第9話
「……朝」
携帯から響くアラームを止め、栞はごろりと寝返りを打った。
いつも通りの天井、いつも通りの部屋の風景、いつも通りの朝。
一つだけ違うのは、いつも目を覚ませば体も心も鉛のように重いのに、不思議と今日は少しだけ身体が軽くなったような気がすることだ。
まるで檻のように感じていた自分の部屋が、何故か急に温かな巣床のように感じられてしまう。カーテンの隙間から差し込んでくる光に目を細め、栞はふと押入れへと目を向けた。
大きく開いた押入れからは、朝日を受けてきらきらと輝く柔らかなプラチナブロンドの髪がのぞいている。そこには昨日の威厳に溢れた姿と同じ人物とは思えない程間抜けな顔で寝息を立てる少女の姿があった。
「マリー……マリー・アントワネット」
栞は押入れで眠る少女に聞こえないよう小さな声で呟くと、寝台の傍に置かれた本棚の中から、色褪せた子供用の絵本を一冊引き抜いた。父親に買ってもらった本だが、ここ数年開いていなかったせいで本にはうっすらと埃が積もってしまっていた。
子供用でもわかるように、イラストが多く使われた本ではあるが一通りの歴史は学べるようになっている。
フランス革命、と表題がふられたページには王侯貴族から市民へと移り行く歴史の流れと共に、美しい貴婦人の肖像画と群衆に囲まれ罪人のように断頭台へと連れていかれる女性の姿が描かれていた。
「……う、ん」
押入れから響く寝言のような声に、栞は慌てて本を閉じ振り返る。
教科書に描かれていた貴婦人と同一人物である少女、マリーはどうやらまだ眠りの底に居るらしい。
再び部屋の中に響く穏やかな寝息に栞はそっと胸をなでおろした。出来るだけ音が響かないよう、栞は手にしていた本を机の引き出しの中へとしまい込んだ。
(……まだ、信じられない)
栞はベッドから降りると、静かに押入れへと近寄った。絹のような髪に長い睫毛、年の割に幼く見える顔立ち。どうみても栞とほとんど年齢の変わらない彼女は、悲劇の王妃として散った年齢のマリーではない。
一体何故、彼女が全く異なる時代の自分の元に現れたのかは分からない。
だが、昨日彼女はこういった。誰一人彼女を知るものがいないこの世界でも、自分は自分なのだと。歴史の中で彼女は断頭台に連れていかれる際も王妃として毅然とした態度で死に臨んだのだという。
彼女は王妃としての地位も、ドレスも宝石も何もかも奪われもなお、王妃マリー・アントワネットとしての尊厳を失わなかったのだ。
(マリーが私の所に来たのはきっと意味がある)
こんな考えは都合の良い思い込みだとは分かっている。
だが、昨日まで鉛のように沈んでいた心が、マリーと出会ってから不思議と少しだけ軽くなった気がしたのだ。
「……マリー」
今度はしっかりと聞こえるように、栞はマリーの耳元で声を掛ける。声が届いたのか押入れの中で眠っていた少女は数度ゆっくり瞬くをすると、細い身体を起こし大きく伸びをしてみせた。
「あら、栞……御機嫌よう。もう朝なのね、今日も何処かへお出かけするの?」
余程昨日の出来事が忘れられないのか、期待に満ちた顔で見つめられ、栞は静かに首を横に振った。
「ううん。今日は私、学校に……行って、くる」
途切れ途切れの言葉を必死につなげ、栞は言葉を絞り出した。自分でも笑ってしまう程、最後の方は酷く声が掠れてしまっていた。
怖くないといえば嘘になる。今こうして学校にいく、と口にしただけでもクラス中から向けられる嘲笑と好奇の眼差しを思い出し足が竦んでしまいそうだ。
だが、栞は昨日見たマリーの姿を脳裏に思い浮かべた。
艶やかなロリータ服を身に纏い真っ直ぐに前を向いた彼女の姿が、瞼に焼き付いて離れない。自らを知る人間がいなくとも、王妃マリー・アントワネットとして佇んでいた彼女の姿は栞の中に確かに小さな火を灯した。
「私も、一緒に行く?」
気遣うようにかけられたその言葉に、栞はゆっくりと首を振った。
「……そう」
今より数百年前を生きたマリーにとって、栞の通う学校がどんなものかは分からない。だが、小さく震える栞の手が、昨日よりも青ざめた彼女の顔がその場所に行くことがどれだけ勇気がいることなのか訴えていた。
それほど恐ろしい場所に、栞は今から一人で向かおうとしているのだ。
「……シオリ」
「まだ、マリーみたいにはなれないけど。少しだけでも変われるかもしれない」
マリーが自分の元に来たことに何か意味があるのなら、少しでも自分の足で前に踏み出しみよう。そう思えたのだ。
「……分かったわ。いってらっしゃい、でも忘れないで。何があっても、私はシオリのお友達だから」
その言葉に栞はゆっくりと頷いた。
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