第11話

時は少し前まで遡る。


一歩、また一歩。栞は下を向いたまま歩き続ける。ほとんど使っていない上靴は、入学してからずいぶん日がたつというのにほとんど真っ白なままだ。

出来るだけ何も視界に入れないよう、うつむいたまま歩く栞の視界に移るのは、同じ学校の生徒たちの上靴だけだ。

自分のより汚れ始めているそれは、持ち主がまっとうな学生生活を送っている証拠に他ならない。


(……こんな時、マリーなら)


きっと彼女が今の自分と同じ状況なら、うつむく事無く顔を上げ、まるでここが広間に続く廊下だとでもいうように胸をはって歩いていけるのだろう。

校門をくぐるだけでも心臓が破れてしまいそうなほど痛く、今でも向こう側から誰かが通り過ぎるだけで滑稽なほど体を縮こまらせてしまいそうになる。何度も、何度も逃げ出しそうになる足を栞は必死に叱咤した。


(……大丈夫、大丈夫)


どんな場所でも私が私であることに変わりはしない。そうマリーはそう言っていた。

何も悪いことをしたことがないのは、自分が一番よく知っているではないか。ただ自分らしくあっただけなのだから、堂々と胸を張ればよい。自分の好きな服を着ていたあの日の自分を恥じる必要なんてないのだから。

たとえクラスに一人も味方がいなかったとしても、今の自分にはマリーがいる。

どんな時でも絶対に自分の友達だと笑ってくれた彼女がいる。


(普通に挨拶して、席に着く。ただそれだけ) 


クラスの扉の前で栞は大きく息を吐き、扉の取っ手へと手をかけた。


(……あれ?)


顔を上げたばかりの栞でも、自身を襲う違和感に気が付いた。


(なんで、こんなに静かなの?)


朝礼前、登校したばかりの学生たちが集う教室がこんなに静かであるはずがない。

クラスメイトの殆どがすでに登校しているというのに、集まった彼らの視線はまっすぐに扉の前にたたずむ栞へと注がれている。好機を孕んだその視線に、栞は嫌というほど既視感があった。 


「あれ、楡井さんじゃん。ずいぶんお久しぶり?」


楽し気な声をあげたのは、入り口のすぐそばにいたクラスの中でも中心的立場の少女だ。


(あの子……確か、名前は久城沙也加)


一度も染めたことのない、墨を溶かしたような黒髪に、校則通りの丈のスカート。

美しい顔立ちで生徒の模範のような彼女のことが、栞はひどく苦手だった。

栞のクローゼットにある深紅のドレス、あのロリータ服の写真をとってクラスの皆に見せて回ったのも他でもない彼女なのだ。


「元気にしてた?体調崩してるって聞いたから心配してたんだよ」


うわべだけ聞けば本当に栞の事を心配している優しい声。まるで栞が不登校になる原因を作ったのは自分ではない、とでもいうように、心配そうな顔に穏やかな笑みを浮かべて見せた。


「でも私、驚いちゃった。先生が体調を崩して学校に来れないって言ってたから心配してたのに、あんな素敵な格好で遊びまわってるなんて」


心配して損しちゃった、とわざとらしく声を上げ少女は自身の携帯を掲げて見せた。


「……なんで、この写真」


沙也加の手に握られた携帯の画面に映し出されているのは、昨日夢のようなロリータ服に身を包み、マリーと共に楽しそうに笑いながら歩いている自分の、栞の姿だった。


「……なんで、これ。いつ撮ったの」


何とか絞り出した声をかき消すように、続け様に写真が送られてくる。次々にグループラインに更新されていく写真、クレープを食べている姿、ショーウィンドウを覗き込む姿、どれも栞は取られた記憶がないものばかりだ。あの時、あの場所に沙也加の

投稿される鮮明に顔が映っているその写真は、一枚として視線が合っていない。

一目で隠し撮りとわかるその写真を送ってきた少女は、楽しそうに笑いながらゆっくりと口を開いた。


「昨日偶然見ちゃったんだよね、素敵じゃない」


本心では全くそう思っていない。明らかに悪意を含んだ笑みを浮かべ、沙也加はそう言った。

私なら恥ずかしくて無理だけど、と続ける沙也加の言葉にこたえるようにくすくすと小さな笑いがクラスへと広がっていく。

あの日と同じ嘲笑がクラスの中へと波のように広がっていく。


(……恥ずかしがる必要なんて)


ない、頭では理解しているのに視界が徐々に黒く塗りつぶされていく。まるで水の中に顔を押し当てられたようにうまく息ができない。

落ちこぼれ、恥ずかしい。このまま学校に来なければよかったのに。

一つ一つは小さなつぶやきのような言葉が、針となって栞へと突き刺さる。


(……ああ、やっぱり駄目だ)


頭の中に描いていたマリーの姿が、まるで黒い絵の具を塗りつぶされたように消えていく。朝から胸の中にともしていた小さな炎が消されてしまった感覚に、栞は足を翻した。

これ以上この場にいたら、きっと立っていることができず崩れ落ちてしまう。彼らの前でそんな無様な姿をさらしたくない、足を翻したのは栞の中に残っていた最後の矜持だった。

こぼれそうになる涙を何とか耐え、栞は翻した足を一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。


「……楡井、何かあったのか?」


そのまま廊下を駆けだそうとした栞の鼻先が、何かに、いや正確には誰かにぶつかってしまう。先ほどまで耳に届いていた悪意に満ちた笑い声ではない、本当に栞のことを案じるその声に栞はゆっくりと顔を上げる。

いつの間に背後に立っていたのか、そこには一人の青年の姿があった。

この学校の中では明らかに異質な校則から逸脱した明るい髪。栞がまだ学校に通えていた時から、他のクラスからも「不良」と称される沢城玲の姿がそこにあった。

いつもどこか気怠そうにしている彼と、栞は直接言葉を交わしたことはない……はずだ。だが、今にもその場で崩れ落ちてしまいそうな栞を案じたのか、彼の手が栞の腕をつかんだ。


「……大丈夫か?」


何か答えなければと、栞が口を開いた瞬間だった。


「あれ、なんか二人良い雰囲気?」

「変わり者同士、良いコンビじゃん。お似合いお似合い」


クラスの中から再び栞と、そして玲を揶揄う声が響いた。その声から逃げるように、栞は掴まれていた腕を無理やり振りほどき廊下へと躍り出た。 

彼が自分の身を案じてくれていたことも分かっている。だが今の栞には一刻でも早く自分を追いかけてくる笑い声から、逃げ出すことしかできなかった。

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