第10話

壁にかかった時計がゆっくりと時間を刻んでいく。


時計を見るとどうしても思い出す物がある。オーストリアから嫁ぐ際、母から送られた金色の懐中時計。あの時計を手に何度時間を巻き戻せたら良いと願っただろうか。

カチコチと時を刻み続ける秒針を眺めながら、マリーは気怠い身体を押入れから起こし大きく伸びをする。


「この世界の学校、ってどんなところかしら」


栞は学校を勉強するための場所だと話していた。

どうやらこの世界では男女、身分関わらず誰もが勉学に励む場所があるらしい。

勉強という言葉に、マリーは思わず身を震わせる。


「……私、勉強なんて大嫌いだわ」


小さな頃からマリーは勉強や本が大嫌いだった。語学に歴史、歌。沢山の教師たちがマリーについたが、どれも満足にこなせた試しがない。

唯一ダンスだけは得意だったが、他の事は今思いだすだけでも身震いしてしまう。

幼い頃は教師達の目を盗み、姉妹達と庭に逃げ出し遊んでは教師たちを困らせたものだ。自由奔放だった少女時代、懐かしい故国のオーストリア。

何もかも、今では過ぎた夢の中だ。


「シオリ、今日もあのお洋服着ていかなかったわ」


一目でわかる程の決意を抱いた栞だからこそ、あの深紅のドレスを身に纏うのだとばかり思っていたのだが。栞が手にしたのはあまりにもシンプルな洋服だった。

胸元にリボンが一つついたシンプルな上着と、マリーにとってはまだ短いと抵抗を感じてしまうスカート。

華美を取り除いたような、まるで兵士の着る隊服にも似たそのドレスを身に纏い栞は扉から出ていった。何度も何度も大きく息を吐き、震える手で扉を握り最後にマリーを振り返った。


「行ってきます」


決意に満ちたその姿を見送ったのが一時間ほど前のことになる。栞の話では、帰宅は夕方頃になるということだ。


「お腹すいちゃった」


ぐう、と空気を読まず空腹を訴える体にマリーは溜息を吐く。本音を言えば、我が儘をいって栞についていきたかった。だが、きっとそれは栞の邪魔になってしまうのだろう。


『勝手に外に出なければ、台所にあるものを食べて良いからね』


ふと、マリーは栞が言い残していったことを思い出した。栞曰く、彼女の母親は仕事で日中家をあけているため夜まで返ってくることは殆どないという。


「……ふふ、こちらにもクロワッサンがあるのね」


栞からは冷凍庫と呼ばれる冷たい箱に入っているものを温めて食べて良いと言われているのだが、マリーはまだ電子レンジと呼ばれるものを一人で使うのは抵抗があった。

火も使わず氷のように冷たい何かを温めるだけで食事が出来上がるなんてまるで魔法だ。もしかするとあの機械は魔法が使えないと動かない可能性もある。

元の世界にあった好物と似たパンであれば、安心して食べられるだろう。

マリーの記憶にあるクロワッサンよりも、さくさくとした其れを頬張りながら、白い陶器のコップに甘い香りのする黒い粉を入れていく。

これも栞に教えてもらったものだが、甘い香りのする粉にお湯を注ぐだけでショコラが出来るという優れものだ。

お湯を注ぐだけなら、まだこの世界のことを殆ど知らないマリーでも難しいことではない。


「……甘い」


口の中に広がる甘い味にマリーは思わずため息を漏らす。

この世界にはなんて素敵なものが沢山あるのだろう。何もかもが便利で、自由で、誰も自分の事を気に留めない世界というのは何と居心地が良いのだろうか。


「此処がベルサイユだったら、ノアイユ伯夫人が黙っていないわね」


コルセットもせず、だらりと椅子に腰かけている今の姿をみればきっと顔を青ざめてこういうに違いない。


「エチケットに反しています、ってね」


わざとらしく厳めしい声でかつての付き人の真似をしてみたが、一人でやってもただ虚しいだけだ。せめて話し相手がいれば退屈がしのげるのだが。


「……そういえば」


マリーは栞の部屋へと戻ると、昨日栞が貸してくれたワンピースのポケットへと手を伸ばした。栞と街を散策した後、ドレスを貸してくれた朝霧が自分へと何かを手渡していたのを思い出したのだ。


『今度モデル代を渡さないといけないから、時間が出来たら連絡して』


そういうと、朝霧はマリーへと小さな紙を手渡した。


「……当たり前だけど、フランス語ではないわね」


掌に収まる程度の小さな紙に、必要最低限書かれた文字と数字。名前は分かるが、その下にメールアドレス、と書かれた数字と英語の羅列は何を意味しているのか良くわからない。


(私、文字が読めるわ)


小さな紙に書かれているのは、フランス語でも母国のドイツ語でもない、全く知らないはずの言葉だ。

書かれている文字の一部に見覚えのあるものもあるが、その殆どが一度も見た事が無い言葉のはずだ。だが、何故か不思議と文字を読むことが出来てしまう。

読む、というよりも目で見た内容が直接頭の中で自分の知っている言葉に変換されている、というのが正しい感覚だろうか。

何故文字が読めるのかはわからないが、其れを言ってしまえばマリーがこの世界に存在していること余程不思議なことなのだ。文字が読めることくらい、今更驚くことでもないだろう。


「……それなら、もしかして」


マリーは立ち上がると、栞の寝台の横に置かれた本へと手を伸ばす。文字が読めるとなれば、得られる情報は格段に増える。

正直勉強の本を読むのは大嫌いだが、自分が生きた世界とは何もかも異なるこの世界の文字が読めるとなれば話は別だ。

少しでもこの世界について知る事が出来れば、そう思いマリーは栞の寝台の横にある本棚へと手を伸ばした。どうやら栞は自分と違い、本を読むことが好きな性分らしい。本棚には隙間ないほどにたくさんの本が詰め込まれていた。


「あら、これ面白そう」


最初に手にしたのは、マリーが知る本とは全く違うものだった。可愛らしい少女の絵が描かれた本を開けば、見たこともないタッチで描かれる絵と会話と共に物語が進んでいく。こんな本がベルサイユにあれば、自分もきっと本を進んで読んでいたことだろう。

思わず読み進めてしまう手を止め、マリーは慌てて首を振った。確かに面白い本ではあるが、今読むべきなのはこの本ではない。


(どれが良いかしら…)


指を進めた先に、いくつか殆ど使われていない真新しい本が並ぶ一角があった。他の本は何度も読み返されてボロボロだというのに、それらだけは殆ど開かれていないように真新しい。

高校英語、数学…と並び、世界史と題名が降られた本がマリーの目に留まる。

世界史、と書かれているからには、きっとこの世界の歴史について書かれたものなのだろう。オーストリアでの少女時代の苦い思い出が脳裏をかすめ、マリーは思わず盛大に顔を顰めた。

だが、早速開こうと伸ばした手は、何故か指先で時が止まったようにぴたりと静止してしまう。


(……どうしてかしら、開けてはいけない気がする)


手にした本は決して厚い本ではないはずなのに、まるで鉄でできているように重く感じてしまう。

たった一ページ紙を捲るだけだというのに、何故か酷い悪寒がする。窓から差し込む日差しは暖かなはずなのに、身体が震え本を開くことを拒絶するのだ。

この本を開いてはいけない、そうマリーの本能が訴えていた。


「……っ、は」


上手く呼吸が出来ず、マリーの額を冷たい汗が流れ落ちる。

世界から音が消え去りこの世界に自分と本しかなくなってしまったような奇妙な感覚に襲われた。意思に反して全く動こうとしない指先に力を込めた瞬間だった。

バタン、と乱暴に扉が閉まる音が響く。


部屋を震わせるように響いたその音に、マリーは息をするのを忘れていたことを思い出した。

止まっていた世界に音が戻ってきたことに安堵し、マリーは浅く息を吐く。


(……誰かしら?)


栞が帰ってくるにはまだ早すぎる時間のはずだ。

手にした本を慌てて本棚へと戻し、マリーはそっと部屋の扉を開けた。

息を潜めながらおそるおそる玄関へと目を向ける。

だが次の瞬間、ドアを開け放ち玄関に蹲る人影の元へと駆けだしていた。


「シオリ…!一体どうしたの?何があったというの?」


最初に目に入ったのは廊下に落ちた鞄と、零れるように散らばった本。

そしてその先に床に蹲り身体を震わせる栞の姿があった。

マリーの声が聞こえていないのか、栞は顔をあげることすらしない。だが、喉から絞り出すような苦し気な嗚咽がマリーの鼓膜を震わせた。


「シオリ、大丈夫?」


問いかけへの答えは何もない。だが、労わるようにもう一度声をかけた瞬間、マリーの腕の中に栞が飛び込んできた。


「……マリー」


一体どれだけ泣いていたというのか、両の目は涙で濡れ酷い有様だ。

本当は声を上げて泣きたかったに違いない。栞はこの家につくまで、必死に声を堪えていたのだろう。

マリーの胸の中で、栞は堰を切ったように泣きながら、ゆっくりと口を開いた。

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