番外編①
「やっと、終わった……」
今日何度目になるか分からない深い溜息と共に、シオリはダイニングテーブルにぐったりと体を伏せる。まさか突然部屋に現れた少女を風呂に入れるだけでこんなに大変なことになるとは思わなかったのだ。
自分と同じ年頃の少女が、シャワーもシャンプーもドライヤーも知らないなどありえるのだろうか。これでは本当に彼女が十八世紀のベルサイユから現代にやってきたマリー・アントワネットのようではないか。
タイムスリップという言葉が脳裏をよぎり、栞は慌てて首を振る。
そんな非現実な、物語のような出来事が起きるはずがない。
ちらりと腕の間からマリーを見れば、今はおとなしく椅子に座ってくれているものの先ほどから物珍し気にあたりをきょろきょろと見回している。
だが、突然ぴたりと動きを止めた瞬間、栞の耳に「ぐう」と何とも言えない情けない音が聞こえてきた。
一体何の音かと顔を上げれば、今度は顔を赤く染めたマリーと目があい、栞はすっかり夕飯時の時間を過ぎてしまっていたことを思い出した。
(……もうこんな時間)
突然部屋に現れたマリーの相手ですっかり忘れてしまっていたが、栞も空腹を思い出した。
「……夕ご飯にしよっか」
「私もごちそうになって良いの?」
「いいよ、普段マリーがどんなものを食べてるか知らないけど」
少しばかりの皮肉を交えてそう答えれば、マリーは何か考えるように首を傾けた後、ゆっくりと口を開いた。
「そうね。日によるけれどポタージュに、アントレが続くでしょう。その後はローストしたお魚が……」
「残念だけど、うちには今冷凍パスタしかないから」
まさか彼女はこの狭いアパートのダイニングテーブルで晩餐会でも始めるつもりなのだろうか。残念ながらここはヴェルサイユでもなければ、貴族の食卓でもない。現代の庶民が慎ましく暮らすアパートの一室なのだ。
「れいとうぱすた?」
マリーの声に栞は疲れた顔で台所にある冷蔵庫を指差した。
「あそこに入ってるから、好きなの選んで食べていいよ」
冷凍パスタであれば火を使う調理の必要はない。
普段であれば適当にインスタントラーメンなどの食事を作ることもあるが、流石に今は台所に立つ気力も体力も残っていない。冷凍パスタならば電子レンジで温めるだけでどんなに料理が下手でも簡単に作ることが出来る。まさに食品会社の英知を集めた現代の便利食だ。
そう、どんな人間でも簡単に調理できる。そのどんな人間にも、にマリーが当てはまらないことを疲れ切った栞は忘れてしまっていたのだ。
「マリー!」
栞は慌てて台所へ向かったマリーを振り返る。そこには案の定、栞が想像した光景が広がっていた。
「この箱の中とっても冷たい、まるで氷室だわ!一体どうなっているのかしら?」
冷蔵庫から製氷室、冷凍庫まですべての扉を全開にして、体を冷蔵庫の中に入れて中を調べようとするマリーに栞は悲鳴をあげる。
「ちょっと、マリー!勝手に全部開けないで!」
「れいとうぱすた、というのはこれかしら!こんなに冷たいものをシオリは食べるの…?」
食文化の違い、というものもあるものね。と何ともいえない視線を向けてくるマリーは絶対に何かを勘違いしている。そもそも、シャワーもドライヤーも本当に彼女が知らないのだとしたら、電子レンジで温める冷凍食品など知っているはずがない。
(一体どこの世間知らずなお嬢様なのよ!)
マリーがどこの誰かはしらないが、頭のねじが数本外れた一般常識を全く知らない何処かのお嬢様だというのならまだ納得ができる。
「貸して!これはその隣の機械で温めるの!」
「まあ、こんな小さな箱で……?」
流石にそんなことは無理だろう、と訝しむマリーを無視し、栞は二人分の冷凍パスタを電子レンジで温めた。レンジの扉を開けた瞬間、マリーは大きな目をさらに見開き驚きの声を漏らす。
「シオリの言う通り本当に氷が料理になったわ…!なんて便利なものがある世界なの」
「はいはい、感動してるところ申し訳ないけど。早く食べないと冷めるから」
「ええ、ええ!一緒に頂きましょう!」
マリーにはカルボナーラ、栞の前には明太子パスタ。
栞にとっては何の変哲もない食事だが、もし目の前の少女が本当に何処かのお嬢様だとしたら「こんな貧相な食事」と口に運んだ瞬間怒り出すかもしれない。それこそ自分を王妃マリー・アントワネットだと思い込んでいる少女ならなおさらだ。
だが、マリーの口から洩れたのは栞が全く想像していないものだった。
「誰にも見られずに、安心して誰かと食べるお食事ってこんなに美味しかったのね」
「……え?」
「い、いえ!なんでもないの。でも本当にこのれいとうぱすたは美味しいわ!シオリはいつもこんな美味しいお食事を頂いているのね」
マリーの言葉に、栞はフォークにパスタを巻き付けていた手を止める。確かに今食べている冷凍パスタは味は良い部類に入るのだろう。
(……美味しいって、なんだっけ)
一人きりで食事を取るようになってから、思い返せば何かを美味しいと思ったことがない。母親の作る食事は罪悪感から喉を通らなくなり、ただ空腹を満たすために食事を取る毎日だ。
最後に何かを美味しいと思って食べたのはいつだっただろうか。ふと脳裏に幼い頃このテーブルで囲んだ家族の食卓が脳裏をよぎるが、栞はその記憶を振り払うように首を振る。
「シオリ、どうしたの?」
「何でもない。それより、早く食べちゃって」
不思議そうにこちらを見つけてくるマリーから顔を背け、栞は味の感じられないパスタを口に運び続ける事しかできなかった。
◇◇◇
「……オリ、シオリ。アイスが溶けてしまうわよ」
隣から響く声に我に返れば、となりから心配そうにこちらを覗きこんでくるマリーと目が合った。顔を上げれば、少しずつ日が暮れていく街が目に映る。
「ごめんね、なんだかまだ……夢でも見てるみたいで」
目の前にいるのが本物の王妃マリー・アントワネットだということも、二人でロリータ服を着て笑ってアイスを食べていることも、まだ信じられない。
もしかしたら瞬きをした後に全て夢のように消えてしまうのではないかさえ思えてしまう。
「私も、こちらの世界に来てからまた信じられないことばかりよ。それにしても、まさかこちらにも氷菓子があるとは思わなかったわ」
「マリーがいた時……ううん、世界にもアイスってあったの?」
「ええ、氷とクリームを混ぜた氷菓が大好きだったわ。でも、こんなに鮮やかな色で口の中で飴が弾けるようなものはなかったけれど!」
その言葉に栞は思わず吹き出してしまう。確かにマリーが選んだアイスは、口の中でぱちぱちと弾ける楽しい味のアイスクリームだ。流石にベルサイユでも味わうことができない一品だろう。
「シオリのそれはどんな味なのかしら?」
「これ、チョコミントっていうんだけど食べてみる?結構好き嫌いは分かれる味だけど」
「ええ!ならシオリも私のを食べて頂戴。一口ずつ交換しましょう」
マリーから手渡されたアイスを口に運べば、ぱちぱちと始める飴の味が口の中に広がった。
(そういえば、昔はこれ好きだったな)
いつの頃からかあまり食べなくなってしまったけれど。不思議な食感が面白くて、両親と外出の時に食べるこのアイスが大好きだった。
「シオリ、チョコミントって不思議な味がするのね」
「……人によっては歯磨き粉っていう人もいるからね。苦手だった?」
アイス好きの間でも論争が繰り広げられる味なのだ。マリーが苦手でも仕方がない。そう思ったのだが。
「いいえ、不思議な味で最初は驚いたけど!とっても美味しいわ。これがシオリの好きな味なのね。シオリも私のアイスは美味しかったかしら?」
そう笑いかけられ、栞は舌の上に残った味を飲み込んだ。
(……そういえば、ちゃんと味がした)
マリーからもらったアイスも、先ほどたべたチョコミントも。
昨日食べたあの冷凍パスタは殆ど味なんて感じていなかったというのに。マリーと出会ってから、いろいろなことが目まぐるしく変わっていく。
「うん、美味しかった」
「良かった!そのアイス、私が好きな味よ。忘れないでね」
忘れることなど出来るはずがない、と栞は心の中でそう呟いた。
誰かと笑いあいながら食べる事が、こんなに幸せだということをマリーが思い出させてくれたのだから。
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