第12話

部屋へ戻り、寝台の上で泣き続ける栞の背をマリーはそっと撫でた。

それで栞の傷が癒えるとは思えない。だが、この世界で何も持たないマリーが今できることはそれだけだったのだ。


「ねえ、シオリ。どうしてシオリは泣いているの?一体だれが貴女を傷つけたの?この世界は……私から見るとても素晴らしい世界なのに」


マリーはこの世界のことをまだほとんど知らない。

それでも、マリーにとってここは楽園のような場所だった。町に出れば誰もが笑っていて、見たこともない美味しいものや便利なものがたくさんある。素敵なお洋服を自分の好きなように着て、好きなように振る舞うことができるのだ。

王妃としての立場や慣習に縛られて生きることを強いられたマリーにとって、この世界は誰もが自由を謳歌する素晴らしい世界に見えた。

だが、枕に顔を押し付けたまま栞は消えてしまいそうな声でつぶやいた。


「ここは、私にとってそんな……マリーが言うような良い世界じゃない」


涙でかすれてしまった声で、栞は静かに語り始めた。



◆◆◆



幼い頃、栞はひどく人見知りの少女だった。

内気な性格が災いし、人前に出るとうまく話せなくなってしまう。そのためか、ほとんど同年代で友達と呼べる存在もいなかった。

小学校でも、クラスではほとんど一人きり。

できるだけクラスの中で目立たないように、栞はクラスの隅で本ばかり読んで日々をやり過ごしていた。そうなると当然着ているものも黒や茶色といった地味なものばかりになってしまう。

本当は時折クラスで人気者の女の子が着ているような、フリルのたくさんついた可愛らしい服を着てみたかった。だが、自分がそんな服を着て学校にきたら、もしかしたら笑われてしまうかもしれない。

そう思うと、憧れだけが募るもののどうしても両親に「買ってほしい」と言い出すことができなかった。


そんな中、ある日父親と出かけた先で栞はロリータ服姿の少女達に出会った。

心の中で憧れていた夢を詰め込んだようなお洋服。

ふんわりとパニエで膨らんだスカートに、まるで鮮やかなケーキのように飾られたドレス。石畳を歩くたびにこつこつと音がなる丸みを帯びた靴も、歩くたびに揺れるレースとスカートも何もかもまぶしすぎて、栞は目を離すことができなかった。何の変哲もない街中なのに、まるで絵本の中に迷い込んでしまったような、そんな錯覚すら覚えてしまうほどだった。

思わず彼女たちの姿に見惚れてしまい、足を止めてしまった栞の耳に冷たい言葉が聞こえてきた。


「……何あれ、やば」

「こんな街中で恥ずかしくないのかな」


くすくすと響くその声は、幼い栞でもわかる嘲りの笑いだった。自分が笑われたわけでもないのに、栞は恥ずかしくなってその場でうつむいてしまう。それは自分がもし可愛らしい恰好をして学校にいったら、きっとこんな風に笑われてしまうのだろうと思い描いていた通りの笑い声だったからだ。

悪意を孕んだ嘲笑を向けられた少女たちは、いったいどれほど傷ついただろうか。

そう思い栞が顔を上げれば、そこにいたのは全く傷ついた様子などなく、先ほどと同じ凛とした姿でたたずむ少女達だった。

決して顔を伏せることなく、ただ前を見つめるその姿に思わず開いてしまった栞の口から感嘆の声が漏れる。


「……きれい」


それは少女たちの格好だけではない、自分が好きなものに対して誰に何を言われても胸を張れる、その姿への称賛だった。それはまるで物語に出てくる気高い本物のお姫様のようだった。

栞の口から洩れた小さな声が届いたのか、少女たちはにこりと笑みを返すとそのまま小さく手を振り歩き去って行ってしまった。


「……いいなあ」


ぽつりとつぶやいた栞の頭をなでながら、父はこう言ってくれた。


「栞だって……いや、栞だけじゃない。誰だってお姫様になれるんだよ」


と。あの時から、栞はいつか自分の彼女たちのように、あのドレスを着てみたいと思っていたのだ。

だが、現実は絵本のようにハッピーエンドを迎えることはない。栞が中学へ入学する前に、両親が離婚をしたことで栞の生活は一変してしまった。


父は栞を置いて家を去り、母は女手ひとつで栞を育てるため、仕事でほとんど家へ帰らなくなってしまった。自由でいることが何よりも大切だと教えてくれた父と違い、母は栞に対し誰よりも厳格だった。

母が栞に求めたのは、誰より普通の「優等生」であること。髪を染めることはおろか、他人より少しでも異なる派手な格好をすることさえも母は嫌った。

誰よりも模範的な優等生であることを望んだ母に従い、栞は名の知れた進学校に入学した。

校則を完璧に守った長いスカート、肩口までで切りそろえた黒髪、白い靴下に既定の革靴。まるで量産型のお人形。

母の望み通り、誰よりもまじめな優等生としての仮面をかぶり続けたが、心の中で温め続けた思いは消えることがなかった。


(……本当になりたい私)


それはあの日みた少女たちのような、あのドレスの元になった時代を生きた王妃マリー・アントワネットのような、自分を偽ることのなく生きる女の子。

隠し続けた思いを抱いて、栞はついに一着のロリータ服を手に入れた。華やかなお店の中で、ほかのドレスより少し落ち着いたデザインの深紅のワンピース。それでも、栞にとっては世界にたった一つの、自分のためのドレスだった。

たった一日、それを着て町を歩くだけでよかった。

ただそれだけだったのに、偶然居合わせたクラスメイト達の目に映る栞は完全に異端児だった。

学業に専念し、教師の言うこと、校則を守る優秀な生徒たち。彼らにとって栞の姿は奇異に映ったに違いない。

翌日、栞を待っていたのはクラス中の嘲笑だった。

本当は胸を張ればよかったのだ、あれは私が本当になりたい自分の姿なのだと。だが、栞ができたのはただ俯いたまま今日と同じように教室から逃げ出すことだけだった

それは今も同じ。今日だって何一つ言い返すこともできないまま、栞はただ逃げることしかできなかった結局、マリーと出会ってもあの日から私は何一つ変わってはいないのだ。



嗚咽を漏らし続ける栞の背をなでながら、マリーは静かに口を開く。静かに肩を震わせる少女が、かつて鳥かごのような宮殿で誰にも知られぬよう涙を零した自分と重なって見えたのだ。

オーストリアで暮らした自由で懐かしい少女時代。

幼いころ当たり前であったことをするだけで、宮廷中から陰で笑われ続け一体どれだけ辛く苦しい思いをしただろうか。


「……ここは何もかも自由に見えるけれど、栞にとっては私の知るヴェルサイユと同じなのね」


着替えも食事もすべて規則で縛られて、落ちたものすら自由に拾うことのできなかった嫁いだばかりの頃の堅苦しいあの宮殿。自由に振る舞おうとするたびに失望され、陰で嘲笑され続けた。

栞にとってこの世界は、そして学校という場所はひどく狭い鳥籠とさして変わりがないのだろう。


(……この国の学校、という場所がどんなところか私にはわからないけれど)


一つだけわかることがある。それはマリーにとって友人である栞を傷つけた誰かがそこにいるということだ。


(シオリのことは私が守ってあげるって、約束したもの)


規則にマナーにエチケット。古くから続くしきたりを破ることはマリーにとって日常茶飯事、むしろ大得意なことといっても過言ではない。

マリーは寝台から降りると、押入れを開け放ち奥にしまい込まれていた深紅のドレスを手に取り振り返る。何が起きたのかと泣き腫らした顔を上げる栞を見つめ、マリーは不敵に微笑んで見せた。


「さあ、シオリ。泣いている時間はなくってよ。私と一緒に舞踏会へ出かけましょう?」

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