

万が一、退学にでもさせてしまったら難関大学への合格者という有望株を失うことになるからだ。

久城沙也加にとって、校則を破り自由奔放に生きているように見える玲の成績を超すことができないのが酷いコンプレックスなのだろう。


普段の玲であれば、明らかに自分を挑発するような沙也加の言葉に反論することはない。波風を立てることは、退屈を持て余すクラスメイト達にとって一時的な退屈しのぎに使われるだけだ。

だが、今日は、今日だけは違った。朝方見た今にも泣きだしそうな顔をした少女の姿が、玲の脳裏をよぎる。

あの時、自分は何もすることができなかった。自分は一度、彼女に助けてもらったことがあるのに、彼女が追い立てられている時自分は手を差し伸べることすらできなかった。


(……こんな時、あの人だったら黙っていないよな)


記憶の底に浮かぶ懐かしい華やかなドレスを着たその姿を思い出した時、玲は思わず席から立ちあがっていた。

普段であれば無視を決め込む寡黙な玲が突然反応したことに驚いたのだろう。一瞬笑みをひきつらせた後、沙也加はわざとらしく声を上げた。


「え、何?何怒ってるの?もしかして楡井さんの事気になってるの、図星だったとか?」


ならやっぱり付き合っちゃえばいいじゃん、と笑う沙也加に同意するように、彼女の周りを囲んでいた取り巻き達も同じ笑みを浮かべて見せた。

沙也加の言葉に、玲は何も答えない。

だが無言で立ち上がったまま、足を沙也加の方に向けると彼女が朝から飽きることなく眺めている、鮮やかなロリータ服の少女が映し出された携帯電話をつかみ上げた。


「ちょっと、何するのよ」

「いい加減にしろよ、お前。これ全部盗撮だろ」

「はあ?だから何よ、こんな目立つ格好してる方が……」


悪いんじゃない、という沙也加の言葉は最後まで紡がれることはなかった。

午後の学校には似合わない、聞きなれない不思議な音が開け放たれた扉の向こうから響いてきたからだ。

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